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目々
発端:そう言って先輩は、
好奇心が八割、あとはすべてとってつけたような理屈ばかりだ。だからこそ初心ぐらいは忘れてはいけないような気がする。
***
四月の終わり、瀕死の春が上げる喘鳴のような風が吹く、いつもより生暖かい夜のことだった。
学生の分際で
「
断言する口調で俺の名字を呼んでから、先輩は酔っ払い特有の大声で馬鹿笑いをしてみせた。
案内されて辿り着いた会場、その外見のボロさに酔っ払いどもは慄いた。
点滅する廊下の蛍光灯。錆びて塗料の剥げ落ちた階段の手すり。廊下の隅には乾き切った蛾の死骸が無惨な羽を晒している。
足の止まった連中に先輩は面倒そうに一瞥をくれてから、
「いわくつきじゃねえよ。ただの経年劣化だ。俺より年上だもんこのアパート」
家主たる先輩の説明はまったく雑だった。だが俺たちは納得した。経年劣化なら仕方がない。
体重を掛けると愛想のない金属音と冷や汗の出るような軋みを立てる階段を登り、怯えながら逃げ込むように入った先輩の部屋は外見よりはマシな代物──それでも独居房じみた殺風景ではあったけども──だったので、安心した一同は家主への挨拶もそこそこに道中で買いこんできた安酒とつまみをいそいそと机の上に並べ始めた。
住民の姿が見えなかったのをいいことに散々に飲んで騒いだが、誰かしらが苦情を言いに来る様子も壁や天井が鳴る気配もない。
「騒いでから聞くのもあれですけど、怒られたりしないんですか」
「しないよ。誰もいないから」
「やっぱりヤバいんですかここ……」
「ヤバかねえよ。さっきも言ったけどボロいだろ。それに来年取り壊すから」
建物の古さにも関わらず住んでいた住人も、取り壊し予定を聞いて出て行った。先月一階に住んでいた男性が出ていき、それ以来、このアパートには先輩一人しかいないのだという。
「だから酒飲んで騒ぐ分には最高なんだよ。壁が薄かろうが何だろうが聞くやつがいないからな」
先輩は上機嫌でビールを呷っている。俺は薄汚れた天井と黄ばんだ壁紙を眺めて、チューハイを啜りながら率直な感想を述べる。
「しかしボロいですね。古い映画で出てきそうなボロさ」
「うるせえな大学も駅も近いし安いんだよ家賃がよ」
「そんな好立地なのになんで取り壊すんです」
「家主がそこそこのじーちゃんでさ。もう色々しんどいってんであれよ、終活的なやつだってこないだ家賃払った時に聞いた」
入学からのよしみで俺が卒業するまでは待ってもらってんのとへらへらと笑って、先輩は空になったビール缶を握り潰す。重たい溜息を一つ吐いてから、また新しい缶を掴み手元も見ずに蓋を開けた。
「幽霊とか出ないのかここ」
「出ねえようちは。酒片手に何てこと言うんだお前」
田津さん──櫛田先輩と同じ四年生だ──の問いに、缶に口をつけて答えた。
「幽霊よか不審者の方が怖えよ。オートロックどころか監視カメラも何もないからな。引っ越してきた初日に階段で蹲って動かない女っぽいやつ見た時なんか死ぬかと思ったもん」
「何だったんですかそれ」
「不動産屋に電話したら馴染みの……病人って言ってたからじゃあいいかなって。梅雨前にはいなくなったし」
「不審者じゃねえか。物理的に危ねえ」
田津さんの言葉を先輩は笑い飛ばした。
「物理的なら物理的に対処すりゃいいだけじゃん。刺されなかったし」
「そういう問題かよ。そもそも嫌だろ、幽霊でも不審者でも。害及ぼせばどっちも一緒だよ」
「幽霊ってもなあ……そもそもそういうの信じてないしね、俺。見たことねえもんこんなとこ住んでても。夜中にうろうろしててもマトリョーシカ売りつけられそうになったことしかないし。三千円で五個」
「なんだその経験。治安とか関係ないだろそれ」
与太話と軽口の応酬が続く。田津さんも先輩も酒を手に、何の生産性も価値もないようなその場だけの会話を続けていく。
「でも……この辺、近いじゃないですか。ホワイトマンション」
ぶつりと会話が途切れる。賑やかしに点けていたテレビの深夜番組で流れている知らないアイドルソングだけがしばらく聞こえた。
一言を零したやつはサークルで顔だけは見たことがあったが、俺は名前を知らなかった。その隣に座ったやつはポテチの筒を掴んだまま、相槌を打つように何度か頷いていた。恐らく知り合いなのだろう。
「俺知らねえけど何、有名なの? 全国的に?」
「いや、そこまでメジャーってわけじゃないけど……ねえ。噂がさ、あるから」
「地元組はそこそこ知ってますよ」
先輩の問いに、顔しか知らない二人が顔を見合わせながら答えた。心当たりがあるのだろう。
俺は勿論知らなかった。先輩は少しだけ眉を寄せて、問いを続けた。
「ホワイトマンションって何だよ。ブラックマンションもあんの?」
「いや、由来は外壁が白いからってだけで……大まかには普通のマンションですよ。ちょっと古いタイプだけど、確か人住んでるし」
「部分的にやべーんだっけ?」
「確か三階が駄目なんじゃなかったっけ。俺の先輩で人っぽいもの見たとか聞いたから」
二人が口々に語ったホワイトマンションの内容を総合すると、つまりいわくつき物件──心霊スポットとして扱われている建物のことだと見当がついた。オートロックもエントランスもカードキーもないような古いタイプの格安マンションで、地元の人間には縁起の悪い建物としてよく知られている。心霊スポットの常らしく、幽霊が出たり行った帰りにひどい目にあったりするのだと、そんな噂があるのだそうだ。
