まっかな白と淡い夏
紺野みづき
1章 第1話 まっかな白と淡い夏 中島優介
ー-赤の上に、白を塗りつぶしたら、それは白と言えるのか。赤は無かったことになるのだろうか。
そんな哲学めいたようで、しょうもないことを、プール上がりのようなうすら寒さと、灰色に白んだ空を見上げながら考える。
一学期の最終日、つまりは夏休みの前日に当たる日に似合わない空の下でも、通知表に声を上げるクラスメイトの声は賑やかだった。振るわない成績を片手に、ぼんやりと一つ前の席を見る。空席が一つ。がらんと空いているくせに、引き出しだけはプリントが詰め込まれて窮屈そうだった。
八束が、学校に来なくなって三カ月が経つ。
新しい学年になってから、二週間もたたないうちに、八束は風邪をこじらせたと言って学校にこなくなった。あいつが風邪をこじらせるわけがない。俺はそう思うが、線が細く小柄な八束の病欠を疑うものは、クラスの中に誰一人としていない。
別にいじめられている様子もなく、学業だって優れている方だったのに、どうして学校に来なくなったのか。巡らせていた思考を遮ったのは、担任のみっちゃんこと、三浦先生の声だった。
「中島君、ちょっといい?」
手招きをされて、廊下へと呼び出される。
「おお、中島!ついに春が来るか⁉」
「みっちゃん、やるなあ!」
「お幸せに!」
「うるせぇ、馬鹿ども。俺はこれからサマー中島だかんな。みっちゃんとは暑い一夏を過ごすぜ。」
そう言って、教室の扉を閉じれば、教室内に悲鳴が上がる。みっちゃんこと、三浦先生は、バインダーで俺の頭を叩くフリをした。プラスチックが空を切って、かすめた風は生ぬるい。
「中島君、君ってやつは……」
「ごめんって。で、何?」
みっちゃんは、コホンと咳払いをして、バインダーの中から通知表を取り出した。
「俺、もう貰ったよ。」
「八束君のだよ、彼に届けに行くの。」
「へえ……」
「私と君でね。」
「は?」
なんで俺が……というよりも、頭に浮かんだのは、違う疑問だった。
別に俺が一人で届けに行けばいいのに、なんでみっちゃんと?
「一応個人情報だからね、成績も。君に一人で届けさせるのは、どうかと思って。」
「じゃあ、俺は必要ないんじゃ……」
「八束君の親御さんから、中島君に来てほしいと電話があってね。八束君、部屋からも出なくなってきているらしくて。」
「そう。」
「そう。サマー中島、今日の放課後はよろしくね。」
「えー……。」
声を上げてみたが、みっちゃんには、ポーズだとばれているような気がした。みっちゃんは、確か十個くらいしか歳が離れていない。先生たちのなかでは若い方で、あまり威厳があるわけではないのに、生徒の心の機微とか、そういうのを察することがうまい。
「ハーゲンダッツでどう?」
「わかった。でも八束の分もな。」
「……薄給の私立高校職員、ランチ代が飛んじゃうな。」
やり取りを終えて、教室に帰れば、交際おめでとうの言葉や相合傘が黒板に広がっていた。
わざとらしく、ゴシップ記者のように筆箱をマイクにして向けてくるやつもいる。
このクラスは上野の動物園の猿よりも喧しいに違いない。俺はすべての質問に事務所NGを出しながら、席に戻る。みっちゃんはあきれた顔で黒板を消していた。
今日の白んだ空のように、黒板も霞を残しながら白くなっていく。
その様を見ながら、ここに八束がいたら、どんな反応をしただろうかと、なんとなく考えた。
八束の家は、学校から徒歩十五分ほどの道のりにある。俺の家はそこからさらに徒歩五分。小学校と中学校は俺の家から徒歩十分。俺と八束の全部が近くにある。
「みっちゃんはさ、」
「なに?」
「八束が学校に来た方が、都合がいいの?」
緩めた歩調にあくびを漏らしながら問いかけた。十五分の道のりは、いつもなら走って五分で目的地まで着いてしまうけれど、今日は、みっちゃんと一緒だから、二十分はかかる。会話をしなければ、気まずさを感じるには丁度いい時間だ。
「中島君は、どう?」
コツ、と、みっちゃんのヒールの音が響いた。扉のノックのような、人の重さを感じる音は、俺にとっては耳馴染みのない音で、居心地が悪いような響きを持っている。
「俺は、みっちゃんに聞いてるんだけど。」
「ごめんね。都合がいいなんて言い方は嫌で、つい聞き返しちゃった。八束君の登校が、都合がいいっていうのは、教師の私にとっては違うといったら嘘になっちゃうもの。まあ、八束君が心配な気持ちの方が大きいから、学校に来てほしいと思ってる。」
みっちゃん先生のこういう所が好ましいと思う。下手に取り繕わずに、まっすぐな所が好ましいと。以前それを伝えると、大人だからそれなりに嘘はつくよと笑われてしまったが。
「八束が学校に来なくなった理由知ってる?」
みっちゃんなら分かるんじゃないかと、俺は少しだけ期待していた。二人がたまに話しているのを見たことがあるし、家庭訪問もしていると噂で聞いた。
「中島君は八束君と小学生からの幼馴染だから、八束君のことはよく知ってるよね。」
そりゃあそうだと、頷く。腐れ縁ではあるが、八束と一番長く付き合ってきたという自負はある。
「でも、全部を知ってるとは言い切れないでしょう。八束君のことは、きっと八束君しか知らない。だから、私は彼が学校に来なくなった理由の推測はついても、それが正解かはわからないし、きっと正解じゃない。」
それでも……と、みっちゃんは続けた。
「教師というのは、人の気持ちをはかることを教える職業でもあるから、私は八束君の気持ちを知ろうという努力はしたい。」
まっすぐな瞳に、思わずドキリとする。自分の単純さが嫌になった。みっちゃんは、そんな俺の心の中が見えているかのように、微笑んだ。柔らかな薄紅色の口紅は、男子高校生には、刺激が強い。熱を持つ頬をごまかすように歩を早めれば、八束の家が見えてきて、もう少しだけこのまま歩いてもいたかったような、早く離れてしまいたいような不思議な気持ちになった。
八束の家は、ここらへんでは珍しい風合いの洋風の家。いつだったか、金持ちの家だと茶化すと、八束は心底嫌そうな顔をした。
二階のベランダのある部屋が八束の……いや、八束家の一人息子である八束千博の部屋だ。
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