タイムリミット・スローライフ

渡貫とゐち

第1話 夢に見たスローライフ

 目覚まし時計がいらない生活。

 深夜に寝て、昼間に起きる生活にやっと順応してきたところだった。


 始めてから数日は、仕事をしなくてもいい(時間に縛られた仕事でないだけで、仕事自体は今もしているのだけど)ことに、罪悪感を感じたものだけど……、あたしの中にある強い従属意識がそう思わせてしまったのだ……。

 会社の洗脳だ、やっと抜け出せとも言えた。


 昼間に起き、朝食ならぬ、昼食を食べて日光を浴びる。

 草原のど真ん中で寝転んで自然を体感する……うーん……風が気持ち良い。

 雨が降った日やその翌日だとこうはできない。晴れが続いた日にしかできないことだ。


 青色の小鳥があたしの顔の横に降りた。

 ちゅんちゅんとあたしの頬をつつく小鳥は、飛んでいく素振りを見せない。

 あたしに心を許しているのか、それともあたしの意識が向いても襲われないと下に見ているのか……。見下されていても安心してくれているならいいか……、森の中の二人暮らしだ、動物と敵対するのは死を意味する。


 幸い、今のところ獰猛な肉食動物と出会ってはいない……、猟銃で対応できればいいけど……もちろん、対処はしているし、罠も張っているから、気づかない内に広い庭の敷地内に紛れ込んでいたということもないだろうけど――。


「あ、またこんなところで寝てる――起きたばっかりでまた寝ちゃうよ、ハイネ」


「イオラ」


 あたしは体を起こす。

 釣り竿を肩に担いでいた彼女の次の言葉は予想できる。

 ……まあ、見れば分かるんだけど。


「魚食べたい。一緒にいこ」



 手を引かれて、近くの川まで足を運ぶ。


 二人暮らしの片割れが、彼女――イオラだ。

 明るい金髪を、りんごの髪飾りで結んでいるサイドテールが特徴だ……彼女の影みたいな、地味なあたしとは別世界の住人……なのに。


「はいこれ、ハイネの釣り竿ね」


「あたし、釣りは苦手なのよね……」


 釣りも、だ。

 魚が釣れたことがない……、釣れるのはカニばかりだ……。


 これはこれで美味しいからいいんだけど……やっぱりイオラみたいな大きな魚を釣りたい。

 それこそが釣りって気がするし。


「慣れだよ。わたしだって最初は全然釣れなかったし……、色々と試していく内に釣れるようになってきたんだから。

 色々と試したわたしが教えるんだから、すぐにハイネも釣れるようになるって」


 と言うので、全面的にイオラに任せることにした。

 下準備を整え、餌を川に放り投げ(投げるところまでイオラがやってくれた……あたしがやったことと言えば、釣り竿の前で黙って座っていることだけだ……なんもしてねえ、あたし)――ぷかぷかと浮かぶウキを見ながら、釣り竿がしなるのを待つ……。


 …………待つ。


 ……………………待つ。


 …………………………ふああ。眠くなってきちゃった。


「ハイネ? 楽しい?」

「……ずっと見ているだけなのを楽しいと言うのは、違うんじゃないかな……」


「釣りじゃなくて。この生活」

「ああ……」


 イオラとあたしの関係性は友達だ……元、と言うと寂しい気がするけど、実際、何度も連絡を取り合っていた仲でもないのだ。

 学園(ちょっとおかしな)を卒業して、それきり……。大人になり、会社に入って仕事をして……、五年間もみっちり働かされたあたしは、学園の友人と一切連絡を取っていなかった……取れなかったのだ。


 多忙だった。

 家に帰れば寝るだけの、そんな生活が続いて……。

 友達と連絡を取らなくなって五年も経てば、友達だった子たちを友達と呼んでもいいものか……、イオラはその中の一人だった。


 再会したのは偶然だったのだ。


 路上で倒れていたあたしを介抱してくれたのが、イオラだった……。


「ハイネ、すっごい貯金があったからね、しばらくはこのスローライフを送れると思うよ」


「昔よりは収入は少ないけど、仕事はしているから、ゼロになることはないと思うよ……。生活して減った分を、報酬で補っているようなものだしね……。

 今の仕事がなくならない限りは、このスローライフは続けられると思う」


「じゃあ、ハイネとずっと一緒だね!」


 イオラに誘われ、あたしは仕事を辞めて、この生活を始めた。追い詰められていたからだったのだろう……、たぶん、イオラがあたしを騙していたのだとしても、疑わずに縋っていたはずだ……。

 とにかく仕事から逃げたかった。

 理由はなんでも良かったのだ……。

 もしもイオラと再会していなければ――片足片腕でも斬り落としていたかもしれない……。


 出勤できない理由を作って、家でゆっくりと寝たかった……、もしかしたらあの会社は、あたしの片足片腕がなくなっても、出勤しろと言ったかもしれないけど……。

 いま考えればどうしてすぐに辞表を出さなかったのか、疑問だ。

 洗脳されている時は、そういう逃げ道も見えなくなってしまうのだろうか。


 怖いなあ……会社って。


 社会って、恐ろしい場所だ。


 世俗から切り離された、こういう森の中が一番安心する……、安全とは言えないけれど、でも、あたしからすれば獰猛な肉食動物よりも、舌打ちばかりの上司の方が怖い。


 上司に髪を掴まれて、引っ張られるより、


 肉食動物に押し倒されて牙を突き立てられた方がまだマシだ……――ただ、前提としてあるのが……どっちも嫌だけどね。

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