♰Chapter 29:凍霜、静寂に溶融す

全身を巡る悪寒の正体は水瀬の放つ異常な死の気配だった。

同時に満ち溢れた魔力の存在と恐慌の兆しを見せていた。

それは一見鋼のように頑丈に見えて、そのじつ触れれば砕けてしまいそうなほどに弱っていた。


背中には大きな裂傷。

顔や腕、足には数え切れないほどの切り傷を負っていた。

いずれも出血は酷くないがそれは無理に焼かれたせいだろう。

傷口はどれもその痕跡があり、見るに堪えない痛々しさがある。


――だからこそ、こうして抱き留めた。


不安定な今の彼女に近づくことで斬られることを予想しなかったわけではない。

それでもここですべきことは暴走の兆候を治めること。

そのためにはもっとも相手の意識に作用できる身体接触が最適だ。

心はないが心を繋ぎ留めるため、という奇妙な行動は少しずつ彼女の衝動を落ち着かせていく。


「落ち着いたか?」

「そう、ね。わたし、わたし――っ」


端正な顔を悲し気に歪ませ、何かを訴えかけようとした水瀬に首を横に振る。

代わりにその頭に手を置き、ゆっくりと動かす。

普段なら選択肢にすら上らない“撫でる”という行為そのものだ。


「何も言わなくていい」

「っ!」


水瀬はオレの言葉に一瞬目を見開くが、すぐに顔を伏せオレからは表情が見えないようにする。


ふと見れば青黒い軌跡を傷口に刻みながら、幽鬼のように立ち上がる氷鉋の姿があった。


「まだ戦えるか?」

「……ええ、もう大丈夫。こんなに弱い私だけど一緒に戦ってくれる、八神くん?」

「ああ、もちろんだ」


その答えを聞いた水瀬はここ一番の表情を見せる。

それは先の弱々しい姿ではなく、毅然とした戦乙女のような凛々しさを備えていた。



――……



二人で氷鉋と対峙する。

彼はなぜ立てるのか不思議なほどに魔力循環が乱れ、出血もひどかった。


「貴様らの力を過小評価していたようだ」


そう言って向けてくる視線は殺意に漲っている。

だが生命の危機に瀕し単なるそれではなく、憤怒の背に確かな冷静さを共存させている。

この手の人間は目的を果たすためにはいかなる手段も辞さないだろう。

今までにもほんの一握り、自分の信じる理念のもとに勝利し、そして敗北していった人種を見てきたオレには直感することができた。


「事前情報では脅威に成り得ないと推測していたのが災いしたか」


それから氷鉋は何が面白いのか不敵な笑みを湛えながら言う。


「狂乱の死神にその隣に並び立つ片翼……くくっ……これほど絶望を知らしめる相手に相応しい人間もいないだろう。貴様らのような雄弁に正義を気取る人間はここで排除する。たとえ私が私でなくなったとしてもな!」


氷鉋の全身に煮え滾る溶岩のように紅い線が浮き出る。

それは彼の身体中を蠢き回り、膨大な魔力を大気中から吸収し始めた。

水瀬に受けた必殺の効果もどういう原理か遅延させられているようだ。


――とオレは直感だけで後方へ飛び退いた。


「――遅い」


全力回避であったにも関わらず、完全には避け切れなかった。

右脇腹を深く抉られる。


「がッ……⁉」


視認すらままならない超速の接近による間合いの強制消失。

そして紅焔を宿した氷剣による不可避の斬撃が幾度となく襲い掛かる。

これほど異次元な動きをされては技術では補い切れない。

相手の命を奪うことに特化した圧倒的な力を見せつけられる。


「いったん距離を取る!」


オレは火魔法を至近で爆発させると爆風の慣性を利用し後方へ全力で駆け出す。


「八神くん、その傷――」


オレの肩口と今受けた脇腹の傷を懸念しているのか。

だが今はそんなことはどうでもいい。


「気にするな。それよりも氷鉋への対処を考えなければこちらが喰われる。水瀬は彼の固有魔法とあの異常なトランス状態について知っているか?」


首都高から周辺の建物に跳び移り、互いの許す限りの速度で夜都を駆ける。


「固有魔法は恐らく氷と炎の融合よ! 相反する二つの属性を自在に操ることができていたわ。そしてあの状態は――魔法使いの『禁忌』とされるものよ! 強い意志を持つ者の願望が変質し、固有魔法・通用魔法・身体能力、他にもあらゆる力を増幅する!」

