第7話 ホラー作家・蛇切縄子の原稿
七つまでは神のうち、なんて俗信がある。これは民俗学者の柳田国男が生んだ妄言の極みだ。というのも、七歳までの子供は人より神に近い存在、なんて信仰は、日本全国にあった考えではないのである。
柳田は大正三年に「神に代りて来る」という論文において、「七歳になるまでは子供は神様だと言っている地方がある」と述べ、「七歳前は神のうち」説を唱え始めた。しかし具体例は一つも示していないのである。その後二人の民俗学者によって青森県と茨城県の二つの事例が報告されたが、いずれもほんの数行のコラム的報告で、およそ研究といえる程のものではなく、またその二つの事例も七歳前の子供が神仏への不敬を行った時は許す、というだけのものだ。
それが現在さも事実のように広まり、七五三の由来だなんて言われているのを見ると本当にうんざりさせられる。柳田は今すぐ生き返って訂正してもう一度死ね。こんなデマを信じている人間は、夏目漱石がI LOVE YOUを「月が綺麗ですね」と訳したという話も信じているのだろう。
しかしながら、「七つまで」信仰は全国的ではなく七五三の由来でもないというだけで、事例としては存在しているのも事実なのがまた厄介だ。例えば私の地元にも、まさにこの吐き気を催すような信仰が根付いていた。
例えば、葬儀だ。七歳以下の児童の葬儀は、普通のやり方では行わない。普通、というのはまあ一般的な仏教式ではないという意味だ。お坊さんも呼ぶことはない。なにせ、神に近い存在なのだ。仏の領分じゃない。神仏習合の時代でも、ここは区分けがされていたらしく、寺の記録をさかのぼれば、七歳以下の子供の葬式を行った記録がないことがわかる。さて、ではどのように葬式を執り行うのかというとだ。まず、遺体を棺に入れる。そしてそれを、家の奥の座敷に置く。そして、お山から呼んだ山伏様を棺の前に立たせ、呪文を唱えてもらうのである。呪文だ。お経ではない。当然ながら焼香をしたりもしない。その間、親類一同は隣家で宴会を行う。そうして呪文を一時間ほど唱えたのち、山伏様は小刀を取り出して棺に切りつける。傷だらけになった棺は、一晩奥の間に放置される。
隣家を借りての宴会は一夜ずっと行われ、その一晩の間は決してその家から出てはいけない。山伏様が言うには、これらの行為は、神様になった子供を山へ送るためなのだそう。棺を切りつけることで、もうこの家にはいてはいけないと思わせる。隣家での宴会中は山伏様が縄を使った結界を張っており、死んだ子供は入れない。彷徨うことになる魂は、やがて山伏様が御山で用意しておいた幽火に惹かれて、御山に吸い込まれ、御山の神様と一つになるのだとか。
でたらめだ。でたらめに違いない。
だって、こんな説明じゃ、私の見たものは説明できない。
しずちゃん。しずちゃん。可愛かった従妹は、川でおぼれて亡くなった。
小宮川の本家で、蝶よ花よと育てられたあの子は、早逝しがちな小宮川家の女の子の命運から解き放たれたように健康で、誰もがこの子は大丈夫だって無根拠にそう思ってた。いや、願ってた。大きくなったら美容師になりたいと言っていた。未来に希望を持っていた。でも違った。彼女は死んだ。八歳の誕生日を目前に控えた夏の事だ。川でのバーベキューの最中に行方が分からなくなった彼女は、翌日下流で死体になって発見されたという。私は、しずちゃんの誕生日プレゼントをジャスコで選んでいるときにその知らせを聞いた。ああ、また駄目だったのかって、お母さんが嘆いていたのを今でも覚えている。すずちゃんのお母さん(私の母の姉)が、ひどく憔悴していたのも。だってこれで三人目だ。去年はなきちゃんが、その前はれいちゃんも死んだ。これで落ち込まないなんて不可能だ。一週間後に首を吊ったのも、責められないだろう。
しずちゃんの葬式は、前述のように行われた。私はせめてしずちゃんに渡せなかったプレゼントを棺に入れてもらおうとしたけど、大人たちはダメだって言った。
山伏様がやって来て、幽火は焚いているから始めましょうって、よくとおる低い声で言ったのが、今でも耳にこびりついてる。
「これからしずちゃんを神様の世界に送る呪文を唱えます」
御山の山伏様は、とても美しい人だった。
夜の闇みたいに真っ黒な髪は、御山の霊力を取り込んでいるみたいでさらさらと綺麗。
手甲の先から伸びる指もすらりとして見とれる様だった。
でも何より目を引いたのはその瞳。集まった親類縁者を見渡して、私とも一度合ったその瞳。吸い込まれるような、という表現は色んな所で見たことがあるけど、本当に体験したのはその時だけだった。宇宙船の壁に穴が開いて、中の命を茫漠たる無音にして輝きに満ちた世界へと、するりと引きずり込むみたいな。さからい難い、銀河のような目。
小宮川の葬儀形式を因習だ、薄気味悪いと嫌っていた母も、その一瞥で虜になったように頷いていた。私も同じ。
