新患

 結局わたしが近くの精神科に電話をかけたのは、三日経ってからだった。スマートフォン越しに、ツー、ツー、ツー、と話し中であることを知らせる音が鳴った。仕方ないので電話を切って、ネットでもう一軒べつの精神科を探す。そしてそこへ電話をかける。


「お電話ありがとうございます。タテカワクリニックです」

「こんにちは。そちらに予約を入れたいのですが……」

「失礼ですが、当院を受診されたことはありますか?」

「いえ、ありません」


 電話口の向こうで、一瞬だけ相手が黙った。


「大変申し訳ないのですが、現在、新患受付は行なっておりませんので……」

「そちらでは診てもらえない、ということですか?」

「はい。申し訳ございません」


 わたしは、わかりました、と言ってすぐに電話を切った。なんだかイライラした。「助けてください」と頼んでもいないのに、「あなたを助けることはできません」と拒絶されたようで……。

 また別の病院を探して電話をかける。自分が少しムキになっていることに気づいた。なにがなんでも、どこかの精神科か心療内科に新患として予約を入れてやる、と。


「お電話ありがとうございます。こちらは……」

「そちらは新患の受付は行なっていますか?」

「あ、えっと……。はい、はい、行なっておりますが、ただ……」


 相手が病院名を名乗る前に、わたしはさっさと本題に入った。なにせ病院名はわかった上で電話をかけているし、そもそも病院の名前などどうでもいいのだから。電話口の向こうから、なにやら戸惑った声が聞こえて、そして少しの静寂があった。


「ただ、なんですか?」

「あっ、申し訳ありません。新規の方ですと、予約が取れるのは早くても二ヶ月後となりまして……、それでも構いませんか?」

「二ヶ月後……。六月の終わり頃ですか」

「さようでございます」


 二ヶ月……。まあ、いいか。もっと早く診てくれる病院もあるのかもしれないが、そもそも新患を診てくれない病院もあるわけで、そうだとしたら一体あと何軒の病院に電話すればいいというのか。


「構いません」

「承知しました。お名前とご連絡先を頂戴してよろしいでしょうか」

「わかりました」


 わたしは名前とこのスマートフォンの番号を伝え、相手が復唱するのを聴いた。それから、間違いありません、と答える。


「それでは山富様、二ヶ月後以降で都合のよろしい日時はいつでしょうか」

「六月最後の水曜日、時間はいつでも構いません。その日がダメでも、それ以降の水曜日で、それなら何時でも大丈夫です」

「承知しました。ご確認致しますので、少々お待ちください」


 電話口から保留音が流れる。水曜日は講義がない。

 保留音が途切れ、お待たせいたしました、とさっきと同じ声が聞こえた。


「六月最後の水曜日——六月二十八日——の、午後二時からでよろしいでしょうか」

「はい、それでお願いします」

「では、お待ちしております。本日はお電話いただきありがとうございました」

「失礼します」


 電話を切って、わたしは思わず大きな溜息をついた。なんだか電話で予約を取り付けただけで、随分と疲れてしまった。


 それにしても。わたしは死ぬつもりがあるわけではないからいいけれど、精神科や心療内科に行こうとする人の中には、今すぐにでも死んでしまいたい、だけど……、という人だって、いるんじゃないだろうか。そんな人が二ヶ月も待てるのだろうか。そもそも最初の病院は、新患の受付自体、していないと言っていた。

 きっと事故にあった人を跳ねのけたり、二ヶ月も待たせたりは、しないだろう。あるいは倒れてしまった人を、包丁で刺されてしまった人を……。


 まあ、いいや。なにも考えたくない。

 明日は霧品先生の講義がある。精神科に予約を入れたことだけでも伝えたら……、いや、伝える必要があるのだろうか。どうしてわたしがあの先生を安心させなくちゃならないんだ?


   — - - - — - - - — - - - — - - - — - - - —


 ぼんやりと壇上の霧品先生を眺める。いまさらにわたしは、随分とこの人は背が高いなあ、と気づいた。ひょっとして、二メートルあるんじゃないだろうか。なんだか細長くて、今にもぽきっと折れてしまいそうだ。

 少しずつ、ほんとうに少しずつとはいえ、講義の内容は大学生が受けるものらしくなってきている。ただ、まだこの辺りのことは、少なくともわたしはもう知っていることだったから、やっぱり退屈だ。


 ふとまた切りたい衝動が起きかけたものの、わたしは珍しくそれをなんとかいなした。この教室を出ていっただけでも、霧品先生はきっとまた前回と同じようにわたしが自傷行為をするのだろう、と思うだろうから。

 ……、どうして、そう思われたらいけないんだろう。


 やがて講義が終わり、学生たちは一人また一人と教室を出ていった。霧品先生は黒板消しを手に取って、黒板に滑らせる。

 霧品先生がふいにこちらへ顔を向けた。教室にはもう先生とわたししかいない。


「やあ。もしかして、次の時間は講義がないのかな?」

「ないですね」


 先生は、そっかあ、と間延びした声で答える。


「精神科に予約入れましたよ」

「へえ」


 わたしの言葉に先生は意外そうな顔をする。


「てっきり僕の言ったことなんて、無視するかと思ってたよ」

「そうしようかとも、思ったんですが。まあ、なんとなく……」

「それで、いつ行くの?」

「六月の終わりです」

「二ヶ月後? そんなに混んでるのか……」


 先生はそう言って、少し心配そうな表情を見せる。


「最初に電話したところなんか、新患は受け付けてないって言ってましたよ」

「そっか……」

「先生は今も病院に行ってるんですか?」

「行ってるよ。どうして?」


 わたしは、いえ……、と言葉を濁す。そして机の上を片付けて、鞄を手に立ちあがる。


「ねえ、次の時間、講義がないんだよね?」

「そうですね、さっき言った通りですが」

「暇?」

「えっと、暇ですが……」

「じゃあさ、お茶しない? 食堂の隣にカフェがあるでしょ、そこで」


 お茶? 大学の教員が、学生と?


「無理強いするつもりはないよ、もちろん」

「はあ……」


 先生はわたしの目を覗きこむようにしながら、少し首を傾げた。

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