クライエラの幽微なる日常 ~怪異現象対策課捜査File~
ゆるり
File1: 古アパートの怪(全10話)
第1話 始まりを告げる
風が吹く。カーテンが揺らいで新たな陰影が生まれた。
窓は開いていない。不自然に風が部屋を吹き抜けただけだ。
「――眠いんだけど」
ぽつりと呟き視線を動かす。風はなにかを伝えようとしているのだろう。だが、その思念はあまりにも曖昧で、読み取るのが困難だ。
「なんなの? 僕は締め切りが終わったばかりで、もう寝るつもりなんだよ。徹夜明けなんだ。面倒なことには関わりたくない」
その言葉に返る声はなく。はぁ……と大きなため息が漏れた。
いつだって世界は勝手に役目を押し付けてくる。思い通りになんて動いてくれない。
――ブーッ、ブーッ。
紙が散らばったデスクの上で、スマホが震えていた。画面には見慣れた名前が表示されている。
じっと見つめても切れる様子はない。これは出るまで掛け続けて来るパターンだ。相手の考えは、身に染みるほど熟知していた。
ため息をつきながら、画面をスライドする。
「……はい?」
聞こえてくる声に耳を傾け、眉を寄せた。
どうやら自分の担当が変わるらしい。それはいい報告なのか、悪い報告なのか。
先ほどまで揺れていたカーテンが静まっていた。伝えるべきことは伝えたと言いたげだが、なんの役にも立っていない。
相変わらずこの世界は曖昧で不自由だ。
「……分かりました。……え、今日の午後? 随分と急ぎますね?」
返る言葉に、眉間にグッと力が籠った。
「……ええ、いいですよ。でも、僕を振り回すのはこれで終わりにしてほしいものです」
相手がなにやら言っているのを無視して、通話を切る。
眉間を指で揉んでほぐしながら、客を迎える準備のために立ち上がった。
◇◆◇
東京。桜田門。警視庁。
「生活安全部……怪異現象対策課……本当にあった……」
あってくれなければ困るわけだが、あっても困惑するとはこれいかに。
智輝は肩をすくめて、古びた扉に手を掛けた。だが、力を掛ける前に扉が開かれ、僅かにつんのめる。
「おや? 誰かと思えば、君は今日から配属の神田くんかな?」
「――はい。ご挨拶が遅れ申し訳ありません。この度、怪異現象対策課に配属されました、神田智輝と申します」
慌てて体勢を整えて礼をとった。
怪異現象対策課は少数精鋭の部署だと聞いている。そして智輝が最も階級が低いとも。
扉を開けた男は柔和な顔をしていたが、体育会系が多い警察組織では、上下関係に厳しい者が多い。よく分からない部署であり、望んだ配属ではなかったとしても、上司からの第一印象はいいものにしておきたかった。
「はは、そんなに硬くならなくていいよ、僕ノンキャリアだし」
「えぇっと……課長でよろしいですか?」
「そう。怪異現象対策課の課長、
部屋の奥に進む木宮の後に続きながら話を聞く。
どうやら現在、怪異現象対策課の同僚はみな出払っているらしい。このまま、木宮が教育係になって智輝を指導してくれるようだ。
「指導と言っても、基本的にうちの課は、民間の協力者とタッグを組んで、問題の解決を目指す方針だから。実地で慣れてもらうしかないんだよね」
「あの……そもそも、怪異現象対策課とはどのような仕事を担当するのでしょうか。この度配属されるにあたって、初めてこの課の存在を知ったもので、仕事内容をいまいち理解しておりません」
さっさと放り出されそうな気配を察して、智輝は慌てて説明を願った。
そこで初めて木宮は説明不足を感じたらしい。面倒くさそうに頬を搔きながら、デスクや雑多な荷物で溢れた床を縫うように歩き、壁際のホワイトボードに近づいた。
「確かにそこから説明が必要だったね」
木宮がホワイトボードに書きながら説明してくれたことによれば、怪異現象対策課とは、警視庁に試験導入されて、まだ数年ほどしか経っていない部署らしい。未解決の相談が増える状況を憂い、特殊捜査を行う部門のひとつとして仮設された。
