第2話 消えた雑草
暑い。既に暑い。
侑子は軽く唸りながら、ベッドから起き上がった。
六時にセットしてある目覚まし時計は、まだ鳴っていなかった。
時刻を確認すると五時半だ。
こんなに早い時間から既に暑いのだ。日中はどれだけの酷暑になるのだろう。
うーんと大きく伸びをして立ち上がる。
***
「お兄ちゃん、朝だよー」
兄の部屋はすぐ隣だ。
ドアをノックして、返事も待たずにすぐに開ける。どうせノックと声かけくらいでは起きない。
朔也は朝が弱いのだ。
「ねえ。朝だよ。あ! エアコンついてるのに窓あいてるし。信じられない」
「うう……もうちょっと……」
「今日の朝ごはん当番、お兄ちゃんだよ。私汗かいちゃったから、シャワーあびてくるね」
揺り起こしてやろうとした手で慌てて窓を閉めると、問答無用でエアコンをオフにした。パソコンの横に置きっぱなしのビール缶を持って、兄の部屋を後にする。
リビングのカーテンを開け、エアコンをつけた。やはり既に暑かった。籠ったような湿気が、汗ばんだ肌に不快にまとわりつく。
今年の梅雨は記録的に短く、本格的な暑さの訪れも早かったのだ。
例年なら八月上旬に見られる最高気温の数字が、六月末から連日叩き出されていた。
七月二十日。
一学期最後の日だった。
***
ぬるい温度のシャワーが、素肌を濡らす。
照明を付けずに浴室を使うのが、侑子は好きだった。朝だと尚のこと良い。
まだ夜の気配が消えきっていないほの暗さの中に、朝の透き通った空気が混ざり合う。
新しい一日の始まりを感じる。
しかし平日の朝なので、そんなにゆっくりはしていられない。
名残惜しさを感じつつ身体を拭いて制服に身を包んだ。
白地に紺色の襟がついた、よくあるセーラー服だ。胸元には一年生の印である、彩度の低い赤いリボンを結ぶ。
侑子はこのリボンを見るたびに、乾いた血のような色だなと思う。二年生は青で三年生は緑色なのだが、どちらももう少し明るく瑞々しく見える。
一年生のこの色だけ大変地味なので、女子生徒からは好ましく思われていない。しかし皆入学してしばらく経った頃には、不満も言わなくなる。
どうせ二年生に進級したら、リボンの色はすぐに変わるのだ。
「ゆうこぉー。茹で玉子でいい?」
キッチンから朔也の声が聞こえた。
侑子が身支度を整えている間に、すっかり目は覚めたようである。
肩下まで伸びた黒髪を、慣れた手つきでおさげにしながら、「私半熟がいいなぁ」と返事をした。
***
「明日から中学は夏休みか。いいなぁ学生は」
どばどばと音が聞こえそうな勢いで、レタスはソースまみれになっていく。
「お兄ちゃんかけすぎだよ。ふふ。いいでしょう、長い夏休み。何しようかなぁ」
なーんにも予定ないなぁと、侑子は頬杖をついた。
部活には入っていないし、仲の良いといえる友人たちは皆部活だ。
年の離れた朔也は会社員。夏休みは盆を挟んだ一週間弱だけだろうし、そんな貴重な休みを、妹に全て使うはずはない。
「今からでも何か部活入れば」
「入りたいと思わないもん」
本心だった。
侑子の通う公立中学に、彼女の興味を引く部活はなかった。
運動全般が苦手だ。その上内気な性格の為、新しい集団の中に入っていくという行為自体が億劫だった。
中学に入学した当初も、新しいクラスや友人たちに馴染むのに、人一倍時間を要したのだ。同じ小学校からの親しい友人たちが、たまたま同じクラスだったことを、見えない神にどれだけ感謝したことだろう。
「合唱部とか絶対良いと思うのに。……まぁお前は入らないよな。小学校の時みたいに、手芸クラブがあればよかったのにな」
「いいの。手芸は家でもできるもん。合唱部ってさ、練習の時一人ずつ歌わせるんだって。絶対無理」
何度も繰り返した会話だった。その度に朔也は、心配そうな表情を向ける。干支一回り以上歳の違う兄にとって、社交的で友人作りの上手い自分と正反対の性質の妹は、心配の種でもあった。
せめて両親がもっと家に長くいてくれたら、接し方も普通の兄らしかったのかもしれないが。
すっかり保護者のようになっている。
「お父さん達、お盆は帰ってくるのかな」
「母さんは帰ってくると思うけど、まだ連絡こないな。父さんは来ないだろ」
後半は諦めすら滲ませない、さっぱりした口調だった。
もう何年もこんな感じなのだ。朔也と侑子の両親は、普通の家庭の父母とはちょっと違っていた。家にいる時間が大変短いのだ。
父の幹夫は物理学者で、海外の大学で長年研究を続けている。
帰ってくるのは、年に一度あればいい方だ。母の依子はそんな父の付き添いだ。それでも朔也が社会人になるまでは、母だけは日本にずっと残っていたのだが、息子が就職したタイミングで頻繁に海外の父のもとへ通うようになった。
その為、この家――五十嵐家はほぼ兄妹の二人暮らしだった。
二十代半ばの社会人としてはまだまだ半人前の兄と、中学生になったばかりの内気な妹。
この二人でなんとか家庭を回しているのは、近所に母の実家があったからだろう。
祖父母は既にいないその家には、母の弟家族が暮らしている。彼らが何かと世話をして、気にかけてくれているのだった。
「そうだ。俺今日遅くなるから、夕飯は賢ちゃんちで食べさせてもらえな。後で俺からも連絡しとくから」
賢ちゃんというのは依子の弟、兄妹の叔父にあたる高橋賢一のことだ。
五十代の依子より大分年若く、まだ三十代だ。朔也にとっては叔父というよりも兄のような存在で、侑子にとってもそれは同じだった。
賢一には侑子と歳の近い三人の子供もいて、従兄弟たちとの時間も、侑子は気負わずに過ごせて好きだった。そんな訳で侑子は、朔也がいない時間は賢一の家で過ごすことのほうが多いのだった。
「分かった。学校終わったら直行しようかな」
賢一の家は隣の学区だったが、ちょうど学区と学区の境目に位置する侑子の自宅からは、さほど離れていない。脇道を選んでいけば、かかる時間もそんなに変わらなかった。
「通知表ちゃんと見せろよ」
「見せられないような成績とってないです!」
「じゃあそろそろ行くわ」
「行ってらっしゃい」
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