「それは万能ではないんだろう?」

「ええ! 一時的な能力の向上であって終わりには一切の例外はなく、人格を喪失した『成れの果て』になってしまうのよ!」

「あとどれくらいだ?」

「およそ三分よ! それまでに決着を付けなければ――っ!」


水瀬は隣りを駆けていたオレを突き飛ばす。

直後にその間に火炎を纏った氷塊が突き抜けていく。

メタンハイドレートのようなそれは、オレに反応すらさせてくれない。


背後に視線を移すと氷鉋が凄まじい速度で追ってきていた。

もはや“駆ける”というよりは“飛んでいる”といっても過言ではない。


「時間稼ぎもさせてはくれなそうだな。オレとお前でやるしかない」

「八神くん、貴方が私を信じてくれるのなら作戦があるわ!」

「ああ、信じるさ。この状況を打破できるなら」


現状は信、不信を厭っている場合ではない。


「三十秒だけ……三十秒だけ時間を稼いで!」

「了解」


そういうと水瀬は氷鉋に向けて大鎌による風の刃を複数回放つ。

それらは全て弾かれるが彼女はそのまま離脱していく。

氷鉋はその動きを捉えつつもあえて動きを止めたオレを最優先事項と見たのか、無数の炎氷を放ってくる。

それを左右に動きつつ、躱し切るのは困難を極めた。


――水瀬はこの状況下で俺にどのような行動を求めている?

――本当に囮だけの役割をオレに任せたのか?

――それだけを期待したわけではないだろう。


「信じる、か……!」

「人の相手をしている時に考え事とは余裕だな」

「ッ……!」


十メートル規模の巨大な炎氷が数本、放射状に射出される。

それは建物から建物へ複雑に移動していたオレにとっては最悪の選択だった。


――建物が倒壊する轟音と降り注ぐ大小の破片。


風魔法によりある程度の欠片は跳ね除けられるが、巨大な瓦礫や迫りつつある炎氷はとても防げるとは思えない。


今の力で魔法の産物に勝てないのならば、勝てる手段を徹底的に利用するだけだ。


“来い”


強く念じると例の感覚――火照るような熱さを微睡が襲ってくるのだった。



――……



“いるんだろう、そこに”


魔法使いとしての祝福を得た時にも訪れたオレの精神世界だ。

相変わらず真っ暗であちらこちらに禍々しい鎖が張り巡らされている。

ここに来られたということは呼びかけが届いたということだ。


“……いいご身分だよね。〈 〉を自発的に呼び出すなんてさ”

“それは悪かったのかもしれないが、ここには契約の履行を求めるために来たんだ”

“……知ってるよ。君は固有魔法を欲してここに来た。早速といってもいいほどに早かったけどね”

“今のままではオレは勝てない。今のやり方では理外の敵には敵わないんだ”


精神世界の主はオレの言葉に理解を示すが、それだけだった。


“君には言っていなかったけど別に〈 〉が制限を掛けているわけじゃないよ? 言ったでしょ、〈 〉は君が堕ちない限りは力を貸すと。つまりはすでに持ちうる固有魔法の一部を君に預けているんだ”

“ならなぜ今、力を使えない?”

“君の未熟さゆえって言いたいのは山々だけど、それだけが原因じゃないってことさ。さらに言うなら君が無意識下で力にセーブを掛けてるってことだね。その原因には心当たりがあるでしょ?”