「その間は誰も神様の姿を見てはいけないから、何があっても絶対にこの家には立ち入らないでください」
誰も逆らわない。私たちはみんな頷いた。
やがてみんなが出ていくと、山伏様の呪文が始まった。
「────────────」
呪文は、聞いてみると、妙に平板で、アクセントの感じない不思議な音の連なりだった。全然お経っぽくないし、不思議な響きだった。
なぜ私がそれを知っているのか。
私は、気になったのだ。
大好きで大切なしずちゃんが、どのようにあの世へ、向こう側の世界へ送られるのか。知りたいと思った。
それを知ることが、大切なんだと心から信じた。
だから───こっそりと、隣の家から抜け出した。
本当なら出入りは厳しく見張られているはずだった。でも、玄関や裏口は見張れても、トイレの小さな窓から、子供故の小さな体で抜け出ることは、想定できなかったらしい。
私は大人たちの警戒が緩んだ隙に、隣家を抜け出て家へ向かった。
玄関は音が鳴るから、やはりトイレの窓から入り込んだ。
見慣れたはずの家は誰もいなくてしんとしていて、遠くの座敷から山伏様の声が聞こえる。その呪文が逆に静けさを強調していた。
私は足を忍ばせ、座敷へ向かった。
座敷の襖の前にしゃがみ、中の様子をうかがう。
呪文が休みなく唱えられている。
襖の前で、十五分ほど経った頃だろうか。
「ゆめちゃん」
「ゆめちゃん」「ゆめちゃん」
突然私は呼ばれた。死んだしずちゃんの声だった。座敷の中から聞こえてくるのが分かった。
生きてたんだ! 死んでなかった! しずちゃんは生きてた!
嬉しくなって、襖を開けようと
「やめなさい!!」
まるで鬼の咆哮みたいだった。山伏様の放った一喝は、襖に手をかけていた私を、ただの声だけで威圧した。
「絶対開けるな。──────」
呪文が再開される。けれどどこか違う。さっきまでの落ち着いた流れるような呪文じゃない。急流を思わせる、焦ったような速さの詠唱だ。
「助けて」「ゆめちゃん」「助けて」
呪文の合間を縫うように伝わってくる声は、過剰なほどの感情が籠められていたと思う。
私はまたも襖を開けそうになったけど、でも山伏様の言葉を思い出してギリギリで耐えた。
そんな私の前に、影が降りた。
見れば、襖の向こう側に人がいて、その姿が影になっている。
私と同じぐらいの体格をした、その影には見覚えがあった。
「開けて」
しずちゃんだ、とわかった。
「助けて」「助けて」「ねえ」「助けて」「ゆめちゃん」「ねえ」「ねえ」「助けて」「ゆめちゃん」
でも生前のしずちゃんではないと直感した。
襖越しの輪郭はこんなにくっきりしている。
自分では開けようとしない。私に開けさせようとする。そんなの、人間らしくはない。
「────────────」
「助けて」「助けて」「助けて」「助けて」「助けて」「助けて」「助けて」「助けて」
私は怖くなった。どうすればいいのか全然わからなくなって。
でも山伏様が開けるなって、絶対開けちゃいけないって。そう言われたから、いくらしずちゃんの言葉でも襖は開けられないよって。心の中で何度も何度も謝ってた。
すると、だんだん声が小さくなって、聞こえなくなっていって。
「あ、」「なるほど」
「開けていいよ」
山伏様の声が聞こえて、私は直ぐに顔を上げた。
「ばあ」
気が付いたら、葬式は終わってた。
でも。
襖を開けてしまった幼いころの私が何を見たのか、それは今でもありありと思い出せる。
あれはしずちゃんだった。でも生前の健康で天真爛漫で皆に愛されたしずちゃんじゃなかった。神様になったしずちゃんだった。
人じゃなくなった、しずちゃんだった。
だってどう考えてもあれは人じゃない。人間は腕が五本もないし、指が八本だったりしない。目が七つあったりもしない。おっぱいが体中から生えていたりしない。舌はあんなに伸びない。腸が芋虫みたいに暴れてたりしない。おしりから足が生えてたりしない。眼球は虹色じゃない。鼻に牙は生えてない。耳から脳味噌が飛び出たりしない。
あれは神様で、しずちゃんで、私たちの一族が受け継いできた、七歳までの子供の本当の姿だった。
それを見て以来、私は本家に帰っていない。
あの後何度か子供用の葬儀が行われたのだけれど、私はそのどれにも参加しなかった。母が私の教育に力を入れ始め、葬儀に出る時間も勉強させようとしてきたのも、この点に関してだけ言えば好都合だった。
けれど、神様になったしずちゃんの姿はずっと私の瞼に焼き付いていて、瞬きするたびに過ってしまう。
そしてそのたびに思う。
七五三があんなおぞましい神様に由来するものであってたまるか。
あんなおぞましい信仰が、日本中にあってたまるか。
日本中の子供たちの本当の姿が、しずちゃんのようなものであってたまるか。
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