第71話 合わせ鏡
鏡の迷路を、侑子は進んだ。
侑子の手を取りながら、「すごいな」「外から見るより、ボリュームがあるな」と、裕貴の感心する声が時折聞こえてくる。
少しだけ開けた空間に出た。
透明なベンチが数台置いてある。休息スペースだろうか。
「他のお客さんが、誰も来ないね」
足を止めた二人は、やってきた方向へ目を向けた。後続が近づいてくる気配はない。
「地味な佇まいだったから、目立たないんだろうな。ミラーハウスって名前も、捻りがないし」
応えた裕貴は、ベンチに腰掛ける侑子を見つめて、付け足した。
「俺には好都合だけど」
ワンピースのバックボタンの一番上を外すと、素肌にくっきりと残るキスマークが見える。その場所を、裕貴の指がそっとなぞった。
「遊園地の人、見てるかもしれないよ」
咎める口調の侑子に、悪戯そうな笑みを裕貴は返した。
「さっきの鏡、ちょっと出してみて」
「これ……?」
青い螺鈿細工のミラーを、バッグから取り出した。やはりその鱗模様を目にして、胸が鳴った。
裕貴はミラーを受け取ると、向かい側の大きな一面鏡に映る侑子の顔の真下に、鱗模様が見えるようにあてた。
「やっぱりこの模様、侑子によく似合う。色が合ってるのかな。この柄を見た瞬間、侑子のだって思ったんだ」
「それ、どういう意味なの」
「? 侑子にぴったりって意味だよ。青が似合う。とても綺麗だ」
どんな顔をして裕貴を見たら良いのだろう。
分からない。
侑子は目線を反らして、ミラーを持つ裕貴の手に自分の手を添えた。
「そろそろ先へ行こう。さっきマップ確認したらさ、ここを出てすぐ飲食店街だよ。飯にしよう」
頷いた侑子の手を再び握って、裕貴は少し先を歩き出した。
侑子は上下左右、全てを鏡に囲まれた空間に、平衡感覚が薄くなっていくような感覚に陥った。
――合わせ鏡。至るところ、合わせ鏡だ。合わせ鏡の真ん中にいる
小学生の頃読んだ、オカルト雑誌のコラムを思い出した。
『午前零時ぴったりに大きな鏡の前で合わせ鏡をしながら、ある呪文を繰り返し唱えると、今いる世界とは別のパラレルワールドへ行くことができる』
腕時計の針が示そうとしているのは午後零時だし、侑子は呪文を知らない。
――そういえばユウキちゃんと初めて会った日にも、思い出したっけ
あのコラムの記憶が蘇るのは、これで二度目だった。
ユウキに並行世界の説明を初めて聞いた時の衝撃を、今でもはっきり覚えている。
――私はもう、子供じゃない
子供向けオカルト雑誌に怯える年齢ではないし、嘘みたいな体験を経たとしても、再びその場所を夢見るような人間でもなかった。
――期待しちゃだめだ。私は私の、現実を生きる。思い出に縋ってばかりいないで、向き合ってくれる人に、真摯でいるべきだ
戻ってきてから、六年だ。
十四歳だった侑子は、二十歳になっていた。
「ここが出口だって」
足を止めた裕貴の背中に、ぶつかった。
振り返った裕貴の優しい笑顔が、不安でささくれ立った侑子の心を慰める。
「このドア狭いな。並んで出るのキツそう。一列で行こう」
先に立った裕貴が、出口のドアを押し開いた。
雑踏の音が聞こえてきて、すぐそこが外なのだと分かる。
幻覚の中から現実へ戻っていく時の、名残惜しいけれど、ひどく安心する感覚を覚えた。
「おつかれさまでした。お足元、段差ですのでご注意下さいね」
係員の声が、すぐ手前で聞こえた。
七月正午の日差しは眩しい。
――私も早く、外に出よう
裕貴が手を伸ばしてくれている。
侑子はその手の上に、確かに自分の手を置いた。
ギターコードを押さえる裕貴の指を、いつも見てきた。指先はゴツゴツしていて、皮が固くなっている。
侑子を愛してくれる指だった。
その指は侑子の手を握って、彼女の右足がドアを跨ぎ超えるのを支えた
――――はずだった。
「侑子?」
呆然とした裕貴の声が、宙を漂った。
彼は他にも何かを口走ったが、周囲の人の耳には届かなかった。
彼のすぐ横にいた係員が、悲鳴を上げたからだった。
侑子の姿は、消滅した。
二章終。
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