第31話 ヘタレ夫&クズ亭主 vs 元人妻(5)
「おい、やばいぞ」
「お前を捕まえれば、今からでも」
イッサクは手を伸ばしてくるデスノスの顎を突き上げた。
「馬鹿野郎。やばいのはヒスイだ。見ろ」
ヒスイの全身に、顔にも赤い黒い痣が広がっていた。槍を振るうたび、痣の色は濃く黒くなっていく。
「言ったろ?ラヴクラフトに抱かれるためになんでもするようになるって。媚薬でそのリミッターが飛んじまった」
「お前のせいか!?」
「テメェがあっさり裏切るからだ!」
デスノスとイッサクが醜く言い争っている間にも、ヒスイの魔槍は着実に二人に迫り、呪いの手はヒスイの命に手をかけている。
「ヒスイ!やめろ!」
デスノスが飛びかかろうとすると、魔槍がデスノスの肩を貫き、ヒスイが叫んだ。
「邪魔しないで!あなたについていって不幸になるのはもうたくさん!
ラヴクラフト様のために死ぬ方がずっと幸せなのよ!」
デスノスは肩から血が流れるままに、首を横に振った。
「ヒスイよ、それは違う。
ラヴクラフトに愛されたいならば、お前は生きねばならぬ。
生きて彼奴の腕に抱かれなければならぬ。
お前がいま見ている死の喜びは、ミナに勝つことへの諦めにすぎん」
「クズが知ったふうな口を!」
ヒスイが絶叫し、魔槍が乱舞した。
デスノスは全身を切り刻まれ、たまらず膝をつくも、ヒスイを見つめる目は力強い光を放っている。
イッサクはデスノスの腕を引き上げる。
「ヒスイを助けたいか?」
「無論!」
「なんでだよ?」
「ヒスイは俺以上に騎士であることに誇りを持っている。
だが騎士の生き様とは、死を覚悟することであって、死に逃げることではない。そのことをいまいちど教えてやらねば」
「そんなことしたところで、ラヴクラフトのところへ行ってしまうのにか?」
「愚問。俺は騎士だぞ」
「そうだったな」
イッサクはニヤリと笑って、デスノスの背を叩いた。
だがどうするか?
ヒスイを助けるには、あの魔槍を止めなければならないが、間合いをつかめないことには、どうしようもない。
デスノスが、前に出た。
「俺が槍を受け止める。その隙にお前がヒスイの呪いを解け」
イッサクはデスノスの首根っこを掴んで後ろに引っ張った。
「やめとけ。受け止める前に串刺しにされるのがオチだ。ヒスイを止めるには魔槍を無力化するしかない」
イッサクは左の掌に滲んだ赤黒い血を見ていう。イッサクの呪術解除なら魔槍を無力化できる。だが今度はデスノスがイッサクを止める。
「あの魔槍をかわしつつ、血をつけるなど、できるわけなかろうが」
イッサクは少しの間、目を閉じ、そして刮目して静かに言った。
「お前、ヒスイを殴れるか?」
「ここは戦場だ。騎士を舐めるなよ、国王」
「だったら、ちゃんと合わせろよ」
「おいっ!?待て!」
イッサクはデスノスの静止を無視して、顔を両腕でガードして、巨大なミキサーと化したヒスイの間合いへと飛び出した。
最高の獲物が飛び込んできて、ヒスイの目が爛々と輝いた。
「ああ、ラヴクラフト様!」
ヒスイの叫ぶのと同時に、魔槍がイッサクの胸の中央を貫いた。
魔槍の先端が背中がを破り、赤黒い血が噴き出した。
心臓を潰した手応えが、たしかにあった。
もうヒスイはイッサクなど見ていなかった。
イッサクの血を浴びて嬌声を上げ、うっとりとした目でそこにはいないラブクラフトを見つめていた。
だが、イッサクはまだ止まっていない。
奥歯を噛み砕き、赤黒い血に濡れた左手でヒスイの槍を掴んでいた。
「王命!消え失せろ!このクソ槍が!!」
イッサクが吠えると、魔槍全体がイッサクの血の赤黒さで覆われた。
銀の輝きが失われ、一瞬にして赤錆に侵された。
イッサクは左手に渾身の力を込め、魔槍を握り砕いた。
「デ……」
イッサクは大量に血を吐いて倒れていく。
そしてデスノスが、イッサクを飛び越え、ヒスイに襲いかかった。
「行くぞ!ヒスイ!」
ラヴクラフトを夢想していたヒスイの目の前に、デスノスの巨躯が迫った。
虚をつかれたヒスイの脳が警報を鳴らすよりも早く、デスノスはヒスイの顔面に飛び蹴りを食らわせた。
ヒスイの痩躯は地面に叩きつけられ、棒切れのように転がっていく。
デスノスは追撃の手を緩めない。
まだ立ち上がれないヒスイを路地の壁へと容赦なく蹴り飛ばし、動けなくなったところを、腹を踏み抜き、馬乗りになった。
デスノスは鬼神のごとくヒスイを睨みつけ、拳を振り上げる。
混乱し恐慌しているヒスイは、腕でガードすることすら忘れて、ただ震えてデスノスを見上げていた。
「覚悟」
デスノスは躊躇なくヒスイの顔面を一発、二発と全力で殴りつけた。
そして両の拳を握って高く振り上げ、渾身の力を込めて10発目を叩きつけた。
ヒスイは意識を失い、体がぐったりと地面に投げだされた。
ヒスイの美しい顔は、大きく腫れ上がり、涙と鼻血と赤黒い痣で見る影もない。
デスノスはゆっくりと立ち上がり、ヒスイを見下ろす。
裏通りの街灯の下の分厚い背中に、イッサクが声をかけた。
「女相手にそのラッシュは、さすがに引くわ」
灰色のツナギを自分の血で染めたイッサクが、胸を手で抑え、壁に寄りかかりながら近づいてきていた。デスノスは再びヒスイを見下ろしていう。
「戦いの場に男も女もない。それはヒスイとてよくわかっている。
だいたいやりすぎというならお前はなんだ。
槍を無力化するためとはいえ、自分の心臓を差し出すなど愚の骨頂だ」
「俺は大丈夫なんだよ」
イッサクがグレーのつなぎをはだけると、そこにあった胸の傷はもう塞がっていた。
デスノスはその回復ぶりに目を見張った。
「それがあの夜ミナにやられても死ななかった理由か?」
「奥歯に超回復薬を仕込んである。致命傷からなんとか動けるようになる程度だけどな。かなりレアなんだぜ」
イッサクは自慢げに言いながら、ヒスイの顔を覗き込んだ。
赤黒い手形が左目の周囲をのこして全身に広がっている。
「槍を壊したから、これ以上は進行しないだろうけど、予断できないな。とりあえず、ラヴクラフトのところに返してしまおう。ちゃんと治療できる場所に移すのが最優先だ」
ラヴクラフトの元に返すのが不満だったが、ヒスイの体のことを第一に考えるならば、イッサクに従うほかない。
デスノスは渋々携帯で救急車の手配を始めた。
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