科学小説「月からの手紙」

道野櫂

第1話 カンタベリーの月


我々は知らねばならない.そして知るであろう

     (ダーフィト・ヒルベルトの墓碑銘より)



* * *



 四人の騎士たちは、教会門の前まで来ると馬を止めた。


ひとりが闇に包まれた空を見上げたとき、雪が再び舞い始めた。



 決意を固めたように顔を見合わせた四人は、人気のないことを確認するように注意深く巨大な教会門をくぐっていく。


 視界を遮っていた門を抜けると、目の前には1130年に完成した大聖堂が広がっていた。


 1154年、イングランド国王としてヘンリ2世が即位した際、カンタベリー大司教の推薦するトマス・べケットという人物が国王の側近となった。騎士道を修め、ボローニャ大学で法学を学んだというベケットは、王子の家庭教師役まで務めた人物である。1162年にカンタベリー大司教が死去すると、 ヘンリ2世は聖職者であるべケットを新しい大司教に任命した。


 それまでの豪勢な生活と縁を切ったベケットは性格を一変させ、国王ではなく神への忠誠を選ぶこととなる。ローマ教皇側に転じたベケット大司教は、ヘンリ2世との対立姿勢を強め、国王側の司教たちを つぎつぎに罷免していった。


 ヘンリ2世は、かつての友が強敵となったことを思い知る。国王に忠誠を誓う四人の騎士たちが激怒する国王の心情を察し、ノルマンディーの城を出発したのは 1170年も終わりに近い頃だった。



 彼らは、目立たぬようにして英仏海峡を船でわたり、カンタベリーに向かう。



 騎士たちに気づいた大司教の従者たちは、押し入った素早さに抵抗するすべもなかった。聖壇の前に ひざまづいて祈りをささげていた大司教の頭を、無慈悲な剣が襲うのだった。


 国王はこの事件を知り、自らの憎悪を激しく後悔した。ローマ教皇はべケットを聖人に列し、国王も四人の騎士を処罰するとともにカンタべリー大聖堂内に立派な墓を作らせた。その墓はイングランド各地から多くの巡礼者をあつめたという。



 ベケット司教の遺体が安置された日、沿道には人々の列ができ、 あたりは深い悲しみにつつまれた。いつしか雪はやみ空には星が現れ始めた。


 すすり泣く声と馬の蹄の音だけが星々の間にすいこまれていった。



 日もとっぷりと暮れ、細い月が雲間から見え隠れしていた。



 突然、明るい閃光が地上の闇を照らし出した。


 すると、ひとり、またひとりと月を指さし始め、ざわめきが広がっていった。



 人類がまだ見たことのないようなその光景の記録が、グーテンベルグの発明を待たずに地下保管庫に追いやられ、再びその存在が世界に知られるようになるまでには相当の年月が必要だった。



 レスター大学の専門家が、トリニティ・カレッジ図書館に保管された膨大な古文書に興味を持つまでには、実に21世紀の到来を待たなければならなかったのである。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る