目がいく理由
アランジュ邸宅はその日、常とは違う雰囲気に包まれていた。常置されていたカーペットはどこぞに仕舞われ、代わって両端に銀刺繍のされたワインレッドのカーペットが敷かれている。小さな花瓶は撤去され、贈られた大きな花たちがロビーに飾られ、普段よりも数段華やかな場となっていた。
あと三十分もすれば人が集まり始めるだろう、とソッフィオーニは懐中時計を手に辺りを見回す。
飾られた絵画の位置、角度、埃が落ちていないかと彼女は見回り続ける。今日は髪の毛の一本でも落ちていようものなら主役の悪い噂を立てる元となってしまうため、彼女は珍しくその髪を結っていた。
式典だからとメイドや執事に新しく服が支給された。ソッフィオーニは動きやすさを重視しているためスカートではなくパンツを着用することにしたのだが、美麗な令息と見紛うほど彼女を引き立てている。
真っ白なシャツにボトルグリーンのチョッキとパンツ。緑はアランジュ家のシンボルカラーであるからこの色なのだが、渋いと若い年齢層からは不満が出ることも多い。だがソッフィオーニの着こなしはその不満を一掃するほどの破壊力があった。
式典服姿を見た他のメイドたちが薄く化粧をしたり、髪留めを使って身なりをさらに良くしたから出来上がった姿なのだが、自分の容姿に頓着がない彼女は頬を赤らめるメイドたちの気持ちが理解できていなかった。
(皆同じような服を纏っているのに、どうして私にだけこんなに手をかけたのかしら)
と思っている始末である。
ゆえに、
「素敵です!まるで童話の中の人物が抜け出てきたようです!」と興奮するメイドに対し、
「あら、ではあなたは私を虜にするお姫様ですね。あなたのほうが愛らしいもの」
と返してしまうのだ。彼女としては称賛を返しただけのつもりだったが、整った美形の微笑とともに放たれた「憧れの人からそんなこと言われたら心臓壊れるランキング」に入っていそうな言葉に、純粋な乙女たちは耐えられなかった。
乙女の失神者は既に二人出てしまっているものの、メイドは原因が自分だと気づいていない。
そろそろお嬢様の元へ行かねば、と踵を返した彼女は何かにぶつかってしまった。厚い胸板の感覚に、男とぶつかったのだと脳が瞬時に弾き出す。
この時間帯に歩いているのは騎士だけだろうと安直な考えに至ったソッフィオーニだったが、
「おっと 大丈夫?」
聞き覚えのある声にパッと顔を上げる。
翠の色が溶け込んだ金の髪と、エメラルドの原石のような濃い色の瞳。柔らかな物腰の紳士と噂される、主の姉君の婚約者。
──やっぱり、似ている。
顔立ちが似ている。唇の薄さといい、微笑み方といい、古い記憶とリンクする。けれどやはり髪の色も瞳の色も違うし、なにより男はソッフィオーニに対して何も反応を見せない。
「……えっと、なにか付いてる?」
じっと見つめられた男は困ったように言う。
メイドは「いえ」と目を伏せ、すぐに胸に手を当てて改まる。
「謝罪が遅れました。こちらの不注意でぶつかってしまい申し訳ございませんでした。失礼致します」
と腰を折り、さっさと横をすり抜けようとする。だが、
「あの 何か言いたいことがあるなら言ってほしいな」と止められてしまう。
「……言いたいこと、ですか」
背を向けたままメイドは立ち止まる。男は後頭部を掻きながら、
「君、私に対してすごくその、なんていうか……警戒してるだろ?なんでかなぁって」
警戒、と想像していなかった言葉にソッフィオーニは思考を一瞬停止する。べつに警戒なんてしていない。ただ、もしかしたら彼なのではないかという期待が捨てきれてなかっただけの話だ。
(もう会えなくていいなんて、微塵も思ってなかった)
幼い頃の唯一の幸せな記憶。それを手放すことなどできなかった。
自覚できていなかった感情が胸の底から湧き上がる。押しとどめるように軽く息を吐き出し、
「警戒なんてしてません。ただ……ただ、昔の馴染みとどこか似ていると思っただけです」
と静かに告げた。男は「え」と呟き、不思議そうに首をかしげる。
「昔の馴染み?想い人でなく?」
メイドは眉根をきつく寄せる。
そんな言葉で片付けないでほしい。想い人なんかじゃない、とも言えないが、その一言で終えられるほど単調な思いではない。
「想い人ではなく、……おそらく友人です」
「おそらく?」
そこを突っ込むか、とソッフィオーニは胸中舌打ちする。さして興味もないくせに、言葉尻を捉えてその詳細を聞き出そうとする。そこいらの令嬢とやっていることが同じだ。
面白半分に侍女に話を振るものではない。それがわからない人ではないだろうに、なぜこの男はこうも話を引っ張ろうとするのか。
そこまで考えたものの、ソッフィオーニは「やめよう不毛だ」と打ち消す。
「あなたには関係ないことでした。引き止めてしまって申し訳ありません。では」
強引に話を切りあげ、振り返ることなく歩き出す。
「その人の名前は?」
まだ話を続けるか。
出かけた言葉を呑み、片足を引いて向き直る。
「偽名かもしれませんが……『アゼル』と名乗ってました」
「アゼル……?」
男は何か思い当たることがあったのか瞠目した。予想外の反応にソッフィオーニは「なにかご存知なのですか」と声を上ずらせた。
だが男はすぐに「あ、いや」と手のひらを前に突き出し、
「ごめん思い違いだ。君の期待する答えは持ってない」と言った。
ソッフィオーニは「そうですか」と抑揚のない声で応じ、今度こそ振り返らずに廊下を渡って行く。
残された男はその後ろ姿を眺めていた。
「……そんなわけないよな」
言い聞かせるように呟かれた言葉は、人知れず屋敷の華やかな空気に呑まれ消えていった。
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