第14話 ベレロフォン


 1995年10月6日、秋らしい風に葉がそよぎ始めたイタリアのフィレンツェでは、 どちらかといえばささやかな研究集会が開かれ、世界が注目するような報告が発表のときを待っていた。


 「低温度星・恒星系・太陽に関する第9回ケンブリッジ・ワークショップ」には、 スイスのジュネーブ天文台から参加していた53歳のミシェル・マイヨールがいた。 老練な研究者らしいみごとな髭のおかげで、彼の存在は遠くからでもわかるほどだった。


 一方、ジュネーブ大学の大学院生で29歳のディディエ・ケロは、いかにも「分析家」らしく、メガネの奧から少々神経質そうな眼差しを周囲に向けていた。


 実はそのワークショップの直前、ネイチャー誌から彼らの論文が掲載される旨の通知があった。事前に論文を査読した3人のレフリーのうち2名が掲載のOKを出したのであった。



 太陽以外の恒星に惑星を見つける試みが、まともに扱われないような時期があった。 「太陽系外惑星」に関する研究をしている、などと言おうものなら、ニタっと笑われるか、距離を置かれるようなこともあったのだ。 かつて、「太陽系外惑星」は、SFか極めて一部の天文学者の研究対象でしかなかったのである。


 恒星のまわりに巨大な惑星がまわっていれば、その惑星の重力で恒星も振り回されるため、位置が変動するはずである。 この「恒星位置のふらつき」を写真乾板から検出しようとしたピーター・ファン・デ・カンプは、 へびつかい座にある9.5等の赤色矮星(1916年にE・E・バーナードが大きな固有運動を持つ天体として発見したことからバーナード星とよばれた)に目をつけた。距離は太陽から約6光年と近く、質量は太陽よりはるかに小さい。もし巨大な惑星がまわっていれば、「恒星位置のふらつき」を検出できるかもしれないと彼は期待したのである。


 1937年には台長となったペンシルベニア州スワースモア大学のスプロール天文台で、1916~1962年に撮影された2413枚の写真乾板の測定に全力が注がれた。23年もの長きにわたる研究の結果、1963年、バーナード星の僅かな「ふらつき」から、木星の1.6倍の質量の惑星が24年周期でまわっていることが発表された。その後も、新たな観測データを含めた改訂版が発表され、それは1980年代まで続いた。


 一方、1973年、ピッツバーグ大学のジョージ・ゲイトウッドとサウスフロリダ大学のハインリヒ・アイヒホルンらは、 アラゲイニー天文台およびヴァン・ヴレック天文台で撮影されたバーナード星の写真乾板241枚を解析した結果を発表。 そこに惑星の存在を示すものはなにもなかった。さらに、ファン・デ・カンプが調べた乾板を詳細に再調査したジョン・L・ハーシーは、観測機器に原因があり、あたかも惑星があるような結果を出してしまったと、同じ1973年に結論を出している。保守やアップグレード時に発生した対物レンズの調整不良に原因があるようだった。その後も、ハッブル宇宙望遠鏡を含むさまざまな天文台で得られた観測の結果はやはり否定的なものだった。


 多数の恒星の位置測定を行い、 太陽系外惑星探しのパイオニアとして人生の多くの時間を捧げたオランダ出身のファン・デ・カンプには、アメリカ国内の複数の大学からの授賞のほか、フランス天文学会からもジュール・ジャンセン賞が授与されている。スワースモア大学に2009年に完成した新しい天文台には彼の名が付けられた。小惑星帯には、彼の名をもつ小惑星1965番が周回している。



 1970年代末以降、惑星による恒星のふらつきを、恒星から光のドップラー効果で検出しようとする高精度分光器の研究が進展し始めた。カナダのブルース・キャンベルとゴードン・ウォーカーらが開発したのは、分光する前に恒星から光を気体の箱に通し、 その気体の吸収線をスペクトルに焼き付けるという方法であり、スペクトルに波長測定用の正確な目盛を入れる工夫だった。 このガスセル法は後にアメリカの天文台などに広まっていった。


