2-13 Gretchen

 モノレールは天王洲アイルに着く。終点まで乗る予定だった2人は思い立って、そこから列車に乗り換えて何回目かの臨海副都心へ行こうと決めた。2人にとって、最早定番のデートエリアだった。

 1駅だけ東京臨海ラインに乗り、東京テレポート駅で降りる2人。雨は未だ残っているが、先刻よりは弱まっていた。

 行き先はアフロディーテキャッスル。特に買い物する用事も無いが、流雫は何故か妙に気に入っている。

 施設全体を貫くように架かるペデストリアンデッキへのエスカレーターで、澪は流雫の手を繋ぎ、指を絡めて微笑む。流雫は思わず、頬を赤くした。

 空港で雨に濡れた服は乾かず、体は少し冷えている。それだけに、澪の手の淡い熱は、流雫には今何よりの癒やしになっていた。


 ペデストリアンデッキに上がると、流雫はテラウェブに入ろうとした。澪もそれに続く。高校生と云う年頃だし、車でも見てみたいのだろうか、と澪は思った。

 しかし彼は閉まったガラスのスライドドアの隣、大きな窓ガラスの前で立ち止まると、澪には背を向けたまま言った。

「……此処だったっけ、澪が僕を初めて見たのって」

 ……あの初対面の日、澪はガラス越しに、ペデストリアンデッキを歩くシルバーヘアの少年を見た。人を捜していようたが、とにかく1人だけ逃げる気配が無く、危険過ぎると澪の目には映った。ドアを叩いたのは、彼に存在を気付かせるためだった。

 それに気付いた流雫は、自動で開かなくなった自動ドアを、その瞬間は澪と云う名も知らなかった少女とこじ開け、テラウェブに避難した。そこで2人が交わした最初の一言は、澪の

「……何故逃げていなかったんですか……」

だった。しかも、互いに誰かも判っていないまま。

 そして、テラウェブに銃声が響くと、流雫は呟いた、

「……どうして、僕ばっかり……」

と。その言葉に、澪は目の前の彼がルナ……流雫だと判った。

「……ルナ……」

澪が無意識に声に出した名前に呼応するかのように、ルナは返した。

「……ミオ……?」


 「……此処から、あたしたちの今が始まったんだよね……」

澪は言った。思い出しても、互い生きてる中では最悪の初対面だった。

 ……その異常な出逢いから始まった、今日までの3ヶ月。今まで流雫がテロに屈しなかったのは、自分が生き延びるためだったし、何より澪を殺されないためだった。

 そして、澪は張り詰めた緊張感と殺される恐怖から解放され、その代わりに手を汚した流雫を抱きしめる。まるで、彼がこれから苛まれる罪の意識から解放するように。


 ……敬虔なグレートヒェンは、ファウストにメフィストフェレスの陰を見て、牢獄から逃れるのを拒んだ。結果、彼女は斬首刑に処されたが、或る意味では天使の台詞のように救われたのだろう。

 そして澪は、流雫が銃と云う悪魔と契約を交わしても、そしてその手が穢れても、決して拒まないし見捨てない。もし、流雫を抱きしめたことで己が穢れるとしても、彼を慰め、救えるのなら本望なのか。

 「……何か、どうしても寄ってみたかったんだ」

流雫は言う。そして、溜め息をついて続ける。

「……折角のデートだってのに……、何やってるんだろうね……」

 ……どう足掻いても、テロが頭から離れない。どんなにテロから逃げ切ったとしても、それだけは逃げ切れない宿命なのか。

「……流雫」

少しの沈黙の後で、澪は彼の名を呼んだ。ダークブラウンの瞳が、アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳を捉える。そして澪は言った。

「この場所で流雫と出逢っていなければ、あたしは今生きてるか判らない」

 もしあの場に流雫がいなくても、澪は銃を出しただろう。しかし、いざ持ってみると、重く冷たい金属のグリップに、澪は戦慄を覚えた。

 ……殺される恐怖を一瞬で押し殺して、引き金を引けたのか。少女の自問自答の答えは、ノーだった。そして、流雫が代わりに「手を汚した」から、今澪は生きている。

 澪はその汚れた……否、穢れた手に触れ指を絡め、彼が泣くなら抱いて慰めたい。それが「流雫が代わりに手を汚した」ことへの贖いになるなら。それで彼を救えるのなら。


 雨は弱くても、止む気配を微塵も見せることはなかった。夜には大雨になる予報が出ているだけに仕方ない、と流雫は思った。

 2人は台場まで、臨海プロムナード公園を通って行くことにした。バスに乗ってもよかったが、今はとにかく2人きりになりたい。

 ペデストリアンデッキの端から眺めるレインボーブリッジは、雨に煙っていた。当然、人通りも少ない。

 この場所で、流雫と澪は急接近した。それは後に、シブヤソラで結実することになるが。そして、ファーストキスを交わしたのも、この場所だった。

「此処が落ち着くんだよね……」

 近くのカフェに入り、ToGoで入手したホットラテのカップを唇にくっつけながら、流雫は言う。未だ体が冷えているだけに、ホットでなければ凍えそうだった。

 ……何時しか、今日のデートは2人が初めて顔を合わせた日のトレースになっていた。きっかけがきっかけだったとは云え、ただ澪といられただけで流雫は嬉しかった。

「今日も、澪に救われた。やっぱ、僕には澪がいなきゃ」

その言葉に、澪は微笑んで答える。

「色々有ったけど、あたしも流雫と一緒だから楽しかった」

 それはリップサービスでもない。確かに、大きな事故こそ目の前で起きたが、それさえ切り取れば楽しかったことだけで満たされる。色々予定は狂っただろうけど、それでも澪にとっても楽しかった。流雫はようやく微笑んだ。


 夕方、2人は東京テレポート駅に戻ろうとした。灰色の重苦しい空は、モノトーンの色を1日中まとったままだった。そして少しずつ、黒に溶け始める。それがテレポートブリッジと名付けられた歩道橋の下……首都高速を走る車の赤いテールライトと、白いヘッドライトを際立たせる。その光景に、歩道橋の端を歩く2人は、シブヤソラで見た夜景と云うイルミネーションを思い出した。

「……流雫」

少年の名を呼んだ澪は傘を閉じて、流雫の傘に入る。真下を絶えず通る車の音は、傘を打つ雨音に遮られる。澪は目を閉じて、そっと唇を差し出す。

 流雫は澪の指に自分の指を絡め、

「澪」

とだけ囁くと、目を閉じて唇を重ねた。初めてキスを交わした日より、手も唇も少しだけ熱い。……思えば、告白もキスも、澪が先だった。

「……っ……ん……」

唇が離れると、澪は甘い吐息を洩らしながら目を開ける。少し滲んだダークブラウンの瞳は、アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳に吸い込まれる。傘を打つ雨音さえも、聞こえなくなる。微かな吐息だけが、耳に焼き付く。

 流雫は澪が、澪は流雫が、目の前で生きていることを今、何よりも感じていた。それが2人が掴んだ、何よりの希望だったから。

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