第34話 ベローフ・レポート



 アパートから地下鉄を乗り継ぎ、フィフス・アヴェニュー駅で降りたエヴリン・パヴロヴナ・モスカリョーワは、ルネサンス様式のホテルや高級ブティックの並ぶ5番街を足早に通り過ぎ、赤い扉の高級美容室の角をまがった。2ブロックほどで「ブダペスト・グランドカフェ」だった。


 マンハッタンにあるニューヨーク大学で美術史を学んでいた彼女は、主に夜間コースに出席し、昼から夕方までは美術館の多いこの地区の「ブダペスト・グランドカフェ」で学費を稼いでいた。


 11時までにはまだ30分以上あったが、開店前の支度のあと、店に置かれているインクの匂いがする新聞に眼を通すのが彼女の日課だった。



 今日もニューヨークは初夏に似合わず冷たい空気とどんよりした雲に覆われていた。ここ数年、梅雨前線はニューヨークまで北上し降雨量も増している。昔のように異常な暑さがないのは、暑さに弱い彼女にとっては好都合だった。


 暑さといえば、2月にハワイに行っていたルームメイトのアンナ・ティンスレーの話では、ハワイではクジラがあまり見られなくなったという。昔は冬にハワイにいくと近海に多くのクジラが群れていたそうだ。そんな光景を一度見たいものだが。



 朝刊を見ると、2つの大きな話題が1面を飾っていた。昨年末から紙面をにぎわしていた気候変動の国際会議。「気候変動が人類の存続を脅かすという認識に立ち、核融合技術を人類が共有し推進すべき技術とする」という共同宣言が発表されたあと、早くも国際協力の成果が出始めたというニュースだった。


 そしてもうひとつは、あの年末近くに起こった「宇宙の巨大花火」の話。国際天文学連合(IAU)が発表した「DOD-4013 レポート」の記事だった。 責任者であるIAU太陽系小天体監視委員会議長の名をとり「ベローフ・レポート」とも呼ばれていたが、USAプラネット紙の見出しは「不可解な報告書」となっていた。




 ミサイルなどの打ち上げを探知する早期警戒衛星が観測した赤外線データ(検出現象としてDOD-4013 という符号が付けられた)によれば、2040年12月20日世界時14時53分に南緯0.2度、東経67.5度上空、315kmで大規模な爆発が起こっていた。その放射エネルギーは、10の23乗ジュール(TNT火薬2000万メガトン)と計算され、石質天体と仮定した場合の直径は8kmと見積もられた。


 人工衛星追跡用のレーダーによると、地球の公転を追いかけるような方向から天体が接近し、インド洋上空にさしかかった段階で爆発が起きたことが判明した。


 しかし、ここで大きな疑問点を指摘したのが太陽系小天体監視委員会議長のアンドレイ・ベローフだった。



 もし大気圏外で爆発していなければ、インド洋の海底には直径49km、深さ17kmのクレーターができたはずであり、恐竜絶滅時のような地球規模の被害が再現した可能性があったと、ベローフは1月4日にコメントを発表したのである。


 8kmもある天体が、地球公転軌道にある天文台2カ所を含む天体監視網をこれまで逃れていたことなど、不自然な事実も浮かび上がってきた。天体監視網の見直しの声もでる中、事態を重く見たベローフは、国連、宇宙空間平和利用委員会のマリー・メイアーズと連絡をとり、 DOD-4013 がなぜ事前検出できなかったのかを調査する特別チームの編成に着手したのである。


 地上・船舶から撮影された巨大な花火のような光景とともに、宇宙ステーションUN9のカメラからの映像や、4カ所の月面基地からの自動カメラがとらえた映像が次々に放送、電子メディアに公開されていた。当時、月から見た地球は太陽方向に近かったため、自動カメラだけが夜の地球上空で起こった巨大閃光をとらえていた。


 事件から20日後になって国連月行政センターから発表された報告によると、当時、衝突天体の破片と見られる物体が月の「嵐の大洋」にある「アリスタルコス」付近にも落下していたという。


 遠隔カメラと月震計から送られるデータから、閃光と震動が確認されたのである。報道資料として添付された報告書によると、「月面衝突イベント時刻は地球上空の爆発より約2秒早く、この事実から破片の分離が地球到達以前であったと推定される」とされた。つまり、地球に達する前に分離していた破片が、月面に衝突したわけである。


 1月12日、月面地質調査室はさらに興味深いデータを公表した。12月19日から隊員が撤退していたアリスタルコス月震観測ステーションに設置されていた外部カメラ3台のうち、北西方向を向いたカメラが今回の天体の月面衝突と見られる現象を記録していた。


 また、虹の入江基地の地上観測カメラの南東方向にも該当する光跡がとらえられていた。いずれも時刻は2040年12月20日14時53分27秒。地球上空爆発の約2秒、正確には1.4秒前である。


 月面への衝突物体の痕跡を調べるため、1月26日、虹の入江基地から「アリスタルコス」に向け、シャクルトン基地の隊員2名を含む合同調査班計6名が派遣された。


 アリスタルコス月震観測ステーションから北北西5.2kmの地点で彼らが発見したのは期待されていたようなクレーターではなく、見渡す限り高熱でガラス化した暗い色の月面だった。天体破片の落下跡とは信じがたいこの光景に調査班の誰もが驚いたという。


 ほぼ半径600mに及ぶガラス化した円形地形の中心には、傾斜の急な直径22mのクレーターが見つかった。クレーターの底に降りることは危険だったため見送られたが、中心部には2mほどの穴が確認されている。穴の深さまでは計測されていないが、クレーターを含む半径42mの範囲で最大700ミリテスラの磁場が測定された。



