第10話 終幕

「あ、誰だよ……?」

「夜分遅くに申し訳ありません。警察です」

「け、警察っ⁉」


 呼び鈴を鳴らした後に億劫そうに出てきた半田は、智輝の名乗りに過剰なほど動揺した様子だった。


「……このアパートの騒音被害に関する相談が警察に寄せられていまして」

「っ……あいつ、警察に言いやがったのかよっ!」


 半田が、ぎろりと木村の部屋のドアを睨む。智輝が相談者の名を隠しても、それは意味を為さなかったようだ。

 木村と佐々木の部屋から光が漏れている。半田と智輝の話し声は、おそらく二人にも聞こえているだろう。だが、どちらも動く気配はなかった。


「警察に相談されるのに、なにか不都合でも?」


 大した思惑のない質問だった。鎌をかけるというのもおこがましいほどに、気軽に放った言葉である。

 だが、それが与えた影響は、予想を超えるほど大きかった。

 ガタッと体をよろめかせて玄関ドアにぶつかった半田が、ドアを閉じようとするのを見て、反射的に摑む。


「っ……帰ってくれ! 話すことはなにもない!」

「いえ、そんなにお断りされるほどのことを聞くつもりはないんですが……。一応言っておきますと、大家さん、このアパートの建て壊しを検討しているようですよ」


 半田の態度に思うところがあった智輝は、今度こそ鎌をかけるつもりで言った。途端に、半田の力が弱まり、智輝は合わせるようにドアから手を離す。呆然とした表情の半田が、これ以上拒絶するとは思えなかったのだ。


「……え? 建て壊し……? な、なんでだ……?」

「住人からも、近隣からも苦情が多いようですし。大家さんもお疲れになったのではないでしょうか」

「そ、そんな。それじゃあ、俺は、どうしたらいいんだ……。ここより安い家なんて、どこにあるって言うんだ……。こんなことのために、したわけでは――」

「いったいなにをしたと言うんですか?」


 掛かったな、と思うと同時に、半田の口を滑らせるにもほどがある発言に呆れる。これまで頭を悩ませてきた智輝が馬鹿みたいに思えるから、もう少し頑張ってほしい。本気で隠されても面倒だから、あと少しだけ。


「な、なあ、あんた警察だろ? 大家に言ってくれないか。騒音についてはもう言わないから、壊す必要はないって! アパートをやめるなって!」

「……あなた自身が騒音を出していたとでも言うんですか?」

「っ……悪かったと思っている。騒音を出したというか、小さな軋み音とかを大袈裟に騒いで責めたというか……。とにかく、家賃の支払いから逃げられれば良かったんだ。アパートをやめろとか、そこまで言うつもりなかった……」


 智輝は本格的に呆れた。ただでさえ安い家賃を、半田は払いたくなかったらしい。アパートをやめさせるつもりはなかったようだが、考えが浅はかだ。

 家賃の支払いが滞れば、当然大家の生活が苦しくなる。そこまでして、大家がアパートを継続させる理由がどこにあるだろうか。売れば高値になると分かっている土地なのだし。


「……木村さんと言い争っていたのは? 示し合わせて騒いだのですか?」


 騒ぎを起こしていたのは半田だけではない。二人が実は関係が深い可能性を考えて指摘した。それならば、木村が後ろめたい様子だったのも理解ができる。

 だが、きつく睨んできた半田の様子を見て、その予想が外れたことを悟った。


「あの女と示し合わせるなんて、するわけねぇだろ! あいつ、本当に最低な女だぜ! 俺の行動を監視してんだ! 気持ち悪いだろ⁉ どうせ、ちょっと聞こえる音も、あの女がなにかやってるに違いないんだ! あいつ、俺を追い出そうとしてるんだよ! あいつが気に入らないやつは追い出される。あの大学生は気に入られたらしいが、そこに前住んでたヤツは、気がおかしくなって出て行った! あいつ、ヤバい奴なんだよ! 警察ならあいつを捕まえろ!」

「落ち着いてください!」


 摑みかかってきた半田の肩を押さえる。そこでようやく他の住人にも動きがあった。チェーンを掛けたドアの隙間から顔を覗かせたのは佐々木だ。

 助力が必要かと問うような視線を向けてきた佐々木に、智輝は首を振る。興奮しているとはいえ、体力のなさそうな市民を取り押さえるのに、大学生の力を借りていたら警察の面目丸つぶれである。

 木村は玄関近くまで来た気配はあるものの、なにかを怖がるように固まっているらしい。


「……あいつを捕まえろ。あいつがしてたこと、知ってるか? あの部屋に霊がいるとして、恨まれてるのは大家じゃない。あの女だ!」

「田島さんに?」


 興奮が落ち着いてきた半田が語る言葉に耳を傾ける。木村が隠す真実に近づいた気がした。

 大家が言った心霊現象という言葉に、一番恐れを抱いたのは誰か。半田がわざと騒ぎ立てただけで、それほど大きくもない音を、警察に相談してきたのは誰か。相談することで、その人物はなにを望んでいたか。