 ヨーロッパのマイヨールたちが用いたのは、恒星の光とともに比較用光源の光を同時に取得し分光を行うものだった。


 ゴードン・ウォーカーらは、恒星の秒速15mの動きを検出できる分光器を使って21個の恒星を観測した12年分のデータを解析したが、残念ながら惑星は見つからなかった。 惑星形成論の見直しまでが議論されるようになった。ウォーカーらの論文が太陽系天文学の専門誌「イカルス」に発表されたのは1995年8月のことだった。



 ピーター・ファン・デ・カンプは、1972年にスプロール天文台を引退後、故郷のオランダに戻っていた。天文学と音楽を愛した彼は、1995年5月18日、93歳で人生の幕を静かに閉じた。3か月後には、ウォーカーらの太陽系外惑星見つからずの論文が発表され、 ミシェル・マイヨールらによって最初の(主系列星の周りを回る)太陽系外惑星が発見される、わずか5ヶ月前のことであった。


 1994年、フランスのオートプロバンス天文台の口径1.93m望遠鏡にELODIE(エロディ)と名づけられた高性能の分光器が装着された。CCD撮像装置と 光ファイバーを採用した最新鋭のELODIE を使い観測を開始したマイヨールらは、このシステムが従来の20倍もの精度を持つことを実感した。それは、恒星の秒速10m以下の動きを検出できるものであった。


 観測に参加していたポスドクのアントワーヌ・ドゥケノワが車の事故で命を落としてしまうという悲劇がおこるが、悲しみを乗り越えたマイヨールとケロは観測を再開した。


 幾つもの恒星を調べていくうちに、同年12月には、ペガスス座51番星のスペクトル線のドップラー偏移に周期的な変化が現れていることが判明した。 ペガスス座51番星の「ふらつき」が、その周囲をまわる未知の天体の重力が原因だと仮定すると、その質量は木星の半分しかないはずだった。


 その結論には、彼ら自身、当初は非常に懐疑的だった。「別の解釈」が可能かどうか、確信にいたるまで数週間を要したほどだった。


 マイヨールらは翌年8月まで観測を行ったが、ペガスス座51番星の「ふらつき」に、もはや疑いはなかった。8月25日には論文をネイチャーに送った。


 これまでに報じられた同様の報告には、他の天文台での確認がとれないような不確かなものばかりだったため、いくぶんさめた態度でこの発表を聞いていた研究者らも、10月12日サンフランシスコ州立大学とカリフォルニア大学バークレー校のチームが確認観測に成功したとの報告に接するにあたり、がぜん色めき立った。


 公式な発表文が、国際天文学連合(IAU)が発行するIAUサーキュラー10月25日発行の6251号に掲載された。


 「太陽に似た別の恒星に惑星発見!」というニュースは、当時急速に拡大しつつあったインターネットを通じ、瞬く間に世界中へ広まっていったのである。



 その後、世界各国の研究者はマイヨールらと同様な分光観測や、恒星面上を惑星が通過する際の恒星の減光(いわば微小な日食)を観測するなどの方法で、次々と惑星を発見していった。10年後には太陽系外惑星の数は200個に迫る勢いだった。


 そして、 2008年11月に発表されたハッブル・スペース・テレスコープによる「フォーマルハウトb」の撮像成功は、研究者だけでなく、世界中のマスメディアからも注目を集めた。


 実際、太陽系外惑星の画像を直接とらえるには大きな困難が伴う。 惑星に対し、中心星である恒星の光があまりにもまぶしすぎるのだ。 「フォーマルハウトb」もフォーマルハウトの10億分の1という光のコントラストだった。


 カリフォルニア大学バークレー校のポール・カラスらによる「フォーマルハウトb」の発見は、クレタ出身の彼が大学院生以来、15年にわたりフォーマルハウト周辺の観測を行ってきた、いわば執念の結果だった。彼は発見当時を振り返り「フォーマルハウトの惑星であると確信したとき、心臓がとまるほど興奮した」と語っている。


