研究室

 新しい傷を一本だけ作って、わたしは急に、とてつもなくくだらない、と思った。新しいティッシュを出して、折りたたんで六本の傷の上に被せる。そして血の染みた包帯をまた巻いた。


 包帯を巻くの、うまくなったな……。


 ふとそんなことを思って、そしてなんだか笑えてしまった。


   — - - - — - - - — - - - — - - - — - - - —


 六限の講義を終えて、わたしは図書館の方へと向かう。確かに図書館の隣には、高い建物があった。その入り口をくぐり、エレベーターの横にあるボタンを押す。エレベーターの扉はすぐに開いた。

 エレベーターに乗って、七階のボタンを押す。誰も乗ってくることのないままエレベーターの扉は閉まり、すんなりと七階に着いた。開いた扉をくぐって、廊下へと出る。


 エレベーターホールからは左右へと廊下が伸びていた。なんとなくわたしは左の廊下へと足を踏みだす。右の壁にも左の壁にも、同じサイズの扉が並んでいる。そしてそれぞれの扉には名札がついているようだった。


 わたしは名札をひとつずつ見ながら、廊下を進んでいった。そしてかなり奥まで来てやっと、「霧品シキミ」と書かれた名札を見つけた。


 わたしはその扉をノックした。扉の向こうから「どうぞ」と、くぐもった声が聞こえた。わたしは扉を開いて部屋の中へ一歩踏み出し、軽く頭を下げ、「失礼します」と声に出す。


「やあ、来てくれたんだ」


 顔を上げると、霧品先生は右手を軽くあげて、ひらひらと振りながらそう言った。

 研究室は十畳といったところだろうか。中央に大きなデスクがあり、その向こう側にある椅子には先生が座っていて、デスクのこちら側には誰も座っていない椅子が一脚あった。


「座りなよ」


 先生がそう言って椅子を指差したので、わたしは扉を閉めてその椅子へと近寄った。鞄を椅子の隣の床の上に置き、椅子を引いて腰をおろす。


「なんのご用件でしょうか?」


 わたしが訊ねると、先生は右手を自分の首にあてて、少しだけその首を傾けた。そしてゆっくりと口を開く。


「そうだね、えっと……。ごめん、先に名前を訊いてもいいかな?」

「わたしの名前ですか?」

「うん」


 まあ、大学の教員が学生の名前など、いちいち覚えているわけもないだろう。霧品先生の講義は数回しか受けたことがないし、わたしはまだ一回生で、個別の研究室に属しているわけでもない。

 わたしは素直に自分の名前を伝えることにした。


「山富シイナです」

「そっか。ありがとう、山富さん」


 先生は少し顔を緩めてそう言って、首から右手を離して机の上に置いた。そしてまた表情を変えて、どこか神妙な顔つきになる。


「山富さんは、その……、病院には行ってるの?」

「病院? なんの病院ですか?」

「精神科か、心療内科か……」

「いえ、行ってません。わたし、病気じゃないので」


 ううん、と小さく先生が唸る。


「その……、なんていうのかな。精神が健康な人は、自傷はしないんじゃないかな……、って、思うんだ」

「つまり先生は、わたしの精神が不健康だ、って言いたんですか?」

「いや、えっと……。それが悪いとかじゃ、ないんだよ。でも……、病気だったら治療して、治せるかもしれないじゃないか」


 わたしの言葉に、ややうろたえるように、先生はゆっくりと言葉を選んでいく。


「自傷しちゃダメですか?」

「いや、ダメとは言わないけど……。僕が言いたいのはさ、自傷してしまう理由を、つまり、あなたがなにかしらの精神疾患にかかっているとしたら……、それが治せれば、自傷もしなくてすむようになるんじゃないか、っていうことで……」

「自傷しなくてすむならそっちのほうがいい、と? どうしてですか?」


 先生は目を伏せて、しばらく黙った。それから顔を上げて、わたしの目を見据える。


「難しいな。僕が言いたいのは、そういうことじゃないんだ。自傷するかしないかは問題じゃない。ただ……、あなたが自傷してしまうほどに苦しんでいるのなら、その苦しみは取り除けたほうがいい、って思うだけだよ」


 わたしは右手で、自分の左腕を掴んだ。長袖の下には包帯の感触がある。そのまま右手に力を込める。包帯の下の、ティッシュの下の、さっき作ったばかりの六本の傷が、わずかに痛んだ。


「わたしはべつに、苦しくないです。自傷はただの癖です。確かに世の中には、苦しみから一時的に逃れるために自傷をする人たちがいる、それは知っています。でも、わたしはそういうわけじゃないんです」

「じゃあ、最初に自傷をしたときは? いつ、なにがきっかけで?」


 静かに、どこか冷徹さすら感じさせる声で、先生が問いかける。急にそこにいるのがいつもの先生とは違う誰かのように思えて、わたしは思わず体を硬くした。


「さあ……。そんなの、覚えてません。小学生か、幼稚園か……。ただ、そんな昔のこと、覚えていないので」

「どんなご家庭で育ったの? これまでにイジメに遭ったとか、事件に巻き込まれたとか、誰か大切な人が亡くなったとか……」

「普通の家庭ですよ。イジメも事件も縁がありませんし、身近な人が亡くなったことも、今のところありませんね。いたって普通の……、いえ、普通以上にシアワセな人生を送ってきたと思いますよ」


 わたしが言い終えると、先生はまた右手を首にあてて、困ったような顔をした。


「シアワセな人間には、自傷する権利はありませんか?」


 そう訊ねると、先生はゆるゆると首を横に振った。


「そうじゃないんだ……」

「そもそも先生はどうして、わたしに声をかけたんですか? 学生がちょっと怪我をしてようが、自傷してようが、そんなのどうでもいいでしょう?」


 先生はわたしの目を覗き込んで、しばらく黙っていた。わたしはなんだか気恥ずかしくなって、目を逸らしたくなったけれど、なんとなく目を逸らしたら負けだ、という気になってしまって、先生の目を見返しつづけた。


「あなたが心配なだけだよ。僕も……、似たような経験が、あるから」

「似たような?」

「自傷だよ。リストカットやアームカットではないけれど……、まあ、似たようなもの、かな……」

「具体的に、なんなんですか?」


 なんとなく訊ねると、先生がふっと息をついてから、口を開いた。


「気になるの?」

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