 一方、虹の入江基地で月面衝突の画像解析を行っていた隊員は、さらに驚くべき事実を突き止めた。アリスタルコス月震観測ステーションからの画像では拡大されているためわかりにくかったが、虹の入江基地からとらえた南東方向の画像に写っていた光をコマ毎に時間経過を見ていくと、単なる発光ではなく、月面での発光が宇宙空間に向かって瞬時に上昇していたことが確認されたのだ。


 月面上の浮遊塵に散乱する光が、巨大なレーザー光のようなビームをつくり宇宙空間にのびている写真が紙面にも掲載されていた。ビームの先にあったのは地球だった。


 いくつかの仮定に基づく映像からの見積もりでは、インド洋上空の爆発で発生したエネルギーの半分近くはビームによるものである可能性があるという。


 この点に関して、中国が密かにアリスタルコスに宇宙兵器を設置していたのでは、という疑念が生じたが、ベローフらの「DOD-4013調査チーム」は完全にその可能性を否定した。理由1、宇宙条約第4条により天体上における、軍事基地、軍事施設及び防備施設の設置、あらゆる形式の兵器の実験並びに軍事演習の実施が禁止されている。理由2、4カ国それぞれの月周回衛星からの画像はいずれもアリスタルコス周辺における不審な活動を検出していない。理由3、虹の入江基地では「光」をとらえた画像を積極的に公開している。理由4、シャクルトン基地隊員2名(アメリカ人)を合同調査班に加えている。理由5、現在でも現場は封鎖されることなく、調査可能な状態に保たれている。


 爆発と月面からの光に関する調査チームの結論は「DOD-4013およびほぼ同時刻に起こった月面現象との関連性に関して、さらに解明を進めるにはアリスタルコス発光地域の地底探査が必要」というものだった。



 もうひとつの大きな疑問、「直径数kmもある天体が、地球公転軌道にある天文台2カ所を含む天体監視網をこれまで逃れていた」理由についても興味深い内容が報告されていた。


 インド洋上空の爆発が報道された頃から、アマチュアを含む世界各地の天体観測者から、観測報告のメールが受理されていないらしいという苦情がハーバード・スミソニアン天体物理学センターに寄せられていたのだ。同センターでは日常業務として新天体発見の報告やその観測データを世界中から受信し、集約したデータを直ちに世界中の天文台に転送していた。


 発見が遅れた責任は同センターにあると見るのは早計であった。苦情を申し立てた観測者の観測データを再送信してもらい判明したことは、12月20日までの数日間に受信されなかった観測というのは、いずれも同一天体でありインド洋上で爆発したあの天体と軌道が完全に一致したのである。


 なにものかが地球に衝突するコースをとる小惑星の事前検出を妨げた可能性が極めて高いと調査チームは結論した。


 その一面の記事の最後には「関連記事は14ページ」とあった。エヴリンは14ページを開き驚いた。ああ、久しぶりにあのハーヴェイ・ウッドワードの解説記事が載っていたのだ!


 彼はもう半年以上店に顔をだしていなかった。何かの事故に巻き込まれそうになったという噂は聞いたが、入院でもしていたのだろうか。




 ハーヴェイは、実に鋭い指摘を書いていた。まず、「ベローフ・レポート」にあるアリスタルコスの光について、中国の宇宙兵器が設置されている可能性の否定はもちろんだが、と前置きし、


「ベローフ・レポート」では意図的に『理由6』には言及しなかったようだ。すなわち、40万km離れた月面から毎秒数kmもの猛スピードで動くマンハッタン島サイズの物体にビームを命中させる技術はともかく、地球上のエネルギー問題が一挙に解決するほどの莫大なエネルギーを月面で瞬時に発生させる技術など、現在いかなる国も実現させていないし、私の知る限り理論すら存在しない。


レポートでは「マグマ性流体の上昇に伴う長周期震動が観測されなかったことからも、上昇月震との関係は何ら認められなかった」としているが、そう断言できるほどの実地調査はまだ行われていないのである。


さらにハーヴェイは情報源は明らかにできない、と断った上で慎重な言いまわしで重大な内容を述べていた。


コズミック・テロが小惑星の事前検出を妨げた、という結論には私も同意する。より重要なのはそれが何者による仕業なのかということだ。 もちろんIAUの調査チームにそれ以上を期待するのは酷である。


ワシントンの信頼できる情報筋によると、政府のある重要なコンピュータープログラムに深刻な問題が発生していたという。そのプログラムでは、国中に分散した重要度の高いシステムからの応答を常時監視していたが、189ものシステムからの応答がいっせいに1秒近くとぎれたことがあった。 それは不運にも連邦職員や研究機関の職員の多くが休暇をとっている最中に起きた。


2039年の新年になる直前、あの9年ぶりの閏秒の挿入だ。


問題のプログラムは合衆国全体が深刻な事態に陥ったと解釈し、自律機能ルーチンが作動してしまった。こうして1年近くの間、誰からも気づかれることなく、プログラムは自らの人工知能で動いていたという。


おそらく、この種の事件はそれ以前にも別の場所、別の国でも起こっていたのではないか。9年前にも閏秒は挿入されている。人工知能は世界のどこかで動いていたかもしれない。


人としての判断を失ったテロリストも脅威だが、人間の判断を除外して動く人工知能の恐ろしさはそれ以上かもしれない。今年に入って6ヶ月近くが経過したが、あれほど世間を騒がせていたアナンタのニュースが皆無なのは偶然だろうか。




「エヴリン! 店を開けるぞ!」

入り口のほうから店主の声が聞こえた。


彼女は、新聞をきれいにたたむとスタンドにもどした。



この記事の余波はあまりに大きく、彼女の期待とは裏腹に「ブダペスト・グランドカフェ」にハーヴェイの姿を見るのは夏も終わりに近づいたころだった。







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