第23話 マシンQ
アメリカ国家安全保障局(NSA)は、「スバイダー」と呼ばれる大規模通信傍受ネットワークを用い、超人的な情報収集・分析能力によって多くの反社会活動を事前に阻止してきた。 その分析作業はもはや人間の手に負えるものではなく、強力なコンピューターによってはじめて可能となるものだった。
連邦予算の緊縮化から、コンピューター資源の有効利用・共有化がはかられ、IPG(インフォメーション・パワーグリッド:全米各地に分散したスーパーコンピュータ、大規模データベース、計測機器を結ぶネットワーク)プロジェクトが1998年から着手された。
当初はNASAの研究者、技術者のみが使用していたネットワークであるが、次第に部外者にも利用が許可されるようになり、現在ではスポンサーであるエネルギー省と全米科学財団への申請が許可されれば外国人研究者もその恩恵にあずかることができた。 もちろん、利用者ごとにアクセスが許可されるマシンや機能が細分化されており、詳細な利用記録が残され万全の保安態勢がとられていた。
2039年4月の段階では、IPGのネットワーク資源には1024000のプロセッサー、87700TBのシステムメモリーが含まれていたが、そのひとつのシステムが、2036年にロスアラモス国立研究所の地下に設置された世界最速、最高性能のスーパーコンピューター「マシンQ」だった。
いくつもの行政・研究機関、大学が「マシンQ」を利用していたが、優先度の高いユーザーにはNSA情報分析グループの6名がいた。彼らは「マシンQ」上で開発したデータマイニングプログラム(「ストリーマー」と呼ばれていた)で「スパイダー」を通じて得られた膨大なデータの山から、テロや犯罪の兆候となるものを抽出していた。「スパイダー」や「ストリーマー」の原型にあたる高度技術は、1999年9月、シューメイカー将軍によって設立された陸軍特殊作戦部(SOCOM)の時代にまでさかのぼることができる。SOCOMは、2001年9月11日の同時多発テロが起こるほぼ1年前に主犯を含む4人を特定することに成功していたものの、テロそのものを防ぐには到らなかった。
NSA情報分析グループは、日々増大する情報量に対応できるよう「ストリーマー」の改良を図る必要を感じていた。
マイク(チャン博士)がチャド・ベイリーの研究を再開させたのは2039年8月2日のことだった。マイクが入手したファイルには、ベイリーが作成中であったプログラムがぎっしりと書き込まれていた。その内容をほぼ1年かけて調べていったマイクは、ベイリーの研究が「数列内の何らかの秩序を発見するプログラム」の開発であったことを確信した。
フィルター部、再構築部、発見・評価部とに分かれていたが、それぞれの基本的な流れは出来上がっており、インターネットのデータベース技術「ウェブ・マイナー」に似た構造をもっていた。しかし、システム全体として機能させる部分が未完成であり、これを完成させればπの中の規則性をこれまでの方法よりもはるかに能率的に検証できそうだった。
研究時間の多くが「ベイリー・コード」(マイクが付けたプログラム名)に注がれた。
プログラムのことは伏せておいてほしいというクラウディアからの条件を守るため、席から離れたときには、指紋認証を求めるように端末をセットしておいた。 研究の手伝いをしてくれていた大学院生のローラにも「新たな研究」の内容を知られないよう念入りに注意していた。これは研究者間の競争では通常でもありえることだった。
2040年11月に入る頃には完成間近になっていた。しかし、この成果をどう公表したものか思案していた頃、その状況を知っていたかのように発信者「クラウディア・コーニック」となっているメールが入った。「本日11時にハートパークの噴水のところで待つ」とだけ書かれていた。
まもなくその時刻になる。「早めに食事に出る」とサンドラに伝え、マイクはあまり足を運ばない場所に向かった。
大学のアルムニ・ホール(以前はアトランタ市公会堂だった)の前に広がる公園の一角に噴水があった。噴水の水がときどき風になびきそうになりながら、陽光をきらめかせていた。
ホール側から公園に出るなだらかな坂を下りていくと、枯葉の絨毯が一面に広がっていた。噴水のほうへゆっくりと歩いていくと、噴水から少し離れたところにあるベンチにひとり、黒いコートを着た女性がこちらを見ていることに気づいた。視線が合うと、ランチらしい包みを目の高さまで持ち上げて合図してきた。
「コーニックさん?」
それには答えずに彼女は言った。
「ピーマン入りのオムレツサンドと...
