40 トゥーディング




母が布団叩きを振り回しながら家の中を歩き回っていた。


そんな時は家にいてはいけない。


私は外に出て出窓の下で耳を押さえてじっとしていた。

母が荒れる前は必ず家にいない父から電話があった。

すると私はびくびくしてその様子をうかがう。

いつでも逃げ出せるようにだ。


その電話はいつかかって来るか分からない。

夜中に来た時は私は気が付かなくて眠っていた。

振動で目が覚めると母が布団叩きで私を叩いていた。

冬で分厚い布団なので痛くはなかったが、

私は布団の中でじっとしていた。

30分もすると収まるからだ。


その日もしばらく話していると母が怒りだし激しく電話を切った。


私は慌てて外に出て出窓の下に座り込んで耳を押さえた。

微かに母が何かを叩いている音がする。


そんな時は想像するのだ。

私は蛹だ。

じっと羽化を待っている幼虫だ。

そして音がしなくなると私は知らぬ顔で


「ただいま。」


と玄関でたった今帰って来たふりをする。

すると母は普通に


「お帰り。」


と言うのだ。

それさえなければ母はとても優しかった。



そんな生活はずっと続いた。


父が帰って来ない理由はよく分からなかった。

ただ親戚の人が子どもが生まれて、と話しているのが聞こえた。


そんな盆暮れの後も母は布団叩きを手にする。

私は逃げる。


そして知らん顔で帰る。


ある雨が降る真夜中に父から電話があった。

私は慌てて外に出るが元々体の調子が悪かった。


電話の後に母がまた布団叩きを持って歩いているのが

ちらりと見えた。


じっとしているが気持ちが悪い。

早く家に戻りたかったがまだ母は叩き回っている。

ふらふらする。


気が付くと自分は病院にいた。

窓の外で雨にうたれて倒れていたらしい。

帰って来ない自分を母は探してそれを見つけ、

半狂乱になって救急車を呼んだようだ。

寝ている私を何年も会っていない父が覗き込んでいた。

少しだけ歳を取っていた。


「大丈夫か。」


父は心配そうな顔をして言った。

だが私は無言で背を向けた。

そしてしばらくして私は言った。


「どなたでしょうか。」


それを聞くと父が息を飲む気配がした。

多分ショックを受けたのだろう。

でもそんな事はどうでも良かった。


その頃は私は事情は分かっていた。


父は別の女性と暮らしているのだ。

子どももいる。

だが母は離婚しないのだ。


有責側は父だ。

父親からは離婚出来ない。

裁判もしているらしいが母は絶対に離婚しなかった。


一番悪いのは勝手に家を出て別の女と暮らしている父だ。

しかも子どももいる。

私にとっては弟か妹だ。

だが一度も会った事はない。

そんな男に何が言えるだろう。


父は黙って病室を出た。

外で母と言い合う声がする。

しばらくすると母が泣きながら部屋に入って来た。

母は何か言っていたが、

私は背を向け体を丸めて布団に潜った。


私は退院して家に戻った。

そして父からの電話は来なくなった。

だから母が荒れる事はそれから一度もなかった。


そして15年が経ち、母はやっと離婚を認めた。

かなりの額の慰謝料が払われた。


その時に父と久し振りにあったがもう他人の様だった。

父から聞いたのだが、彼が電話をして来たのは

私を引き取りたかったらしい。

今更どうでも良い話だ。


そして母は病に倒れた。

それからは早かった。

病気になったから離婚に応じたのだろう。

相手の子どもに自分の遺産が渡るのを防ぎたかったのかもしれない。


母は死ぬ寸前に私に言った。


「本当はあなたを追い出したかったのよ。

ここにいるより別の所にいる方が幸せかもって。

でも追い出したくもなかった。

恐ろしい事をすれば自分で出て行くと思ったけど。」


私は返事が出来なかった。


「一人になりたいけど一人にもなりたくなかったのよ。」


母はずっと仕事をしていた。人に教える仕事だ。

だから経済的には父がいなくても自立していた。

私もお金で苦労した事はない。


いつも綺麗で上品できっちりとした隙の無い人だった。

多分家の中で布団叩きを持って周りを叩き回ったと言っても

誰も信じないだろう。

それを人に見られたくないために家の中だけでそれをしていた。

その時は外に出られないのだ。

だから窓辺で倒れていた私を見つけるのが遅くなった。


そんな母だからこそ、父は苦しくなったのかもしれない。

父は普通の仕事をしている普通の人だ。


病気になった母の頬はげっそりと落ち、

以前の美しさはもうなかった。

私はこんな時にそれを言うのはずるいと思った。

弱った人にはもう何も言えない。


私は黙ったままだ。


母はそんな私を見てふっと笑い目を閉じた。

その二日後に母は死んだ。


葬式は有志の人がお別れの会を開いてくれた。

私は座ったままでみんながやってくれた。

沢山来る人はみな母をいたみ悲しんでくれた。

母がどのような表の生活をしていたか伺われる。


私はうっすらと笑いながら対応をする。

父も来たが無視をした。


そして一周忌も来ないうちに家を売り私はその街から姿を消した。


父からの慰謝料は丸々残っていた。母の遺産もある。

家も売った。

しばらく働かなくてもいい。


私は知らない街に行ってゆっくりと仕事を探すつもりだった。




ミツバチの習性にトゥーディングと言うものがある。

女王バチが出す音とその行動の事だ。


羽化したばかりの女王バチは巣内を音を立てながら歩き回る。

その音がトゥーディングだ。

するとそれを聞いたまだ羽化していない別の女王バチが

クワッキングと言う音を立てる。


すると巣内を歩いている女王バチは

まだ羽化していない女王バチを殺してしまうらしい。

巣内には女王は一匹で良いと言う事だ。

そして生き残った女王は君臨する。


それはクイーンパイピングと言う行動で、

酷い話だが蜂の世界では自然な行為なのだろう。

だが私は人だ。

その話はとても残酷に感じる。

そして分蜂などで別々になれば良いのにと思う。


それは人が思う解決策だ。

だがそれでもどうしていいのか分からない

女王蜂のような人はいるのだ。


母が病床で自分の気持ちを話した時に

むしろ殺してしまえば良かったのに、と

私は答えれば良かったのかもしれない。


だが死を前にして目だけぎらぎらとさせていたあの人に

それを言う勇気はなかった。


だが全て終わった話だ。


私はこれから別の街で生活をする。

分蜂は終わった。


私は誰も何も知らない所で新しく生活を始めるのだ。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る