人狗草紙――水神の詫び証文――

尾東拓山

水神の詫び証文

第1節(1/3)

 小笹おざさの町を東西に貫通する街道から小路をひとつ北に折れると、雰囲気はがらりと変わる。

 その薄暗くしずまりかえった小路に、男がひとり入り込んで来た。濃紺の袖と袴を着て、黒い布の手甲と脚絆を当てた背の高い男だ。長い黒髪を後ろで束ねて背中に垂らし、太刀のように美しい柿色の拵をした大刀と、同じように古風な腰刀を差している。

 小路脇に筵を敷いて客を待つ若い歩き巫女が、目の前を素通りしかけた男に声をかけた。

「ちょっと、鳳至山ふげしやま政綱まさつな。声もかけてくれないの?」

 男――政綱は、ほとんど聞こえないほど小さなため息を漏らし、首に長い数珠をかけた歩き巫女に目を向けた。政綱のやや吊り目がちの瞼には、禽獣きんじゅうじみた茶色い目玉――白目のない目玉が収まっている。

 政綱は薄っすらと笑って言った。艶があって低く、どこか冷たい声をしている。

「気づかいのつもりだったんだがな、阿南卑女あなひめ

「その名前、嫌いだって言ったはずよ? いまは楠葉くすはと名乗ってるの。忘れた?」

 楠葉は立ち上がった。身の丈が六尺(約一八〇㎝)近くある政綱には及ばないが、日出ひじ人にしては背の高い女だ。脚も腕も長い。長いというのは、すらっと美しいというだけの意味ではない。並みの人間よりも、はっきりそれとわかる程度には腕が長かった。歩き巫女の楠葉は、人間ではなく土蜘蛛族の女だ。

