第65話 道標

「結局、学祭も修学旅行も、何もないまま卒業しちゃったね」


 買い物からの帰り道。

侑子と二人、並んで歩きながら愛佳は「あーあ」と呟いた。


「でも卒業旅行は行けたじゃない。楽しかったね」


「それくらいやらせてくれなきゃ! 高校生活、殆どイベントないまま終わっちゃったんだから」


 令和四年四月二日の夕方だった。

明日日曜日は、侑子も愛佳もそれぞれの大学の入学式だ。


高校生活の三分の二の期間を、マスクで顔半分を隠したまま終えてしまった。そしてまだまだこの猿轡から解放された生活は、やってきそうになかった。


 それどころか、世界情勢は不穏な方向へ加速している。


二月二十四日にロシアのウクライナ侵攻が始まり、世界中に大きな緊張が走った。原発や核研究施設への攻撃、避難施設となっていた劇場が空爆で破壊されたニュース映像は、一高校生である侑子にすら、大きな戦慄を感じさせずにいられなかった。


『現代でこんな戦争が起こるなんて』


『どう決着が着いたら終わるんだろう?』

 

 そんなことを大人たちが話すのを、よく耳にした。


 図書館やスーパーなど、侑子がよく足を運ぶ場所で、ウクライナカラーの募金箱を見かけるようになった。


フィギュアスケートファンだった望美が、『純粋に楽しめなくなっちゃったよ』と溜息をついていた。


 分断され、きな臭くなっていく世界は、どこへ向かうのだろう?


得られる情報は、どこまでが信用できるものなのだろう?


 明日から始まる新しい日常に、何を道標にすれば足を取られず真っ直ぐ歩けるのか、侑子には全く分からなかった。




***




『明日そっちの入学式何時に終わるの?』


「お昼前には終わるよ」


『駅で待ち合わせよう。俺の方が遅かったら、どこかで時間潰しててよ』


 風呂上がりの濡髪をタオルで拭きながら、侑子は裕貴と通話していた。スピーカー越しに聞こえる裕貴の声は、いつも穏やかで耳触りが良い。歌っているときよりも低めのその音は、小波の立った侑子の心を、落ち着かせてくれるものだった。


『どうかした?』


 無言の時間が長かったか。裕貴の問いかけに、侑子ははっとする。


「ごめん、ちょっと考え事。明日、緊張するなぁって。知らない人ばかりだし」


『蓮が一緒でしょ?』


「学部が違うから、時間が違うんだよ」


『そっか。侑子達の大学、大きいもんな』


 侑子は進学先に、文学部を選んだ。

万葉集を始め、和歌について学びたいと思ったことがきっかけだった。

別の高校だった蓮も、侑子と同じ大学の工学部に入学が決まっている。


『俺も侑子と同じとこ行きたかったな。もっと真面目に勉強しとくんだった』


「まだそんなこと言ってる」


『本音だよ』


「近くなんだから、今までとそんなに変わらないよ。軽音サークル、入るんでしょ?」


『侑子は入るの?』


「多分。見学は行ってみようと思うけど」


『じゃあ俺も入るしかないな』


 侑子は笑った。

二人の大学のキャンパスは近い。徒歩で行き来できてしまう距離だった。その為二つの大学の垣根を超えた活動を行うサークルや部活も多く、軽音楽系の団体の多くがインカレだった。

 

『じゃあ明日。よろしくな』


「おやすみ」


 通話が終わる。

侑子は肩にタオルをかけたまま、机の上の書きかけの手紙を眺めた。


裕貴の祖父へ宛てたものだった。

明日、入院先へ面会に行く裕貴に託そうと考えている。


 玄一は三ヶ月前から心臓を患い、入院していたのだ。感染症対策のため、家族ではない侑子は、一度も見舞いに行くことがかなわない。裕貴が病室からビデオ通話で繋げてくれたことが何度かあったが、徐々に痩せ細っていく姿を見て、毎回胸が塞ぐ思いだった。


――ゲンさん、あんなにお爺ちゃんだったっけ


 侑子が初めて顔を合わせたのは、五年以上前になる。まだそれだけしか経っていない。侑子はそう感じたが、入院着を身に着けた玄一の顔は、見知った彼のものよりも大分老け込んで見えた。


――また、会えるよね


 あのレコードに囲まれた彼の部屋で、円盤に針が落ちる音を聞きたかった。次に訪れたら質問したい音楽の話も、沢山あった。


「書かなきゃ」


 誰かに向けて手紙を書くのは、久しぶりのことだった。


最後に書いたのは、並行世界との繋がりが途絶えた二年前。


結局届かず終いだった、ユウキへの手紙が最後だ。


涙で波打った便箋と、滲んだ文字を思い出す。


「この手紙は大丈夫」


 届くのだ。確実に。

明日裕貴に手渡したら、数十分後には開封されているだろう。


 息を吹き返しそうになった苦しい記憶を振り切るように、侑子はペンを走らせた。

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