心当たり、と言えばこれまでに一つしかない。


“犯した罪のこと、か”

“うん、その通り。だから君は知らず知らずのうちに君自身で力を抑制し、同じ罪を犯さないようにしているんだよ。力がなければ組織に利用され、一人の少女を壊さずに済んだんだから。でもね、考えても見てよ。これは酷い矛盾だよ――懺悔のために、人間を守るために君は戦おうとする。でも過去の罪業に束縛され、守るための力すら行使できない。本末転倒じゃないか”

“……分かっている。つまりオレの意識変革が必要なんだな”


声の言うことは至極もっともなことだ。


今すぐでなくてもいい。

オレは――今ここから少しずつ変わらなくてはならない。


“まあ、そうだね。でもすぐには切り替えられないでしょ? 今回は撤退をお勧めするよ。〈 〉が力を与えてもそれを使えないんじゃ木の棒でボスに挑むようなものだ”

“……それはできないな。オレ一人ならそれも考えられたが今は水瀬がいる”

“――へえ、これは驚いた。あの人を殺すことにしか自己の存在を見出せなかった君とは思えない発言だね。でもさ、彼女は他人だよ? あの時の組織みたいに君を利用しようとしている可能性はゼロじゃない”

“そうだな。だがもうしばらくあそこにいてもいいと感じたんだ。だからオレは戦う”

“曲がりなりにも覚悟はしてるんだ。なら仕方ないね。今回は固有魔法を〈 〉が引き出してあげる。でも忘れないことだ。未来にどんな結末が待っていようとも〈 〉は君がどうしようもなくなったとき――”

