007『初めての深淵魔術』

 言うまでもないことだが、僕は陰キャの中の陰キャ。世の中の陰キャの多くがそうであるように、僕も荒事とは縁遠い生活をしてきた。


 悪意を向けられた経験は腐るほどあるが、敵意を向けられた経験は数えるほど。ましてや、殺意なんてものはおそらく一度もないと思う。


 そんな平和ボケした人生を送ってきた僕が、この状況でビビらないわけもない。彼の問いかけに返す中二台詞はすぐに浮かびばしたが、そのいずれも口から出ていくことはなかった。

 

 場に張り詰めた沈黙が漂う。

 重苦しい緊張感に血の気が引くのを感じる。思わず立ち眩みを起こし、僕は数歩前に蹈鞴たたらを踏んでしまった。


「答えないというのであれば敵とみなす」


 僕が前にふらついたのを近づいてくるとでも勘違いしたのか、オールバックの男は強い語調でそんな警告を吐きながら素早い動作で腰から何かを取り出した。

 それが拳銃だと気がついた直後、


 ――パンッ!!


 マズルフラッシュが暗い裏路地を一瞬だけ明るく照らす。

 死んだ――そう思った刹那、目の前に黒炎のベールが僕を守るように地面から立ち上った。

 ジュッ、と何かが蒸発する音。錆びた包丁を研いだときのような、鼻をつく金属臭。それにやや遅れて火薬の煙が鼻をなでた。

 

 訳も分からぬ間に起きた一瞬の攻防に瞬きすら忘れ、僕はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。


 鈍臭い心臓が今になって激しく高鳴り始め、冷や汗がタラリとこめかみをなぞった。

 今更ながら僕は実感していた。これが――〝本物〟の世界だということに。僕のような道化が立ち入って良い領域ではないということに。


 このまま脱兎のごとく逃げたいのが正直なところだが、さっきの黒炎のベールでアルシエルがこの場に居ることは確定した。おそらくは〝潜淵踏破せんえんとうは〟の自動換装機能によって、魔導書アルシエル本体が外套内側のホルダーに自動装着されたのだろう。


 アルシエルが居るのに敵前逃亡なんてしてしまえば、後でどんな目に合うかは簡単に想像がつく。逃げるという選択肢は取れない。前門の虎、後門の狼とはまさにこのことだろうか。


 とりあえず、敵の攻撃に対してはアルシエルが勝手に対応してはくれることは分かった。ここで無様に逃げてアルシエルに見限られるよりは、アルシエルを信じて中二病を演じ続けるほうが幾分かは未来が明るい。ほかに僕ができることはなさそうだ。


 とはいえ、本格的に戦闘になったら馬脚を現すことにもなりかねないわけで……そうなると、一番良いのはこのオールバックの男が引いてくれることなのだが……。


 ――頼むから引いてくれ……頼む……頼む……!


 頭の中で必死にそう願っていると、僕の祈りが天に通じたのか、オールバックの男が警戒したように僕から距離を開けた。


「……それを待っていた……っ」


 嬉しくて思わず口に出てしまった。少なくとも敵は得体の知れない僕という人間を警戒するだけの理性的な性格のようだ。好戦的な戦闘狂タイプじゃなくて本当に助かった。


 だが、まだ窮地に居ることには変わりがない。ここからが正念場だ。アルシエルの魔術プラス口八丁手八丁でどうにか切り抜けなくては――と気を引き締めようと思った矢先、唐突に件の少女が地面に沈みこんだ。


 彼女の下には暗い穴のようなものが広がっている。それはまさしく〝潜淵踏破せんえんとうは〟の特徴だった。

 少女はもちろんのことオールバックの男も驚きに目を見開いている。

 おまけに僕もギョッとする。僕の足元にも〝潜淵踏破せんえんとうは〟の穴が開いていたからだ。


 せめて合図ぐらいしてほしかった。この魔術を体験するのは二度目だが、この底なし沼に沈んでいくような感覚には慣れそうにない。不意打ちは流石に怖すぎる。悲鳴を上げなかった僕を褒めてほしい。