ラズベリーソイミルク、お好きでしたよね」
「そんなに驚かれなくても」
このショートヘアのブロンド女性は、私の食の好みまで調べてあげているのか。
「本当のことを申し上げますとね、学生ではありません。
政府の研究所の者です」
マイクはサンドイッチの入った袋を受け取った。
「要件を申し上げましょう」
周囲に誰もいないことを確かめると、彼女はメガネをはずすとその青い眼でマイクを見据えた。
「チャドの助手をしていていました」
「ではあなたも失踪を!」周囲を気にしながら私は言った。
「公式な報道ではそうなっています。政府は、チャドの研究が暗号解読に重要な意味があると見たようです。まず私を研究所に送り込みました。助手として。私も以前、数理工学を専攻していました」
相手の表情を確かめるようにして彼女は続けた。
「研究が完成に近づいたある日、チャドは出勤時間になっても姿を現しませんでした。車は自宅の駐車場にありました。交通局の記録では、前日帰宅してから車での移動はなかったというのです」
「ということは自宅から拉致された、ということですか」
「おそらく...」
「いったい誰が」
「FBIの調べでは、自宅には手がかりはなにもなく、通話記録にも不審な点はなかったそうです」
「エニグマ(携帯端末)は?」
「エニグマ本体には記録が残りますが、チャドが身につけていたようで見つかっていません。
証拠がないのであくまで推測です。これだけ時間が経っていますから、海外に連れ出された可能性もあります」
すると、マイクは飲み物を飲もうとした手を止めて言った。
「殺害されたのかもしれませんよ。国の安全保障に関係する研究者だから」
「なんとも言えません... 私には」
マイクは手に持ったサンドイッチを見つめながら聞いた。
「ネット・フォーラムで、データマイニングのことを話題にしていたので私に興味を持ったんですか?」
「あなたの業績も調べて、この人ならチャドの研究を完成できるのでは、と判断しました。コーディングもお得意のようですし」
「もう完成間近ですが、ひとつ問題があるのです」
「なんでしょう」
「チャド・ベイリー博士は、高速・大容量メモリーを持つコンピューターの使用を前提にプログラムを書いているんです。この大学のものではとても力不足で、プログラムの有効性を確認するのに相当な時間を費やしてしまいます」
「わかりました。インフォメーション・パワーグリッドはごぞんじ?」
「使ったことはありませんが、同僚にはIPGを使っているものがいます」
「IPG経由でロスアラモスのスーパーコンピューターを使うことができます。許可をとりますのでご心配なく。こちらの条件は、この研究は極秘に行ってほしいということ。さもないとあなたの命も狙われるかもしれません」
周囲を確認して彼女は言った。
「それから...