「あいつは怖いんだよ。あのじいさんの霊に復讐されんのが。だってさ、あいつ、ヤバい奴なんだぜ」


 告げ口するように、半田が智輝に顔を近づけ声を小さくした。


「――あの女、じいさんが気に入らないからって、四六時中隣の部屋からじいさんに囁いてたんだよ。『死ね、死ね……さっさと死ね』ってな。死んでから発見されるまでの間も、ずっとだ。そんなことされりゃ、恨んで当然だと思うぜ――」


 智輝は半田の言葉から想像された光景に言葉を失った。



 ◇◆◇



「――なんというか……」


 立ち去った二日後に報告に訪れた智輝を、葵は嬉々とした様子で出迎えた。だが、今は初めて見るほどの顰め面になっている。その気持ちは智輝もよく分かった。

 智輝こそ、真相を知った瞬間にそんな顔になっていただろうからだ。


「騒音トラブルは、半田が家賃惜しさにクレームを言っていただけ。ついでに監視されている状態の怒りを木村にぶつけるためだった」


 葵宅に着いて早々、輝く笑みで差し出された茶器で智輝が淹れた紅茶は既に冷えていた。それを渋い顔で飲む葵を見ながら、智輝はこれまでに話した内容をまとめる。言葉にしてみれば、ほんの数行でおさまってもおかしくない内容だが、精神が抉られそうだった。


「木村は確かに監視していたが、騒音の心当たりはない。元々が周囲への支配欲が強い性格なんだろうな。気に入らない者は排除したいし、そうでなくても行動を監視するのは当たり前。騒音の原因だと悪しざまに言われることに怒りがあったから警察に相談した。大家の発言も理由になった。警察に霊のせいではないと言ってもらいたかったんだ」

「心霊現象という言葉を信じられないと思いながら、誰よりも恐怖を感じていたんだね――」


 葵が智輝の言葉を継ぐ。呆れの濃い表情だった。


「――恨まれる覚えがあったから。田島さんが隣で生活している間、追い出すために隣室から脅迫を続けていたとなればねぇ。壁が薄いからそれで十分だと思ったんだろうけど」

「佐々木くんの前の住人にもなにかやっていたみたいだからな」

「……呆れた」


 一言で切り捨てた葵に苦笑する。


「田島さんは年をとって、耳が遠くなっていたから、おそらく聞こえていなかったというのは救いだな」

「……そうだね。独りで死んでいく上に、そんな囁きまで聞かされていたら、成仏できなさそうだもの」


 今度は気の毒そうな表情だ。智輝も田島の思いに心を傾けて、暫く黙る。

 それから、ふと気づいたことがあって呟いた。


「……たぶん、幸恵さんは知っていたんだろうな」

「田島さんの世話をしているときに、たまたま聞いたのかもね。さすがに、人が来ている時は木村さんもそんなことをしないよう気をつけていたはずだけど」

「半田まで知ってたからな。あの防音性能がない建物じゃ、さもありなんという話だ」

「幸恵さんが言った通り、さもしい男だし、恐ろしい女だったね」


 これで、智輝が担当した件は終了だ。原因が明らかになり、既に大家が解決法を見出している。これ以上、警察が関与すべき点はない。

 この件で、捕らえられる人物はいなかった。半田のクレームは確かに大家を疲弊させたが、大家に訴える意思はなかったからだ。

 木村に関しては、既に脅迫した相手が故人であるため、訴えられる人がいない。監視行動についてはグレーゾーンで立証が難しい。


「半田と木村に咎められる点があって、大家が退去をお願いしようとしても、大して抵抗できないようになったのは良かったね。勇二くんから連絡があったよ。警察と関わりたくなかったら、静かに引くようにって二人に言ったんでしょ?」

「……そんなことをあいつは葵さんに言ったのか」

「かっこよかった! って、興奮していたよ。でも、職権乱用だったんじゃない? 警察が関わることじゃないでしょ」

「……自覚はある。注意は受けた」

「お人よし」


 葵が揶揄するように、だが、理解を示した表情で微笑む。智輝は目を逸らして、窓の外を流れる雲を眺めた。

 智輝の脅迫ともとれる言葉は、余計なことだったかもしれない。だが、もうあの大家にアパートのことで頭を悩ませてほしくなかったのだ。自分の人生を、妻を想いながら大切に生きてほしかった。ほんの少ししか関わりを持たなかったが、そう感じる程度には、大家に心を傾けていた。


「……奥さんだって、旦那がいつまでもあそこに縛られることになったら、安心して待っていられないだろ」

「送った魂が、こちらを把握することはないけどね」

「……こんなときばかり、冷めたことを言うんだな」


 シラッとした顔で言う葵を軽く睨んだ。葵が肩をすくめる。


「智輝、紅茶のおかわりがほしいな」

「自分で淹れろ」

「やだ、智輝のがいい」

「……はぁ」


 子どものようなことを言う葵のために、智輝は仕方なく腰を上げた。

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