 可視光ではなく、赤外域で観測を行えば、恒星のまぶしさを軽減することができた。その戦略に沿って観測を進めていた地上のいくつかの天文台では、波面補償光学を併用し、 また、ハッブルでの観測で行われたように、恒星からの光を人工的に遮蔽することで太陽系外惑星の直接撮像に成功していた。


 いずれにせよ、像を乱し、またそれ自体が赤外線を放つ地球大気は観測の大きな障害となっていた。



 一方、2009年3月7日に打ち上げられたNASAの太陽系外惑星観測機「ケプラー」は、太陽、地球、月などが視野に入らないよう、 搭載された口径0.95mの望遠鏡を地球軌道面から離し、多数の恒星が観測できるはくちょう座・こと座方向に向けていた。 2013年5月には、4つのうち2つ目のリアクション・ホイールも失ったケプラーは、姿勢制御がとれなくなり、もはやこれまでと思われたが、技術チームは革新的な方法を考え出した。故障したリアクション・ホイールの代わりに太陽を使うというのである。 すなわち、太陽光による光圧を機体の姿勢制御に利用したのだった。だが、今度は機体の安定のために、観測方向はほぼ地球軌道面内に限定されるようになった。



 同機は、2017年7月31日世界時21時07分頃、「しし座」方向約33光年にある11等星、「グリーズ 436」という赤色矮星の前面を、その惑星である「グリーズ 436b」が通過することによる減光観測を行った。惑星が恒星の前面を通過する際、恒星からの光が、惑星によってわずかにさえぎられる現象である。


 ところが、惑星による減光の直前、軽微な減光(0.006ミリ等級)が先んじていたことが判明した。 同じ「グリーズ 436」の8月3日世界時12時33分頃の観測データからも同様な現象が確認された。 「太陽系外衛星」の発見第1号であった。


 予定を上回る9年におよぶその観測期間中、「ケプラー」は合計14個にのぼる「太陽系外衛星」の検出に成功した。 比較的大型の衛星の存在は、惑星の自転軸傾斜の安定性をもたらすことから、惑星気候の激変を回避できるものと予想され、 惑星上の生命進化の観点からも注目された。



 太陽系外惑星の観測が急速な展開を見せていたものの、地球環境・気象観測と有人宇宙活動に予算の重点を置き始めた欧米の宇宙探査プロジェクトは、いずれも大幅な遅れを見せていた。 太陽-地球系のラグランジュ第2点(地球から、太陽とは正反対の方向へ約150万km離れた場所)で運用されるジェームズ・ウェッブ・スペーステレスコープ計画においても 2013年打ち上げの予定は大幅に遅れ、2021年12月にようやく打ち上げられたほどだった。


 NASAのTPF(Terrestrial Planet Finder)計画やヨーロッパ宇宙機関の「ダーウィン計画」などに参加していた研究者の一部は、日本が推進していた次世代赤外線天文衛星 SPICA(SPace Infrared Telescope for Cosmology and Astrophysics) 計画に加わることとなった。


 国際協力のもと、 恒星の光を遮蔽する「コロナグラフ」を装備した中間・近赤外線望遠鏡を搭載したSPICA観測機が、日本の航空宇宙研究開発機構(JAXA)によって打ち上げられたのは、2028年2月3日のことである。 半年後には、太陽-地球系のラグランジュ第2点の近傍に到達。ここでは、太陽光が地球によってさえぎられ、強烈な赤外線源となる地球も、もはや地上で見る満月の大きさでしかなかった。


 同年8月14日、絶対温度4.5度に冷却された口径3.5m冷却望遠鏡のふたが開けられた。20日間にわたる機器の機能確認のあと、50光年彼方のペガスス座51番星に望遠鏡が向けられ、撮像テストが始まった。前日から多数の報道関係者が管制室前に待機し始めていた。


 マイヨールらが発見した惑星の正式名は 51 Pegasi b (ペガスス座51番b)であったが、天馬ペガススをてなづけたコリントスの勇者の名から、一般には「ベレロフォン」というニックネームで呼ばれていた。


 JAXAは慎重を期し、8月17日時点に取得された画像をすぐには公開しなかった。 位置の変化から「ベレロフォン」の軌道運動が確認されるまで公開を控えていたのである。