あなたの言う『ベイリー・コード』そのものの研究については私の許可なく非公式にせよ公開しないこと。 ただし、『ベイリー・コード』を使って行われたあなたの...πに関する研究については自由に公表していただいてけっこうです。
他になにかありますか?」
「ロスアラモスではなく、この大学の自分のオフィスから研究が続けられれば、それでけっこうです」
彼女はメガネをかけ直すと、こう言った。
「もし、身辺に危険が及んだようなときには、あるいはそう感じたときにはこの番号に連絡してください。早めに。すぐには駆けつけることができませんから。
ロスアラモスのコンピューターの利用準備が出来次第、担当者からメールが届くでしょう」
マイクはうなずいた。
「では私はこれで失礼します。どうか周囲に気を配ってください」
立ち上がった彼女は付け加えた。
「振り返らないように。私が去ってから5分以上はここにとどまってくださいね」
ヒールの音が後方に去っていった。
強い緊張が解けたせいか、はっきりとした空腹を感じ、残っていたサンドイッチを口にした。近くにある噴水の音もうるさいほど聞こえるようになっていた。
11月17日朝、オフィスに入ったマイクは端末のスイッチを入れると、メールが11件入っていた。設定に従って重要と見られる順に並び替えられていたが、冒頭にあったのが 「設定完了」というタイトルのもので、差出人はバリー・マクファーレン博士となっていた。
その本文を開くと、マクファーレン博士はロスアラモス国立研究所のコンピューター設計グループのメンバーで、マイクのコンピューターサポートと研究に関する機密保持を指示されているという。
指紋、網膜パターンなども登録され、ロスアラモス「マシンQ」上の設定が完了したので、2040年11月19日12時00分(米中部時間)以降には、これから郵送される利用者名と二重パスワードで利用可であること、オンラインマニュアルがエスケープキーで表示されるが、疑問点などはこのメールアドレスか、下記の番号にかけられたし、とあった。
2日後11月19日正午前に、書留郵便が届く。まだ12時までに数分あったが、接続してみることにした。利用者名と二重のパスワードを入れると、指紋センサーからの入力とカメラを通じての網膜静脈のパターン入力が求められた。順調に確認が済むのかどうか少々緊張したが、数秒後、問題なくウェルカムメッセージが表示された。
ファイル構造を確認したとき、妙なことに気づいた。7桁の数字名のファイルが5つ存在しているのだ。まだなにもファイルを作っていないのだが、システムが自動作成したファイルだろうか。試しにひとつのファイルを開けてみた。
キリル文字がまじったテキストは...固有名というのか人名らしきものが含まれている。そして2人の人物写真も。役立つ情報かもしれないと思い、その2人の名前と見られる文字を書き写しておいた。
他の4つのファイルについては中身を見なかったが、ファイルの複製を保存しておこうと考え、コピー操作に入ろうとしたそのとき、5つのファイルはもはや存在していなかった。
時計を見ると12時ちょうどになっていた。
電話でマクファーレン博士を呼び出し、状況を伝えたが原因はわからないようすだった。重要な個人情報かもしれないので、インターネットメールではなくエニグマで人物名を送ってほしいと言っていた。急ぎではなさそうだったので、まずは本業を済ませておくことにした。
「マシンQ」上にいくつかの作業領域を設定し、「ベイリー・コード」をそれぞれの領域に転送していった。最新版のコンパイラーに慣れるまでに少々時間がかかったが、暫定的に行った計算の結果が(しかも期待どおりの結果が)あっという間に出たときには信じられない心境だった。素数桁数のπ数列が次々に現れていた!
興奮さめやらずであったが、明日もう一度冷静な頭で計算に挑もう。そうだ、帰宅する前にあの人物名を送信しなければ。
仕事を終えたマイクは、図書館前を通り過ぎ、駐車場に向かった。車の前まで来ると、フロントガラスに満月が映っているのに気づき、ニュースで月の地震のことが話題になっていたことを思い出した。
ピードモント通りに車を出したマイクは「自動運転」に切換え、昼間紅葉が美しく映えていた大学キャンパスをあとにした。
温かいベッドで心地よい眠りにつきかけていた頃、突然、サイドテーブルでエニグマのランプが点滅し振動し始めた。通話モードで誰かが呼び出していた。マイクは手を伸ばしてエニグマを取り上げると受話器の向いている面を耳に当てた。
「こんな時間にすみません! マクファーレンです。急いでテレビをつけてもらえませんか」
「はぁ?」
「とにかく、61か62チャンネルを見てください」
「わかりました」
マイクはリモコンのスイッチを入れた。
白い景色の中、煙をあげる一角が映しだされた。
「コーカサスの天文台に旅客機が墜落したんです」
その一角が拡大されいく。
「こ、これは... 」
「繰り返し出ている被害者の名前と写真の一覧が... もうじき出ます...
ほら、いま下のほうに映ってますね。はじめが天文台の犠牲者です」
「ええ、でもなぜ」
「よく注意して見てください!」
すでに意識がはっきりしたマイクは、画面に流れる情報に集中した。
10数名の名前と写真が画面を去ったあと、昼間見たあのファイルにあった名前と写真らしきものが現れた。
「これは... マシンQに、ニュースファイルが早々と届いていたということですか?」
「チャン博士、ちがうんです。ファイルの件で連絡をいただいたとき、この事件はまだ起こっていなかったんですよ!」
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