先輩は空になったビール缶をべこべこと鳴らしながら、二人を見た。
「で、それが俺んちの近くにあんの?」
「このアパート来る前、スーパーあったじゃないですか。ポテチとか買った……あそこの裏手ちょっと行くとありますよ」
「本当に近くじゃん。じゃああれだ、行ってみるか」
酔いの絡んだ声で、先輩は笑い交じりに言う。
俺と田津さんは顔を見合わせてから、揃って先輩の方を向いた。薄く酔いの膜が張ってぼやけた目を細めて、先輩は続ける。
「せっかく教えてもらったからな。それにずっと酒飲んでるのも飽きるだろ、二次会とはいえ……夜風に当たってさっぱりすれば、またおいしく酒が飲めるだろ」
付き合うやつはいるかいという言葉に、先程の二人がおずおずと手を上げた。心霊スポットだと知っているのに行こうというのも不思議だが、人数と酔いのせいで血迷ってでもいるのだろうか。田津さんは既に我関せずといった調子で酒を飲み始め、もう一人は部屋に着いた途端にひっくり返って眠っている。
止めようとするやつは、俺も含めて誰もいなかった。
先輩が言い出したら聞かないというのも分かっていたし、本人が言っているようにちょっとした酔い覚ましの散歩のつもりなら大それたこともしないだろう。ならわざわざ文句をつけて雰囲気を悪くすることもない。
身支度という程のものもなく、テレビの上に転がっていた懐中電灯を手にして、よろよろと三人は立ち上がって玄関へと向かう。
「帰りにコンビニ寄ってきてくださいよ。追加でつまみとか、酒とか」
「奢んねえぞ。請求はするからな」
じゃあちょっと思い出作りに行ってくるからなと先輩は懐中電灯を掲げて、へらへらと笑った。
俺と田津さんは見送りに適当に手を振った。目の前でドアは派手な音を立てて閉まった。
そして朝になっても先輩たちは帰ってこなかった。
***
うっすら曇った窓から室内にいやに冴え冴えとした朝日が射す中に、荒れた声が響く。
眉間に皺を深々と刻んで、轟々と回る換気扇の下で煙草を咥えたまま、田津さんはひっきりなしに電話を掛けている。
「──知らねえよ俺だって。俺よかOBに話聞けるやついるだろ。そっちの方当たってくれや。場所は知ってるだろ、俺と稲谷が留守番してるから、指示寄越せ」
通話を止め、天井に向かって煙を吹き上げる。そのままの姿勢で動かない田津さんに、俺は恐る恐る声をかけた。
「どうなんですか。その、色々」
「とりあえず俺とお前は待機だよ。島井バイトの面接があるって帰ったからな。鍵持ってねえし、勝手に帰って櫛田の部屋空にするわけにもいかねえだろ」
寝転がっていたやつはいつの間にか姿を消していて、あいつ本当に何一つ関わらずにいなくなったなとその身勝手さに感心する。
田津さんはスマホの画面を睨んだままひっきりなしに煙草をふかしている。
「勝手にファミレスなり漫画喫茶なりに逃げ込んでるってんならいいけどな。映画みてえに現場にぶっ倒れてるってんなら、一応
とりあえずOBでそのへん詳しい人に連絡つけたからなと田津さんは煙草を手元の灰皿に押し付ける。
そのまま天井を仰いで、欠伸交じりの溜息を長々とついた。
結論から言う。
先輩は見つかったが、戻って来なかった。
田津さんの連絡から、近所のOBや手の空いている連中が心霊スポットに向かった。探し回るほどの手間もなく、そこに先輩と二人はいたのだという。
それ以上のことは教えてもらえなかった。
田津さんも何も知らないそうだ。OBの『
何も知らないし何が起こったかも分からないけども、先輩たちは帰ってこれなくなってしまった。心霊スポットに行ったきり、それきり二度と会えなくなってしまった。
***
後日、
けれどもその因縁のどれひとつとして、先輩方がああなってしまうことへの説明としては不適当だと思った。
結果だけ見せられた。それが俺にとってはひどく居心地が悪かった。何一つ納得がいかなかった。
死者が居座る、怨念が残る、穢れが溜まる、亡霊が集まる。怪談話とは夏の特番ぐらいでしか縁がない俺には、どれも説明にはなりえない。
どれもこれもただの死人、ただの亡霊なのだ。生身の人間だって、人を殺すのはそこそこに大ごとだろう。怪談の定番のように気を狂わせるのも正気を失わせるのも、そんなに簡単なことではない。それが死んだだけで簡単に──何しろ先輩たちがおかしくなったのはたった一晩の出来事だった──できるようになるというのは、ひどく不思議だった。
死んだだけ、ただそれだけの経験一つでそんなことができるようになるのか?
納得できなかった。だから知りたいと思った。
生じた疑問を解決するには実例が必要だ。論を語るにも予測を立てるにも、資料がなければ始まらない。亡霊の所業について語られるもの、つまりそれは怪談だ。
だから俺は怪談を集めようと考えた。
死人の話、亡霊の話、怪異の話。およそこの世のものではない、そいつらがどうこちらに現れ認識されているのか。その結果として何が起きたのか。あるいは起きているのかもしれないが、それはどうしてか──比べるにせよ明かすにせよ知るにせよ、まずは量が必要だ。
怪異が何を為すのか、関わった人間はどうなるのか。語られたものが何を示し、結果何を生じさせるのか。
それを知りたいだけの、つまりひどく個人的で悪趣味な思い付きで、俺は怪談を集めることにしたのだ。
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