第28話 〚過去の話〛世界ⅱカギの守役
ブンノウに連れられ、研究所に初めて足を踏み入れた日のことを、シグラは一生忘れることはないだろう。
塵一つ漂っていないように見えるその空間は広大で、大掛かりな機械などは見当たらない。
空洞の球体――シグラにはそれは空の魔石のように見えた――が大量に収められた保管箱が、等間隔に置かれているのが印象的だった。
「この場所で、歴史に名を残す偉大な研究が始まろうとしているのですよ」
横を歩くブンノウはそんな風に説明した。
「あなたも携わるのですか?」
シグラの質問に、さらりと「私が発案したのです」と答えたブンノウは、驚く彼女の反応に表情を変えない。
「
微笑を湛えた青い瞳は酷く優しい。それなのに、見つめられる度にシグラの胸は痛い程高鳴るのだ。
『研究に協力してほしい』という申し出の後、程なくシグラは勤め先を辞めた。元より転職を考え始めていたところだったのだ。躊躇いはなかった。
「この研究はシグラ、あなたの“才”なしでは始まらない。今日は研究の旗揚げのきっかけを作った男性に、会って頂きたいのです」
ブンノウが立ち止まった先には、銀のドアがあった。
その先でシグラは、自身の人生を変える、もう一つの大きな出会いを果たすことになるのだった。
***
ベンチとテーブル、そして大きな冷蔵庫が数台置かれたその部屋は、研究所スタッフ達の休憩所となるのだという。
まだこの研究所は稼働前だ。
真新しいそのベンチに腰掛けていた人物は、シグラやブンノウと同世代と思われる男だった。
猫背だが、がっしりした体躯である。シグラを見る瞳は大きく、黒っぽく光っていた。
「カルミオ・ロパンです。ブンノウとは学生時代の同級生」
差し出された手に応え、握手を交わした。その身体に相応しく、大きくて肉厚な手だった。
「見えるのですよね」
弾かれたように顔を上げて、カルミオを見つめる。
シグラは頷いた。
「見えます」
見開かれた自分を見つめてくる瞳が、ギラギラと興奮の色に輝いているのが分かった。
カルミオは「すごい」と一言こぼすと、続けてシグラに質問を浴びせる。
「どんな色をしているのですか」
「透明です」
「本当にいたるところに存在しているのですか」
「そうです。人、物、あらゆるものの周りに。道端の草木にも。もちろんあなたも。私達は包まれています」
「厚さはあるのですか」
「ないように見えます。多分『膜』と表現するのが、最も言い当ててるかと」
「膜……」
カルミオはそこでようやく、言葉尻に疑問符をつけることを止めた。
噛みしめるように「膜」ともう一度発音した。
「素晴らしい」
宙を仰いだ彼は、すぐにシグラに視線を戻した。そして傍らで見守るようにただ立っていたブンノウに告げた。
「膜だ。聞いたか? 『天膜』とはこのことだろう? 本当に存在したんだ」
「君はいつも言っていたじゃないか。私が疑ったことは一度もないよ」
ブンノウは微笑みながらそう応える。
シグラの方へ向くと、彼はカルミオに向かって手を伸ばすと、彼女に改めて紹介したのだった。
***
カルミオ・ロパン。
彼の父は、この国の三種の神器の一つ、『カギ』を守る役目を務めた人物だった。
『カギ』とは、この国と並行世界を繋ぐ扉を開ける為に必要な神器。
扉を通って並行世界からやってきた来訪者は、特別な魔力を持つ。
色を持たない無色透明な魔力は、『天膜』の原料となる。
『天膜』とはヒノクニの安寧に必要不可欠な物質で、天膜があることによって、この国は長年に渡って平和を維持してきた。
「父の日記に書いてあったのです」
カルミオは説明の最後に、この情報を知るに至った経緯を語った。
「数年前、父は急死しました。遺品整理をしていた時でした」
「彼のお父様が息を引き取ってからすぐ、手続きの覚えもないのに遠方の神社関係者がやってきたんだったな」
ブンノウの言葉にカルミオは頷く。
「王府からの派遣だと言っていた。確かに王府の証書もあったし、身元も確かだった。だからその時はさほど疑問も持たないまま、彼らに葬儀や諸々の手続きを任せたんだ。俺はまだ学生だったし、母も既にいなかった」
シグラは目を凝らして、目の前の男を見てみた。
彼の黒い瞳の色が、身じろぎと共に少しだけ歪むように映る。
――天膜、というの。そういう名前だったの
「この国の安寧に欠かせないもの……」
拐われそうになった子供を包んだ膜が、美しく発光していた過去の光景が思い浮かんだ。
――あれは正に、天膜が国民を守ったその瞬間だったのだ
二人の男が自分の方へ注目したのが分かった。カルミオは驚いているが、ブンノウは相変わらず表情を崩さない。
シグラは無言のまま、はらはらと涙を流していた。
「どうしたのですか」
慌てた声音に、シグラは嗚咽の混ざる笑い声で答えた。声を発したことによって、感情が溢れ出る。
「嬉しい――いえ、安心した。いえ、やっぱり喜びかも知れない」
この感情をどう言葉に表したらいいものか。整理がつかない。
ただ分かるのは、例えば曙祝の席のように純白の布を染めろと言われたら、今のシグラだったら間違いなく濁りのない明瞭な色に染めるだろうということだった。
「私の目はおかしくなかった。私は正しいものを見ていたんだ……」
「あなたは間違ってなどいない」
真っ直ぐ差し出された手は、大きく、骨ばっている。
白い肌の内側、青い血管が脈打っている様まで見えた。
――美しい
シグラは寸分の迷いなく、その手に自分の手を重ねていた。
顔を上げれば、スカイブルーの瞳が自分を見下ろしてくる。
「私を手伝ってくださいますか?」
シグラは頷いた。
飲み込まれるようなその瞳の青さに、そのまま自分の全てを委ねてしまいたくなった。
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