主な仕事内容は、生活安全部に寄せられた相談ごとの中から、不可思議な現象をピックアップして捜査すること。それの原因が人間によるものであれば、対応の部署に案件を引き渡す。だが、もしそれが、人知の及ばない存在によるものだった場合は――。
「――場合は……?」
ひと呼吸おいた木宮に我慢できず、思わず反復して説明の続きを願う。
「うちと契約している民間の協力者に対処をお願いするんだ。人知の及ばない存在っていうのが、いわゆる怪異、心霊というものさ。つまり、協力者は霊能者の
「霊能者……」
なんとも怪しい印象を拭えない名だ。
日本では、霊能力があると謳って詐欺を行う者がごまんといる。
そのような連中とそれを取り締まる側の警察がタッグを組んでいるというのが少し納得できなかった。
「君、心霊現象とか信じないタイプだね?」
「……はい、申し訳ありませんが」
「いいさ、いいさ。僕もそうだったから。でもね……」
木宮が智輝の肩を摑み、顔を覗き込んでくる。
「――見て知れば、おのずと分かるようになる。
愉快げに、悲しげに、不安げに。
どれともつかない笑みを口元に浮かべた木宮を、智輝は息を飲んで見つめるしかなかった。
「さて、ここで問題だ」
不意に身を翻した木宮が、再びホワイトボードに向かった。空気を破るような唐突さである。
その変化について行けず、智輝は困惑を籠めた眼差しを木宮に向けた。木宮がなにを言おうとしているか読み切れない。
「僕たち警察は、法と秩序の名の下に、様々な問題に対処する。では、幽霊に法は通じるか?」
「……通じません」
怪異だとか心霊だとか、その真偽はまだ智輝には分からない。だが、そんな不確かな存在に法が通じるわけがないことは、言われずともよく分かっていた。法で幽霊は裁けない。
「そう! だけど、僕たちはそういう存在を相手にしなくてはならない。時に落としどころを見つけ出して、妥協しなければならない。僕たちの仕事は、完全なる正義とは言えないものだ」
木宮は【法】と【秩序】という言葉にバツ印をつけて、智輝を振り返った。
「目に見えるものを、耳に聞こえる音を……疑え。協力者でさえも、安易に信頼してはならない。彼らは僕らの目に見えないものを見て、聞こえない音を聞く者たちだ。どれが本当でどれが嘘かなんて、普段見えも聞こえもしない僕たちには分からない」
それでは、協力者とはなんなのだ。言葉に出せない疑問が頭を巡る。
智輝の困惑を知ってか知らずか、木宮は話を締めた。
「この怪異現象対策課は試験導入された部署だ。本当にこの部署が必要かどうか、判断材料を上に渡すのは僕たちの役目。そして、協力者の鑑別もまた、僕たちの仕事だよ。必要ならば詐欺罪で捕らえるように証拠集めをしなければならないからね。あまり心を傾けすぎないようにしなさい」
木宮の助言に、智輝は上手く飲み込めないまま頷いた。
それに満足げに頷いた木宮が、デスクに置いてあった封筒を手に取り差し出してくる。
「君とタッグを組む協力者は、僕の方で決めておいたよ。これまで僕とタッグを組んでもらっていたんだけど、とても優秀な子なんだ。僕はちょっと別の捜査で忙しいから、君と組んで捜査に当たってもらいたい。気難しい部分はあるけど、慣れたら君との相性はいいと思う」
「はあ……」
よく分からないまま、とりあえず封筒を受け取った。おそらくこの封筒の中に、協力者に関する資料があるのだろう。
「この課のこれまでの捜査報告書は隣の部屋にあるから、適宜確認してくれて構わない。……怪異現象対策課が仮設されてまだ数年とはいえ、結構な数だから、あまり無理して確認しないようにだけ気をつけて」
指された隣の部屋に目を転じると、開け放たれた扉の向こうに、大量のファイルが見えた。見えている量の数倍は報告書が置いてありそうな気配に、智輝は乾いた笑みを浮かべる。
怪異現象対策課なんて、窓際部署で退屈な仕事なのだろうと思っていたが、予想以上に忙しいらしい。
これからどんな日常が待っているのか、智輝は怖くなりながら、粛々と封筒の中身を確認することにした。
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