「ああ」


水面に広がる波紋のようにオレの精神世界がゆっくりと不鮮明になっていく。



――……



――コンマ一秒にも満たない間、オレは心象風景へ意識を向けていたらしい。


現実に戻り最初に視界に映ったものは迫りくる大型の瓦礫だ。

目前の圧し潰そうとする巨大な質量体に瞳孔が収縮し、心拍数が大幅に上昇する。


「――強制解放フォースド・リリース――」


数にしてたった四本。

あの禍々しい鎖が虚空から頭を突き出している。

紫紺の魔力粒子を次々と纏いながら今か今かと命令を待つ。


これが――オレの固有魔法。


「――〚暴食の罪鎖ギルティ・グーラ〛」


一斉に射出された鎖は瓦礫を粉砕し、紫紺の軌跡を残して魔力に返る。

それだけではない。

そのうちの一本が炎氷に衝突すると微粒子にして打ち消した。

そして炎氷に宿っていた『魔力』を鎖の行使者であるオレに『還元』したのだ。


オレは続いてさらに四本の鎖を召喚し、氷鉋に射出する。

それは防ごうとした氷鉋の氷の盾を破砕し、容赦なく肉を貫いていく。


「――固有魔法は一級品、魔法使いとしての貴様は三流だな」

「何――ぐッ……‼」


視界外から飛来した炎氷の杭が突き立った。

鮮烈な痛みの直後に、焼かれる激痛が背筋を駆ける。

恐らくはオレの視界が瓦礫に塞がれたそのわずかな間に別方向から時間差の炎氷を放ったのだろう。


氷鉋は一時的に硬直したオレの腕を掴むと上空へと投げ飛ばす。

次いで地面から出現した巨大な氷の質量体がさらに上空へとかち上げる。


「通用魔法はほぼ応用が利かない。だが固有魔法は様々な応用が可能だ。例えばそう――雷のようにな」

「っああ!」


蒼い雷が夜空の彼方から招来し、オレを激しく打つ。

それは本来であれば致死であったはずだが、水瀬の見繕った魔防の衣服と魔法使いとなって身に付いた魔法への耐性がそれを妨げてくれたらしい。

火傷に留まったオレは叩きつけられるまでに態勢を整え、着地する。


「貴様は雷がどのような原理で発生するのか、理解しているか?」


氷鉋を見る限り、すでに水瀬の致死の攻撃を受けている。

だからこそこの些細な会話でも致死になりうるもののはずで、無駄そのものだ。

だがあえて動きを止めてオレと対峙する。


「上空の雲を構成する氷の粒同士が衝突を繰り返すことで電荷を帯び、発雷する」

「その通りだ。魔法は現代の知識と密接不可分に応用できるのだよ。ッ」


赤黒い血液を口から吐き出した氷鉋はその理性も間もなく消える寸前のようだった。

理性的であった瞳はくすみ、整えられていた髪は血液にまみれ元色が何か判別はつかない。


「私は、私の思うところを成す! それを、お前たちが止めるのなら力で示せ!」


最終局面に入った氷鉋は豆腐のように高層ビルの一つをなぎ倒す。

この斬撃の威力はもはやオレの手には負えない。

降り注ぐビルの瓦礫、そして反則級の破壊力を有した炎氷、斬撃。


オレは現在所持している予備の短刀を全て投擲する。

全部で四本、軌道はそれぞれに。


「私に投擲は通用しない……っ!」

「痛覚すら飛んでいるのか……!」


氷鉋はありえない反応速度で半数を叩き落とし、残りも躱し切った。

傷口が開くのもお構いなしに激しい軌道で接近が試みられる。


あと数秒で三十秒。


「悪く思うな!」


高層ビルですら薙ぎ払う斬撃が広範囲に二つ、縦横の十字架に完璧にオレのことを捉えている。


――今からの回避は、不可能。


「拘束しろ!」


オレが導いた答え。

それは彼女の攻撃を躱させず、防御もさせないことだ。

オレ自身が避けられなくともある程度オレから距離を置いて召喚できる鎖は例外だからこその行動。


オレは氷鉋の炎氷を打ち消して手に入れた魔力のすべてを拘束に費やす。

合間を抜けて彼を拘束する。


斬撃がオレを捉えるまで、もうコンマ数秒もない。


「八神くん!」


オレは即座に横に全力で跳ぶ。


「〚生命の破綻ソウル・ティア〛!」


オレの目と鼻の先にあったはずの斬撃は消え、風圧がオレの顔を打つ。

〚暴食の罪鎖〛によって一時的な魔力枯渇状態に陥り、二度目の〚生命の破綻〛によって深い傷を負った氷鉋はその場に崩れ落ちる。

不死身を錯覚するほどに立ち上がってきた彼の身体は動ける段階をゆうに超えているようだった。


それでもわずかに体を起こそうという気配を感じる。


「っ……」

「何がお前をそこまで突き動かす。人間を殺すためだけにどうしてそこまで立とうとする?」

「私には……そうせねばならぬ道理があるのだ」


地面が急速に凍っていく。

だがそれは一度見たオレと水瀬には通用しない。

上空から飛び降りてきた彼女の大鎌が周囲の氷を砕き伏せる。


「人間は、本当に醜い。同じ人間であるにも関わらず、他者を見下し、時には徒党を組み一人の人間を死に追いやる。そんな、所業を私は認めない。蹴落とし合い、傷つけ合い、最終的にはもっとも罪深い人間がこの世界の頂点に君臨する。そのような世界は……世界は、断じて認められないのだ! っあああ‼」


水瀬はこの状態について多くの能力を増幅すると言っていた。

それは恐らく急激な変化をもたらすもので、思考と身体が耐えきれずに分離してしまうこともあるはずだ。

だからこそ遅れて痛覚が機能する。


「貴方がどれだけ人の汚い側面を見てきたのかは分からないわ。それでもそれが人を傷つけていい道理にはならないはず。そうじゃないと貴方もその人たちと同じじゃない」


自身の傷を見て少しは落ち着いたのだろう、興奮状態から戻ってきている。

だが水瀬の言うとおりなら、これは暴走前の嵐の前の静けさというものだ。


「そうかもしれないな。だが少なくとも面白半分に人を手に掛けているわけではない。弱者を虐げた者だけが利益を享受する――そのようなことがあらゆる時間、あらゆる場所、あらゆる場合において行われているこの世界が許せないのだ。この瞬間にも誰かが計略し、世界を歪めている。そんな現実に希望など持てるはずもない」


希望、か。

そんなものはとっくに捨てている。

世界が無慈悲で残酷なのは今に始まったことではない。

こんな世界は本当の世界ではないなどと考えること自体、愚かなことだとオレは知っている。

なぜなら世界は始めからこのような姿なのだから。

人間が歪めてしまったものでもなければ、運命的なものが働いてこの世界を創ったわけでもない。

初めから、原初のときからこうあるとされた世界が今のこの世界。

変えようと必死にもがいてもその本質は変えられない。

決して変わることはない。


――だが氷鉋は違う。


彼は希望などないと言いながら世界は変えられると信じている。

そもそもそうでなければ手段を用いて人を殺すことすらしないはずだ。


――まったく。


「愚かだな、氷鉋。お前は希望を諦めていない。だから吹けば飛ぶような希望に縋っている」


オレの無感情な言葉を氷鉋は不敵に笑い飛ばして見せる。


「まったく貴様のいうとおりだ。だがその希望は私にとっては奇跡に等しいものだ。人間などいなくなってしまえば、世界は正常な状態に戻る。そして、いつかまた新たな人類が生まれたとき、その時こそ誰もが幸福に生きられるようになると」

