第42話 据え膳食わぬ童貞から愛を込めて(3)
「もう寝る。あんたも寝た方がいいよ。顔がいろいろとひどいし」
リリウィはそう言い残して、館の奥に消えた。
部屋から紅茶の香りが消えても、イッサクはソファに寝そべり天井を見上げていた。
窓から滲む青く暗い光はずっと変わらず、時間の見当がなくなっていく。
イッサクの頭の中では、いままでの知識と、新しい情報とが猛烈な勢いで組み合わさり、組み替えられていた。
邪神とは一体なんなのか。
神落としと神殺しとは一体なにか。
時折、手帳に挟まれていたコピーを広げて読み直す。
インクの掠れや、知らない単語、知識不足などに阻まれて、全容はわからない。
コピーには系譜図のような絵図が描かれていた。
外縁に創世神話の三柱の神々の名が並び、中でも豊穣神微笑むヨールの名が大きく記されていた。
そこから絵図は複雑な経路を描き、途中に神落としの名が記され、その先にある神殺しの名で途切れていた。
ふとみると、応接室の入り口の青く暗い光の中にヒスイが佇んでいた。
「もう動けるのか?」
イッサクの声に、ヒスイは微かに肩を震わせた。
「まだ痛みはありますが」
「ちょっとこっち来い」
ヒスイは躊躇がちに、リリウィが座っていたのと同じ場所に腰を下ろした。
「見せろ」
イッサクがシャツを捲る仕草をする。
有無を言わせない目を向けられ、ヒスイは重い動作でスーツのボタンを外し、腹をさらした。
「……暗いな」
見回すと、部屋の片隅に取手のついたランプがあった。
書架の部屋のと同じものらしく、つまみを回すと、ジジと電線が焦げるような音を立てて、薄黄色い光を灯した。
薄黄色く照らし出されたヒスイの腹は、あの呪いの赤く黒い痣は消え、なめらかに白く、きれいだった。
イッサクはふうと息をついた。
「よかった。あ、服、もういいぞ」
「あの、何がよかったのですか?」
ヒスイは手早くシャツをスカートの中にしまいながら聞いた。
イッサクは呆れてヒスイを見る。
「お前、死にかけてたんだぞ」
「殺し合いをしたのです。覚悟はできていました」
それは思いもしない答えで、イッサクは困惑した。
「死なない方がいいだろ?」
「そのような情けは無用です。せっかくいただいたこの命ですが、今すぐお返しします」
ヒスイが舌を噛み切ろうと口を大きく開けると、イッサクは冷めた声で囁く。
「生きていれば、またラヴクラフトに抱いてもらえるのに」
たちまちヒスイは顔を赤くし、口を閉じて俯いてしまった。
ヒスイの変わりように、イッサクはクククと低い笑いを抑えない。
武闘派のこだわりなど、ラヴクラフトが与える強烈な快楽の前にはこの程度だと、身近な例でよく知っている。
イッサクは笑いが残っている顔で聞いた。
「デスノスは?」
「……あちらの部屋で寝ています。ずっと私を観ていたのでしょう」
ヒスイは気まずそうな顔をしているので、イッサクは苦笑いした。
「いまさら献身的にされるのが、気に食わないか?」
「別にそんなことをされたからと言って……」
「まあ、お前に重傷を負わせたものアイツだけどな」
イッサクが茶化すようにいうと、ヒスイが僅かに目を吊り上げた。
「それがあの人の数少ない美点でしょう?
戦いにおいて決して私情を挟まい潔癖さが、この国を支えているのです。
それを笑うのは王していかがなものかと」
思わぬ抗議の弁に、イッサクは「お、おう」とオットセイのような声をあげてしまう。
デスノスもヒスイも、騎士であることにこのうえない誇りをもち、それを決して曲げようとしない。
この二人は本当に似た者夫婦なんだなと、イッサクは心中愉快になった。
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