 8月20日のニュースメディアは、競ってSPICA(日本では「スパイカ」ではなく「スピカ」と発音されることも、このニュースに伴い世界に知れわたった)による「ベレロフォン」の撮像成功の快挙をトップで伝えた。


 さらにこのニュースは、欧米の研究者にとっても朗報となった。予算削減の憂き目にあっていた彼らの太陽系外惑星観測プロジェクトがSPICA の成功により、復活する方向で検討が始まったからだ。


 翌年4月には、SPICA による赤外観測から注目すべき事実が判明した。

(ちょうど地球の月のように) 「ベレロフォン」の特定半球が常に51番星の方向を向いていたのだ。これは51番星の強い潮汐力が原因と見られ、51番星に向いた「ベレロフォンの昼側」の平均温度は摂氏680度であったが、「夜側」はおよそ120度と推定された。


 さらにその翌年、2029年の暮れが近づく頃、SPICA はまたも驚嘆すべき発見を行った。


 搭載された分光器のひとつ、FT-IRと呼ばれるフーリエ型分光器が、12月19日に観測した「ベレロフォン」の夜側からの赤外放射スペクトルの中に酸素分子(正確にはオゾン)による吸収線構造を確認したのである。


 12月24日、SPICA プロジェクト分光班のリーダー寺島栄一は、共同研究者である アリゾナ大学月惑星研究所のジルダ・クリステンセンを衛星チャンネルで呼び出し、 JAXA・宇宙科学研究本部での記者会見に臨んだ。


 クリスマスにもかかわらず、40名近い報道陣が集まり、「ベレロフォン」のオゾンがどのような意味を持つのかについて、基本的な事項から始まり、熱心な質疑応答が1時間も続いた。


 年末にかけ、多くのメディアがこのニュースを取り上げていた。「クリスマスの奇跡」と題して 解説したものもあった。翌年、2030年1月10日発行のネイチャー誌は、SPICA のこれまでの成果を特集し、編集ノートでは 「誰もが想像すらしなかったことだが、惑星『ベレロフォン』の大気中に酸素分子が存在することは、太陽系外惑星での生命存在の可能性の幅を大きく広げることになりそうだ」と結んでいた。



 2030年8月25日。

「ベレロフォン」の発見から35周年を記念した国際会議が、この日から4日間の日程で、発見の地、フランス南東部、標高650mにあるオート・プロバンス天文台で開催された。参加者は120名をこえ、1/3以上の発表が「ベレロフォン」に 関係するテーマを扱っていた。


 前日の午後に天文台に到着したマイヨールは、陽が沈み、ようやく気温が和らいだ頃を見計らって、夕食前に南東側の展望テラスに向かった。そこは彼のお気に入りの場所のひとつだった。しばらくチリのラ・シーアに滞在していたマイヨールはケロと会うのは9ヶ月ぶりだった。


 途中で、35年前の発見をたたえた記念プレートの前を通りかかったときには、すすんで学生たちとの記念写真に加わった。



 マイヨールには、マルセル・ブノアスト賞、バルザン賞、ショウ賞、そしてアインシュタイン・メダルが授与されており、その後も、彼は太陽系外惑星の検出に向けて精力的な努力を続けてきた。太陽系外惑星研究の突破口を開き、先導してきた彼の業績は、天文学コミュニティ以外からも高く評価されており、2019年にはノーベル物理学賞の受賞が決まった。



 ようやく、学生達から逃れると、エレベーターを使わず、外階段を通じて、屋上に近いテラスに出た。88歳となったマイヨールだが、足腰にはまだ自信があった。


 遠くにアルプスの山々がうっすらと見え、360度のパノラマは35年前とそれほど変わらない美しい田園風景だった。ただ、最近は冬になっても雪があまり降らないようだった。彼の髭も昔とは違い、美しい銀色になっていた。


 南西の空には木星が輝き、穏やかな光を投げかけていた。

その光を見つめながらマイヨールは満足そうな表情を浮かべていた。


 たぶん、彼は気づかなかったのだろう。木星を見つめる彼の背には、昇って間もないペガスス座の全貌が重なっていた。







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