第1節(3/3)

 〈蛟〉が手を振ろうとした瞬間、青白い閃光が雲を切り裂き、わずかに遅れて耳をろうする大音響が空気を震わせた。政綱を除いて、屋敷の全員が身を竦め、けたたましく馬が嘶いた。

 思わず目を瞑った〈蛟〉が、庭を見て目を見張った。

「落ちて来たのか……」

 庭の桜が一本、雷に打たれて根元を残して吹き飛び、ぶすぶすと黒煙を上げている。冷風が煙を棚引かせ、また空が光った。

 男たちは耳を塞いで身を伏せた。青白い雷は屋敷の櫓門に襲いかかり、櫓の屋根を粉々に砕いた。門の上に辛うじて残った櫓に小さく火がつき、ちろちろと燃え始めた。

 庭にいた男たちは、もう政綱を見るどころではなかった。まだ弓を持った者も、投げ捨てた者も、慌てて建物の陰に身を隠した。

「国昌、考え直せ」

 政綱が声を張って呼ばわった。

 バリバリと身も縮むような音が鳴り響き、今度は庭の端にあったうまやに雷が落ちた。

 屋根に穴の開いた厩の中で、馬が狂ったように鳴き、誰が見ても手がつけられないほど暴れた。厩の前で飼われている猿が逃げ、首につけられた縄のせいで派手に転び、起き上がって吼えた。

 狂乱の中で、真っ直ぐ立っているのは政綱だけだった。

「神宝を、あの剣を渡せ。このままでは屋敷ごと滅びることになるぞ」

 稲妻。轟音。築地塀の一部が大きく抉れた。

「神の怒りに触れた報いだ、人の子よ。逃げ場があると思うな」

 〈小笹の蛟〉が縁の板床を力任せに激しく殴り、立ち上がった。左右の者たちは声をかけようとしたが、恐怖の兆しが青白く警告すると、賢くも耳を塞いで顔を俯かせた。

 弾けるような音と、女たちの悲鳴。雷は、主屋のどこかに落ちたようだ。

「やり過ぎだ。おまえのほうがまだ優しいな……」

 呆れたような野分丸の声が頭の中に聞こえた。政綱もほぼ同感だが、雷を止める術はないし、仮にあったとしても止める気はなかった。

「政綱!」

 〈蛟〉が、煙を上げる主屋を背景にして庭におりて来た。血で汚れた右手には、細長い赤地錦の包みを握りしめている。

 政綱は小さくうなずいて歩み寄った。

「やっと返す気になったか――」

 次の瞬間に落ちた雷には、政綱もさすがに首を竦めた。ちらりと肩越しに振り向くと、さっきまで立っていた場所を雷が射貫き、土埃を巻き上がらせていた。それにどのような意味があるのかは、この際考えないようにした。

「さっさと取れ! この雷を鎮めろ、人狗よ!」

 突き出された手から包みを受け取った政綱は、括られた金の紐を解き、中身を検めた。無反りで細身の剣だ。さっと鞘から抜くと、美しく均整の取れた鉄の両刃が姿を現した。

「これが本物かどうか、試す必要があるな」

 政綱が猛禽じみた目で睨むと、〈小笹の蛟〉は鼻をひくつかせた。たっぷり数拍の間睨み合い、政綱は向きを変えて厩に向かった。

 厩を壊さんばかりに暴れる馬は無視して、人狗は必死になって縄を噛み切ろうとしている猿に近づいた。猿が大口を開けて威嚇すると、政綱は口を歪めた。

「人狗が嫌いか? おれも猿は嫌いだ」

 政綱は猿が齧った縄を見たが、ひゅんと鉄剣で斬りつけたのは縄の括られた太い木の杭だった。刃は引っかかりなく、易々と杭を断ち斬った。のけぞる暇もなくそれを見ていた猿は、斬られた杭の先端を引きずり、厩から離れて政綱を睨んだ。

「素晴らしい業物だ。神代の作に相違ない」

 そう呟くと、暗い曇り空がぱっと光り、刀身を白く輝かせた。だが雷は遠くで鳴っただけで、落ちては来なかった。

 政綱は剣を納めると、〈小笹の蛟〉国昌に向き直り静かに言った。

「おれの首が欲しければ狙うがいい。殺しの恨みは甘んじて受け容れる。なれど、おれも山の義兄弟きょうだいをおまえに殺された恨みは忘れん。いずれ――いや、もし次に会った時には、刀でけりをつけよう」

 自分に言い聞かせているように思えて、どうにも不愉快だった。

 背を見せ、頭に火を乗せたままの櫓門を潜る政綱を、誰ひとり追うことはなかった。

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