「そんなはるか遠く、夢物語を本気で想っているのか?」

「ああ。私にこの理想を与えてくれたあの方には感謝してもしきれない。叶うか叶わないかは問題ではないのだ。私に生きる目的を与えてくれたのだから」


氷鉋は仰向けに倒れたまま虚ろな瞳を向ける。

その気配を悟ったオレと水瀬は十分な距離を取った。


「最後にもう一度聞く。投降する気はないのか?」

「ああ、ないな。私は間もなく死ぬ。副作用で死ぬか、[宵闇]――水瀬といったな。貴様の固有魔法で死ぬかだ」


氷鉋は恐らく魂の最後の欠片までも投じているのだろう。

今までになく強大で、それでいて美しい魔力の奔流を集約している。

これが、オレが初めて見る最大の魔法にして氷鉋の最後の魔法であると知る。


「水瀬、オレはお前を信じた。お前はオレを信じられるか?」


隣りに立つ水瀬は微笑んだ。


「ええ、私は貴方を――八神くんを信じるわ……!」


魔力が氷鉋とオレたちの側で二分され、大気がうなりを上げる。


――眩いばかりの閃光。

――大地は鳴動し、瓦礫は砂塵すら残さず粉々に砕ける。


「〚相克の氷炎コンフリクト・アイスフレイム〛……!」

「〚暴食の罪鎖ギルティ・グーラ〛……!」「〚生命の破綻ソウル・ティア〛……!」


凄まじい轟音と振動。

氷鉋を中心に荒れ狂う凍結と燃焼。

オレが射出した四本の魔力吸収の鎖。

水瀬のコバルトブルーの大鎌による波動。


均衡は一瞬にして崩れ去った。

氷鉋はその身を鎖に貫かれ、大鎌の死気にあてられた。


荒れ狂う魔力の波が収束するとオレと水瀬は互いに黙したまま氷鉋に近づく。

彼女が彼の顔に触れようとすると薄く瞼を開けた。


「私が、負けるとは、な」

「私は貴方のことをよく知らない。でも、できれば投降してほしかった」

「ふっ……私が人の形を保って死ねること、礼は言わんが…………あの方に尽くす他の魔法使いは私ほど優しくはない。せいぜい……気を付けることだ」


氷鉋はそれだけ言うと静かに瞼を閉ざした。

水瀬が脈を確認して、確かに息を引き取ったことを確認する。

しばらく彼女は彼の亡骸を見つめていた。


普段なら感傷に浸ることはないが、オレは戦闘で拓けた遠景に目線を映す。

ちょっとしたテロ並みに街並みの一画が瓦礫が積もり、もともと何があったのかさえ判別はつかない。

そしてこの広い空間を魔力の残滓がゆったりと漂っている。

それはちょうどきらきらと輝く地上の星のようだ。


――程なくして空に白味が増してきた。

間もなく夜明け――暁の頃合いだ。


「っ……ああ……」


何なんだ、この記憶は。

濁流のように襲い来る情報の波に頭が割れそうになる。

視界が白黒に明滅し、誰かの感情がオレの中で荒れ狂う。



――……



背景がぼんやりと暗いなか、どこかの情景に立ち会っているようだった。

横転した自動車とガードレールに衝突した大型トラック。

明滅する街灯に照らされてその顔が映し出される。


――氷鉋だ。


額から血を流す彼は自動車に必死の思いで近づくと下敷きになっていた女性に手を伸ばす。

女性は漏出したガソリンによって周囲に火が回り始めるのに気づき、彼に幼い少女を預ける。


“娘を……娘をお願いしますね……”

“君も、君も一緒に来るんだ‼”

