第56話 世界ⅱ刺突

「このあたりで間違いありませんね」


「ええ」


「お願いできますか」


 ブンノウの言葉に、シグラは無言で頷いた。


 自分の足が踏みしめる地表を見つめる。

目を見張らなくとも、彼女には見えた。


――厚い。厚いわ。他のどこよりも、この部分を覆う天膜は厚みがある。


 厚さだけではない。

その場所一帯を覆う天膜は、輝いていた。黄金の光が、地面から湧き出ているように見えた。


ブンノウの目には、おそらく何の変哲もない砂浜にしか見えていないだろう。しかし、シグラの目の前に広がる光景は、さながら極楽や天国を連想させる、幻想的なものだった。


――なんて美しいんだろう


 発光する天膜は、今正に力を発揮しているということを意味する。国民国土に害を成す現象から、この場所を守っているということだ。


――警告の美。私たちに警告している。この膜を剥がしたら、これまでの地震や水害以上の災厄が起こると


 シグラは両手に手套をつけた。


――それでも、やらなければならない


 小型のアタッシュケースの中から、メスを取り出した。シグラの指先程の、小さな刃先。無機質な輝きは鋭い銀色で、呼吸するように柔らかく動く天膜の輝きとは、ひどく対照的だった。


――完成させなければいけない


 跪いて、一瞬だけ天を仰いだ。


 ブンノウと共に天膜に向き合い続けて、どれだけの歳月が過ぎていっただろう。

すっかり歳を取ってしまった。


――もう少しで完成するのだから。あの兵器は、この国に必要なものよ


 導き出したその答えが正しいものであると、シグラは信じていた。ブンノウが正義と考えるものは、彼女にとって絶対の真理なのだ。


 しかし何故だろう。


 メスを構える右手が震えた。


――間違ってない。間違ってないわ



 ブスリ



 天膜に切れ込みを入れる時に、手に返ってくる反動はないはずだ。


しかしこの時、確かに手に感じたのは、まるで分厚い肉塊に刃物を突き立てたような感触だった。


 余りにも生々しいその感覚に、シグラは固まる。


生きた動物を刺したとしたら、こんな感覚だろうか。


 メスを握っていない反対の手で、地表を覆う天膜に触れているはずだったが、そこが一瞬熱くなった。

まるで溢れ出る血液に触れたように。


「どうしました。切り取れますか?」


 ブンノウの声に、我に返る。


 相変わらず生暖かさを掌に感じながら、シグラは握りしめるメスを動かした。


切り取った天膜にはやはり厚みがあったので、賽の目に切り刻んで収納容器へと入れた。


「もう少し採取しましょう」


「ええ」


 自分の心を平常に戻すブンノウの声に、縋るようにシグラは身を寄せた。


 手は天膜から離したはずなのに、感じた熱がまだそこに残っているような気がした。


恐る恐る自分の掌を見たシグラは、小さく悲鳴を上げる。


「どうしました?」


「血が」


「血? どこか怪我をしたのですか」


「……?」


 確かに見た気がするのだが。

真っ赤な鮮血で染まった、掌を。


シグラは再び視線を落とした先に、白い手套をはめた自分の手を見つけただけだった。

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