「そうだった、楠葉」

 政綱は辺りの気配を探りながら、顔だけは相変わらず微笑ませて応じた。

「怒るな、からかっただけだ。尤も、今日はこんな話をするつもりはなかったんだが」

「この先がどんな場所だか知ってる、政綱? 〈小笹のみずち〉が住んでるの。旅慣れたあんたなら、やつの名前は聞いたことがあるでしょ? あの男は――」

「おれのような異人が近寄るのを心底嫌っている。そうだろう?」

 楠葉が政綱の左手を握った。彼女と最後に会ったのは二年半ほど前だが、その頃に較べると少し手肌が荒れたようだ。手甲に肌の擦れるごく小さな音が、政綱には聞こえた。

「行けば殺されるわ。いくらあんたが天狗の弟子でも、百人を相手に戦えるわけじゃない」

「おれは鳳至山太郎坊の弟子だ。都を火の海にしたこともある山神がおれの師匠だ。相手が百人だろうが、ひとりでも戦える」

「でも生きては帰れない」

 楠葉の手に力がこもった。政綱はその手を優しく払うと、胸の前で腕を組んだ。そうしておくべきだとよくわかっている。楠葉のためでもあるが、何より自分のために。

 政綱は言った。

「今日のおれには、雷神がついている。たとえ相手がこの辺の地頭だろうが、あるいは守護なり国司なりであろうが、絶対に生きて帰るさ」

「頭でも打ったの? あんたは風神の子じゃないの」

「子ではなく弟子だ、楠葉。おれの師が風神だからこそ、雷神も助けてくれるんだ。とにかく、おれは心配いらん。自分のことを心配したほうがいい」

 政綱は小路の先に鋭い視線を投げかけた。小路と垂直に交わる道があって、間口の狭い家が建ち並んでいる。道に面した家の格子戸の奥から、こちらを見ている者がいるようだ。

 唇を噛んだ楠葉の顔が、少し青くなった。政綱は格子戸を睨みながら言った。

「いまはひとりか?」

「違う。山伏崩れと道連れになったの」

「いい男か?」

「あんたほどじゃないけれど、中々いい男よ」

 政綱は楠葉の敷いた筵を拾い上げて手渡し、自分が歩いて来たほうへと顎をしゃくった。町を通り抜けて行く旅人が、ひっきりなしに横切っている。

「その男を連れてすぐにここを去れ。絶対に戻って来るな――いいな?」

 筵を巻いて小脇に抱えた楠葉がうなずき、街道のほうに歩き始めた。数歩進んだところで立ち止まり、くるりと向き直るや駆け寄って来た。

「政綱」

 楠葉は、横顔を向けた政綱の頬に手を添えた。一文字に引き結ばれた唇に、柔らかい唇が触れた。

「またどこかで」

 政綱は、「ああ」と答えたが、もう一言添える前に、楠葉は小走りで姿を消した。

「心配するな、政綱――」

 人狗の頭の中に、落ち着いた男の声が直接聞こえてきた。

「おれは、いつだっておまえの味方だ。その気のない接吻を一々告げ口したりはしない」

 政綱は、小路に影を落としている板屋根の上に目をやった。一羽のとびがこちらを見て、小さく首を傾げている。

野分丸のわけまる、おまえが友で本当によかった。おまえも同感だろ?」

 低くそう言うと、鳶の野分丸が笑った。

「そう念を押すな、政綱。あの女から庇うのは、単におまえのためだけではない。おれたち皆のためだ。わかるだろう?」

「それを聞いて、どうやらおまえを信じられそうだ。行くとしようか。さっさと終わらせてしまおう」

 そう言った政綱が歩き出すと、野分丸が空に舞い上がった。

 格子戸から覗いていた男は、開け放たれた戸口に立っていた。萎烏帽子なええぼしに小袖の着流しで、毛の濃い脛が見えている。政綱は男を視界に収めながらも、凝視はしなかった。仲間が近くにいるのはわかりきっている。

 男は、まとわりつくような視線を注いでいた。政綱が薄暗い小路を出て、街道と並走した東西の道に入り、何食わぬ顔で右手方向へ歩いて行くのを、じっと睨んでいる。政綱は背中に視線を感じながら、道の先に見えている築地塀ついじべいに囲まれた屋敷を目指した。

 背中に注がれる視線の数が増えた。隠そうともしない足音がついて来ている。それでも政綱は無視した。政綱が戸の前を通り過ぎた家々から、頭巾を被った男、烏帽子を被った男、総髪の男、いがぐり頭の坊主崩れが何人も現れ、ふてぶてしい表情の年増女、果ては小生意気に口を歪めた子どもまで出て来た。ぞろぞろと後をついて来るのにも、政綱は知らぬ顔を決め込んだ。

 行列を従えた格好の政綱が足を止めたのは、目的の屋敷の築地塀に差しかかり、門まで後少しの地点だった。武士風の肥えた中年男が、鳥の足のように痩せた若者を連れ、門から出て来た。ふたりとも直垂ひたたれの袖紐を結び合わせて襷がけにし、侍烏帽子を被っている。

「こいつは驚いた。人狗にんぐを――山の化け物を、人間様のちまたで見かけるとはな」

 肥えた男が見下したような声音で言うと、政綱の後をつけていた連中が笑い出した。

 政綱は両足を肩幅に開いて、わずかに膝を曲げた。それだけだった。差した刀には指一本触れず、男の脂ぎった顔を見るともなく眺めた。

「おい、お前はどこの山から来た? いや、ちょっと待て。人の言葉はわかるか? 狗のように吠えてやらんと駄目か?」

 どっと笑い声が大きくなった。子どもが狗の真似をして吠えると、大人たちはなお一層野卑やびた声で大笑いした。

 政綱は、静かに瞬きしただけだった。

「人狗は恐ろしく耳がいいと聞いていたが、こいつはそうでもないらしい。もしかすると目も見えてないのかもな。なぁ?」

 肥えた男がそう言うと、隣の若者が心得顔で数歩前に出て、政綱の足元に唾を吐いた。子どもが、悪意に満ちた声でげらげらと笑った。

若い男は、口の端を拳で拭いながら言った。

「それを一歩でも越えてみろ――」

 痩せ過ぎた男が言い終わらないうちに、政綱は唾を股越して言った。

「何が起こるんだ、若造? 何をして見せてくれる?」

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