“駄目ですよ……。私の足は下敷きになってしまっていますから。だから――どうかその子だけは幸せにしてあげてください。私とあなたの大切な、本当に大切な愛娘ですから”

“待ってく――”

“あなたを愛しています――”


そうして氷鉋の目の前でその女性は爆発に巻き込まれた。



――……



場面が切り替わる。

相変わらず背景の色はその明度が低い。

どうやらどこかの病院の手術室前のようだ。

手術中を示す赤いランプの点灯が消失し、医師が氷鉋の前に姿を見せる。


「先生、娘は――娘は大丈夫でしょうか⁉」

「命は助かりました」

「ありがとうござ――」


わずか一夜にして深い隈を刻んだ瞳一杯に涙を貯めた氷鉋が礼をしようとしたその先を医師は止める。


「ですが残念ながら――お子さんは植物状態にあります。今までのように過ごすことは……難しいでしょう」

「そ……んな……」


氷鉋の深い絶望と締めつけるような苦しみがオレの心を満たす。

それはゆっくりと深海の底まで沈められていくような限度のない苦痛だ。



――……



“今朝未明、〔ISO〕は――医師を違法薬物使用の疑いで拘束しました。――医師は一年ほど前から違法薬物を所持しており――”


それから一週間後、院内の別の医師による告発から氷鉋の娘の手術を担当した医師が異常な状態にありながら医療手術を行ったことが証明された。

検証の結果、彼の娘の手術において医療ミスがあったことも立証されている。


氷鉋の感情は人間に対する憎悪一色に染められていた。

そんなとき、深々とケープを被り仮面を身に付けた人物が訪れた。

名前も容姿も明かさないその人物は氷鉋に手を伸ばした。


「貴方は自らの伴侶を奪われ、一人娘さえも普通に過ごすことのできない状態にされてしまった。その表現できないほどの激情を糧に復讐をしませんか?」

「復讐……? 私にはそれをするだけの力がない」


身体も精神も疲弊しきった彼に悪魔的な誘いを持ち掛ける。


「大丈夫です。貴方が強く望むのであれば自ずと力は手に入ることでしょう。私は――。貴方と同じように社会を、そして人間を憎む人を見つけてこの世界に抗う者です」


名前の部分だけはノイズが妨害し聞き取ることができない。

だがこれが氷鉋の言っていた“あの方”という存在であることは想像できた。


「氷鉋冬真。貴方は私たちと共に歩む気はありますか?」


氷鉋は病室のベッドに横たわる少女の頬を撫でる。

自らの娘であり、泣くことも笑うこともなくなってしまった少女のことを。


「その誘いを受けよう。この利己的な人間社会を――私から大切なものを奪ったすべてを根底から破壊しつくしてやる」

「――では、改めてよろしくお願いしますね、氷鉋」


再び激痛が脳裏を走り、現実に引き戻される。



――……



「――ん。八神くん‼」


最初に知覚したのはオレの名前を大声で呼ぶ水瀬の存在だった。

彼女はとても心配そうに見つめていた。


「ああ、悪い。どうかしたか?」

「『どうかしたか?』じゃないわよ! ほんの数秒だったけれど意識を失っていたみたいだったわよ?」

「たまにはそういうこともあるだろう」

「たまにはって……もう少し自分の心配もしてね」

「それはお前にも言えることだけどな。固有魔法の暴走があれほど息の詰まるようなものだとは思っていなかった」

「それは……本当にごめんなさい」


深く頭を下げると黒髪がはらはらと下に流れる。


「いやいいんだ。守るべきもののために力を振るったんだろう? だったら何の問題もないはずだ」


そんなふうに言われたのは初めてだったのだろう。

水瀬は驚いたように顔を上げると今までで一番素の表情を見せてくれた。


「そう言ってくれると気持ちが楽になるわ。……でもそれとこれとは話が別よ。座って」

「あ、ああ」


有無を言わせない気迫の水瀬に言われ、平らな瓦礫の上に座り込む。


起動トリガーオン


すると彼女は右太腿に装備したポーチのなかから魔石を取り出し、そう唱えた。

ややもすると傷口が塞がれ痛みも退いていく。


それを見ながらオレは一つの疑問を抱く。


