3-14 I Will Be There

 最初に見たのは、白いシーツと薄いピンクの枕。ただ全体的に暗く、そして少しだけ視界が滲み、頬は濡れていた。

「……あ……さ……?」

澪は呟き、目蓋を指で擦る。

 目覚ましを掛け忘れたが、普段起きる時間より30分ほど早く目を覚ました。

 ……少し不思議な夢を見た。悲しく、この世界の切なさを掻き集めたような、心臓が少し締め付けられるような。しかし、澪はもう少しだけ見ていたかった。尤も、二度寝しても続きを味わえるとは思えないが。

 澪は、流雫を起こさないようにベッドから下りると、カーテンを少しだけ開ける。昨夜より寧ろ風雨は強まっているように思え、思わず溜め息をついた。

 空が厚い雲に覆われていたことで、ライトを消したままの部屋は、普段のこの時間より薄暗い。澪は掌で頬を拭くと、机に立ててあったコンパクトミラーに映る自分の顔に、微笑んでみる。

 ……夢の中で、美桜と云う少女と出逢った。流雫から少し話を聞いただけ、写真など見たことが無かったのに、鮮明に顔まで出てきた。

 上品で、明るくて。澪がイメージした彼女が、そのまま具現化したのだろうか。そして、流雫に誰よりも近い場所にいる、それに誇りを持てる気がした。悲しく切なくも、優しい夢だった。

 拭いたハズの頬が、また濡れた。

「ありがと……美桜さん」

そう呟いた澪は、流雫を起こさないように部屋の照明を消したまま、クローゼットを開けた。

 夏でも上下黒基調のプリーツスカートと半袖のセーラー服は、スーツを持たない彼女にとってのフォーマルウェアだった。最初にスカートを履き、パンツルックのルームウェアを脱ぐ。下着を見せること無く着替えられるのは便利だった。

 「……ん……、み、お……?」

背後のベッドから聞こえたその声に、サイハイソックスを履き終えた澪は振り向き、言った。

「あっ、おはよ、流雫」

「……おはよ」

と、流雫は返しながら、体を起こした。目覚めに澪がいる光景は、これで2度目だ。

 「眠れた?」

と、部屋の照明を点けながら問うた少女に

「うん。ただ夢は見てなくて、一瞬で朝になった感じ……」

と答えた流雫は、ゆっくりとベッドから起き上がる。

 昨日からの風雨が収まる気配は無いが、その天気とは対照的に頭はクリアだ。5時間も眠れていないが、夢も見ないほどに深く眠れていたからか。


 澪が以前、流雫のガレットが美味だと家族に言っていた。その流れで室堂家の3人に振る舞うことに決まったのは、昨日の夜のこと。幸い材料も揃っていた。

 澪のエプロンを借りた流雫の隣で、澪はコーヒーを挽き始める。生地を練る流雫の顔を見ながら澪は、今日は何が有っても乗り切れると思っていた。乗り切れる、いや、乗り切らなければいけない。

 流雫は、ユノディエールではお馴染みのコンプレットを皿に盛り付け、澪が淹れたコーヒーと一緒にテーブルに並べる。そのタイミングを見計らったように澪の両親がダイニングへ来た。

 軽く挨拶を済ませ、4人でモーニングを始めた。……ほぼ毎日ペンションで宿泊客に出しているが、やはり他人に振る舞うのは緊張する。

 室堂家の一家3人、その全員から高評価だったことに、安堵の溜め息をつく流雫はコーヒーに手を付け、外を眺めた。

 ……昨日の天気予報では、台風は未明に静岡県に上陸すると報じられていたが、その通りの動きを見せた。それでも追悼式典は決行するらしい。

 開かれる限りは行く、そう決めていた流雫には他に選択肢など存在しない。澪には隣にいてほしいが、この天気で連れ回すのは流石に躊躇する。


 モーニングを終えると、高校生2人は澪の部屋に戻る。カーテンを開けた澪の隣で、ルビーの三日月のチャームが揺れるブレスレットを右腕に通した流雫は言った。

「……澪は残ってて。この天気だし……」

その言葉に澪は

「あたしも行く。……今日は、流雫にとって大切な日でしょ?だけど、彼女に向き合う意味で、あたしにとっても大切な日だから」

と言った。

 ……流雫は、追悼式典の会場が渋谷駅前から東京中央国際空港に変更された時点で、その後にでも渋谷に立ち寄りたいと澪に言っていた。美桜に会うためだった。

 この日本最大の空港は、彼が初めてテロに遭遇した場所だった。そして、自分は辛うじて無事だった。渋谷で美桜を殺されたことに比べれば、空港で犠牲になった人には失礼だが、何事も無かったも同然だった。

 ……自分に無関係な人の死は、本音を言えばどうでもよい。それは恐らく誰もがそうで、流雫は美桜を弔うだけだ。この日に、彼女の望まれざる死に場所に行くのは、それだけの意味が有る。だから台風でも、無理矢理出てきたようなものだった。

 それに、絶対何かが起きる……流雫はそう思っていた。何も起きないと思う方が無理が有る。

 トーキョーアタックから全てが始まった。そして、全てがマッチポンプ説で正しければ、この追悼式典が一種の集大成……と位置付けられていても不思議ではない。だとすると、澪には危険過ぎる。ただ、それでも澪はついてくる。止められない。だから流雫は、形振り構わなくても、とにかく2人で生き延びるしかない。


 澪は澪で、彼女が流雫と自分を引き寄せ、彼女に今を生かされている……そう思ったから、彼についていくと決めた。流雫が、この台風でも行くと決めたのなら、自分だけこの部屋で平和に1日を終えると云う選択肢は無い。

 それに、何かが起きる覚悟はしていた。だからこそ、絶対に流雫を1人で行かせるワケにはいかない。……何か起きても、2人で絶対に生き延びる。あたしは死なない、流雫も殺されない。


 ブレスレットを左手首に通した澪は、その指を流雫の指に絡ませた。アンバーとライトブルーのオッドアイが印象的な瞳を、ダークブラウンの瞳で見つめる。

「あたしは、流雫といっしょだよ」

そう囁いた澪は目を閉じると、顔を少しだけ上げて恋人に近付けた。

 乾いた唇が重なり、澪の頬は淡く染まった。

「っ……ん……」

少し詰まったような流雫の吐息が、澪脳に焼き付く。

 ……今この瞬間に感じている彼の熱を忘れないように、しかしこれが最後にならないように。流雫との3度目のキスは、少しの悲壮感を滲ませつつも、彼だけのヒロインでありたいと云う願いを、より強くしていった。

 指を絡めた手に力が入り、互いに熱を求めるように唇を啄んだ。少し息苦しくなり

「んう……っ……」

と息を詰まらせた澪と流雫の唇が離れ、澪は心臓の鼓動と呼吸を速まらせ、目を開ける。ダークブラウンの瞳が映し出す視界を支配する流雫は囁く。

 「……僕は、澪といっしょだから」

澪は頷く。それに微笑んだ流雫は、囁くように言った。

「……行こう」

オッドアイの瞳に曇りは、一点も無かった。

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