 深淵の穴に沈み消えていく視界の向こうで、オールバックの男が焦った様子で少女に向かって何かをしていたが、幸いにも例の黒炎のベールによって妨げられて少女は無事のようだった。


   ***


 一瞬の暗転――そして、急激に景色が切り替わる。

 そこはどことも知れぬビルの屋上だった。すぐ横にはきらびやかな街並みを唖然として見下ろす謎の少女。


 裏路地では暗くてよくわからなかったが、月明かりで明るいここに来て彼女がとんでもない美少女だということに気がついた。


 青みがかった長い灰色の髪の毛。同色の瞳は涼し気な切れ長で、肌は人形のように艶やかな白皙。体つきは細身だが胸元には女性的な曲線がしっかりと描かれている。

 妖精とか女神とか、陳腐な表現をしたくなるような美しい少女だった。


 彼女がめちゃくちゃ美人だとわかった途端、助けられて良かったなんて思った僕。我ながらなんて現金な奴だろう。

 まぁ、でも人間なんて所詮はそんなものだろう――なんて人類に責任をなすりつけながら、僕は彼女に声をかけた。


「怪我は?」


 少女は僕の方へ振り向くと、柳眉をわずかに歪めた。そして、僕の問いには答えず、逆に僕へ問いかけてくる。

 

「……貴方……何者?」


 つい普通に「あ、僕は黒地明人って言います。どうも」なんて言いそうになって、すんでのところで飲み込んだ。


 窮地を脱したことで気が抜けていた。僕は今、深淵の魔術師〝黒淵アギト〟なのだった。


「……何者か知りたいのなら、まずは自分から名乗ったらどうだ?」


 腕にサブイボが立つのを感じながら、どうにか言い切った。見目麗しい女の子相手だから余計にキツい。


 ふと、中学時代に女子へ同じような台詞を吐いて悲鳴が上がった記憶が蘇った。当時はそれを「格好良い!」のキャーと捉えていたが、後にして思えばあれは「キモい!」のキャーだった。


 中学時代の女子のドン引きした目線を思い出す。

 発作が起きそうだった。


 ――こ、これは演技……生きるために仕方なくやることなんだ。本当の僕じゃない……だから、落ち着け。


 自分に言い聞かせて必死に気持ちを落ち着かせる。

 それからしばらく、僕は今すぐにでも顔面を覆って叫びたくなる衝動と戦いながら、必死に厨二病を演じながら彼女との会話を続けた。


 その中で、色々と重要なことを僕は知ることになった。

 彼女の名前がカエシアということ。魔女であること。魔女には敵対する組織、魔術機関ユニオンというものが存在すること。そして、その魔術機関とやらは魔術師たちに畏怖される恐ろしい組織であることを。


 どうやら、この世は想像以上に中二病的な世界だったらしい。


 そして、ついに話は『何故、僕がカエシアを助けたのか』というところへつながった。


「――『お前を助けたのは、ただ』何? 何が目的なの?」


 カエシアが神妙な顔で僕に問いかけてくる。

 答えるべき台詞はすでに浮かんだ。ここへやってきた理由は唯一つなのだからそれも当然だ。

 だけど、即答はできなかった。

 

 想像してみてほしい。相手は海外のモデルもかくやという美少女で、一方の僕は冴えないただの男子高校生なんだぞ。どんな顔で「お前が欲しい(キリッ」なんて言えばいいんだよ。


 大したツラでもねぇくせに痛すぎでしょ。ただしイケメンに限る、という言葉を知らねぇのかよって。


「…………」


 だが、そうも言ってられない。カエシアはじっと僕を見つめて言葉を待っている。もちろん、アルシエルだって僕が言うのを待っているだろう。

 どんなに恥ずかしい台詞だろうとも、逃げるわけにはいかないのだ。


 諦めの極地に至り、僕はただ機械的に言った。

 

「……俺は世界が欲しい。そのためにお前という駒が欲しかった。ただ……それだけのことだ」


 あぁ……中二病を演じるのって辛いなぁ。

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