「水瀬、魔石を持っているならなぜ自分に使わなかったんだ?」


わずかに水瀬の手元が揺れ、動揺を伺うことができた。


「手持ちの魔石は三つだけだったの。二つは使ったけれど、もう一つは万が一を考えて取っておいたのよ」

「その万が一はもしかするとオレのため、か……?」


今度こそはっきりと息を呑む気配がした。

それから儚さを思わせる淡い微笑みを浮かべる。


「八神くんに隠し事は無理ね。ええ、そうよ。私は八神くんに絶対に死んでほしくなかった。私の力不足は酷いものだけど、それでもできる範囲で貴方を守りたかったのよ」


「甚だおこがましいことだったけれど」とバツが悪そうにする水瀬はやがて表面上を取り繕う治癒を終える。


「水瀬」

「どうしたの?」

「オレはこれからどうすればいい?」


彼女の名前を呼んだものの、確かな答えを求めたわけではない。

単なる独り言のつもりだったのかもしれない。


〔約定〕という魔法テロ組織。

〔幻影〕という人々の守護組織。

いまだ現代社会の暗部で暗躍する面々。

オレの知る側面だけが全てではないことは当然だ。

それにどういう原理か、氷鉋の記憶――らしきものを垣間見たオレには自分のことだというのにどうすればいいのかがすぐには分からなくなってしまった。


氷鉋の言っていた社会の腐敗は事実だ。

オレは暗殺者として背徳の闇に溺れる人間をよく見てきたからよく分かる。

組織から解放されても個人の暗殺者としては自身が奪った無垢の生命に――それを大切にしていた人に対する深い業を背負ってしまっている。


だからこそ氷鉋の主張は理解できるし、どこかでボタンを掛け違えばオレと彼は手を取っていたかもしれない。

口では氷鉋のことを否定しつつも、オレの本心は彼の方に寄っていたのだ。


――矛盾しているな。


そんなオレの心を知るすべのない水瀬はただ本心だと分かる態度で示してくれる。


「それはね、八神くんが自分で決めることよ。後悔が全くない選択肢なんてあるかどうかも分からない。だったら、自分自身で考え抜いて導き出した答えがそのときの最善なのよ。私もあまり人のことを言える立場じゃないけれど、決断には責任をもってけじめを付ける。そうじゃない?」


オレは水瀬の言葉に真理を説かれた気がした。

物の見方はその時々で変わる。

正しいと思っていたことが実は間違っていたり。

そのまた逆も有り得る。

なら彼女の言うようにその時々で悔いのない選択肢を取ることが最良なのだ。


「確かに、水瀬の言うとおりだ」


――〔約定〕のことをすべて知り得たわけではない。

――〔幻影〕のことをすべて知り得たわけでもない。


オレが断罪の刃を振るう目的は相変わらず、過去に犯した過ちに終止符を打つこと。

もう一度あの時の少女に出会い、罪の欠片だけでも償うこと。

それを達成するまではオレは誰も信じない――決して許されない。


――だから、これは贖罪のための踏み台だ。


「水瀬、オレを正式に相棒にしてほしい」


それを聞いた水瀬は暁天の一光をその身に浴びながら手を伸ばし、その碧眼が柔らかく細められる。


「――ありがとう」


重なる手のひらから伝わる確かな熱。

生きているというその生命の奔流。

触れられることへの忌避感は幾分か薄らいだ心地がする。


「これからもよろしくな、水瀬」

「ええこちらこそ、八神くん」


間もなく極度の肉体的、精神的疲労から意識が朦朧とし始めた。

アドレナリンの分泌が止まったのか、と益体もないことを考えながら言う。


「すまない、水瀬。少し、疲れた。帰るまでもちそうにない……先に戻っていてくれ」


そしてオレの身体は意図せず倒れる。

慣れない魔法戦でオレは致命傷こそ逃れたが、端々から血液を失っている。

魔法使いの頑健さが何とか意識を繋いだのだと思う。


「今日は本当にありがとう。おやすみなさい――れい


意識が途切れる寸前に柔らかな感触と包み込むような温かい声を感じた気がした。

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