エピソード1
ここは、「夜のあさがお」という、特別な子が集まって来るところだ。これから、たくさんの子がやって来る。風菜はその記念すべき1人目。お兄さんはその代表だ。ここに集まって来る子は、家の外や幼稚園、学校などで声を出すことができない。動作を抑制してしまうのだ。それを、場面緘黙症という。場合によっては声が出なくなるだけでなく、動くことも抑制してしまう。風菜の場合は、トイレに行けなかった。お兄さんも、小学1年生までそうだった。そんな経験を、仕事にしているのだ。ここに来てしばらくは、どんな子でも、黙って立ったままなのに、少しすると、遊んでわいわい話すようになる。そこには過程があり、努力があり、涙もある。
また、新しい1日が始まる。一番に起きてきたのは佳菜子だ。大抵、小学生の誰かが一番に起きてくる。
「かなこちゃん、おはよう。お腹へったね。」
「うん。」
おはようって言えなかった。多少がっかりする。いつものことだ。
「朝ごはん、どっちだと思う?」
お兄さんはそんな佳菜子を置いて、いつもの朝ごはんクイズだ。パンかごはんかの、2択クイズ。
「ごはん?」
「おお!正解!何で分かったの?」
「ごはんのにおいがする。」
2年生なのに、鋭い。してやられた。
「すごいじゃん。」
佳菜子は笑顔で返した。褒められるのに慣れていないから。
「今日もにこにこだね。おっ!あいとくん、おはよ。」
愛翔は、いきなり注目されて固まった。そこがかわいいんだ、とお兄さんは思う。お兄さんは愛翔に近づいて、もう一度おはようと言った。
「今日はおにぎりだよ〜。じゃあ、2人にクイズ。おにぎりの中身はなんでしょう?これは難しいよー。」
佳菜子と愛翔は健気に考える。なかなか答えない。
「じゃあヒントを出すね。1つはピンク色で、もう1つは茶色だよー。」
「うーん。分かんない。」
佳菜子は自信がないようだ。愛翔は答えてみたいのに声が出ない。さけと、かつおかな?
「正解はね、さけとこんぶだよ。あいとくん、分かってた?」
愛翔は、にこっと笑った。みんな、その微妙な変化を感じ取ることができる。
「やるじゃん。」
「今日はゆうきくん遅いなあ。二人で起こしてきて。」
佳菜子と愛翔はうなずいた。寝室に走る。
「ゆうきくーん!おはようー!」
佳菜子は元気に起こした。愛翔は優希の肩をさすっている。
びくっと、優希が起きた。二人は、にこっと笑う。
「お兄さんのとこに行こう。」
優希はまだ寝ぼけているらしい。目をこすっている。
ようやく目が覚めてきた。3人で協力して布団をたたむ。もう朝か、と優希は思った。今日は何の日かな?何があるかな?とりあえず、お兄さんに会わないと。
「おはよう、ゆうきくん。お兄さんは今日も元気だよ!」
と言って、お兄さんは3人を順番にぎゅーっとした。佳菜子が笑う。男の子2人は少し体を縮めて固まった。人に近づかれると反応してしまう。ここに来てから、優希は1か月、愛翔は1週間。まだまだこれから慣れていくところだ。それに比べて佳菜子は3か月。始めは男の子2人と同じような反応をとっていたが、慣れてきてにこにこしている。これから次々に幼稚園のみんなが起きてくる。この朝が、小学生たちの大事な、お兄さんに甘える時間の1つなのだ。昼からは、幼稚園児たちがお兄さんをとってしまう。
毎日の大事な散歩の時間。近くの河原に行って遊ぶのだ。靴下を脱いで、はだしになって遊ぶ。みんな楽しそうに遊んでいる。…2人を除いて。
優希と愛翔は、まだ仲間に入れないでいた。遊びたいけど、こわい。見ているだけでも楽しいけど、やっぱり遊びたい。それぞれで葛藤している。お兄さんは、その2人の様子を遠巻きに見ていた。
お兄さんが2人のところへやってきた。心の中では、もう、遊びなよ、と思いつつ、
「どう?お兄さんと遊ぶ?」
と声をかけた。もちろん、みんなと遊んでほしい。でも、2人の不安も分かっているのだ。
「みんなと遊びたいんでしょ?」
「でも体がうまく動かないんでしょ。」
「あんなに楽しそうにしてて、入りたいなって思うのは当たり前だよ。」
お兄さんが一方的にしゃべっている。でもしっかり2人は話を聞いている。
「始めはみんなこんな感じだったよ。」
「だんだん動くようになってくるよ。」
そこでようやく優希がうなずいた。お兄さんに、考えてくれてありがとう、って伝えるために。
「そうだよゆうきくん。今は見ててもいいんだよ。」
そうだな、と思ったら、優希の目に涙が込み上げてきた。今は見ててもいいのか。知らず知らずのうちに焦ってしまっていた。すぐにお兄さんは気がついた。
「ゆうきくん。」
そう言って抱き寄せる。優希はどんどん泣けてくる。
「言いたいことが言えないって辛いよね。うん、お兄さんには分かるよ。みんなにも分かるよ。」
少し違う解釈をされたけど、優希は分かってもらえるのがうれしくて、もっと泣いてしまった。愛翔はそっと見守っている。
「さて、みんなはねこじゃらしで遊んでるけど、どうする?見てる?それとも3人で遊ぶ?ねこじゃらし持って来ようか?」
優希は心が落ち着いて、何か言えそうな気がしてきた。すると、
「あっ。」
てんとう虫が優希のひざにとまった。その拍子に、あっと言ってしまったのだ。
「おお!てんとう虫!ゆうきくん、やるねー。虫好きだもんね。」
お兄さんは、優希の声については触れない。聞こえてたはずなのに。小さかったから、聞こえてなかったのかもしれない。残念なのか、よかったのか、分かんないや。と、優希は思った。そのあとは、3人でてんとう虫を見たり、川に入ったりして遊んだ。優希と愛翔は、それぞれで楽しんだ。
帰りながら、お兄さんが優希に近づいてきた。
「さっきのゆうきくんの声、聞こえたよ。ゆうきくん、やるねー。やるじゃん!」
お兄さんはそう言って、優希の頭を強く強く撫でた。また優希の目に涙が込み上げてくる。
今日も夜のあさがおでは、誰かの成長を温かく見守っている。明日は誰のつぼみが少し大きくなるかな?
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