第55話 トーデストリープ
後悔の念を振り払うように、進む。進む。二本の足は呼び寄せられるようにあの岩場を目指していく。予想はしていた。ほとんど確信だった。わたしの目指す『海』なんて、最初から一択だ。船は出さなかった。いまはそんな気になれなかったから。爪先で水温を確認する手間も惜しい。飛び込む度胸はなかったけれど。行かなくちゃ。
足首、続いて膝まで浸かった。早く、早く。冷たい冷たい海中を進む。陸上の一歩と違う、あからさまな抵抗。押し戻さないで。わたしは前に進まなくちゃいけないの。たとえ死に行き着くのだとしても。もうそろそろ足が着かない深さになる。ここから先は泳がないといけない。
――――ただいま。聳える六角形に語りかけた。
平らな岩に上がってひと息つく。すっかりずぶ濡れになってしまった。それはいいとして、水を吸った衣類がこんなに重いなんて思ってもみなかった。想定以上に体力を消耗したわたしは、立ったまま大岩と向かい合う。勝手に
わざわざ経由する意味もなかったけれど、来たかったんだから仕方ない。『海』といえば、ここの他にないの。少なくとも、結局は最後まで狭かったわたしの世界には。自嘲して笑い声を上げた。口を覆えば、左の手が胸元の異物に当たる。そうか、自分でも忘れていた。『なにもない』事はない。被害妄想が過ぎたようだ。
「…………ちゃんとひとつ、残ってたみたい」
昨日のコーディネイトにアクセントを加えたくて、最後にブローチを留めた。洗濯する前に外して、今日もまた……。
「よかった。今日の服は適当すぎて、このブローチは似合わないけど」
――――最期まで、わたしのそばにいてくれて、ありがとう。
せっかくつけてきたけれど、海水に浸してダメにするわけにはいかない。最後に残った贈り物を。おばあちゃんは『海風にさらされても、それから海に落としても大丈夫なように』と錆に強い素材のものを選んでくれたと言うけれど、わざと着けたままで海に入るわたしではない。……さっきはうっかりしていただけだ。
いずれ波にさらわれてしまうだろう。高波が発生したら、その時点で確実に海に呑まれる。でも、これほどまでに
ブローチを丁寧に取り外し、ぶんぶん振って水気を飛ばす。拭き取る事ができればよかったが、ここに乾いた布はない。こんな雑に扱いたくなかったけれど、やむを得ない。いくらかましな状態になったところで、ブローチをわたしと彼が腰掛けていた位置より奥、なるべく中心に置く。大きな六角形にも負けずに輝く平たい岩の真ん中の小さな六角形に見送られたわたしは、再び歩き出した。死へ向かう道を。
肺いっぱいに息を吸い込んだら、今度こそはひと思いに飛び込んで、頭の先から爪先まで完全に飲み込まれた。全身で海を感じる。
ねぇ、でも。『泳ぐ』って、どうすればいい? わたしはろくに泳いだ事がなかった。長い距離を泳ぐ方法を、彼に聞いておけばよかった。
溺れてしまう? ……好都合。わたしは生還する事を一切望んでいないのだから、うまい泳ぎ方を知らなくてよかった。身に着いていなくて幸い。何年生きようと、わたしは人間だもの。移動には足を使うし、呼吸は肺でしかできない。大好きなあなたとは、なにもかもが違っている。
本当は泳ぐ必要もない。目的はただひとつ、この人生に終止符を打つ事だ。このまま揺蕩って、酸素が尽きるのを待っているだけで達成できる。…………でも、目的を果たす前に。ひそかに見ていた夢を叶えるための努力は? 彼の愛する海底の王国を見ないまま、死んでもいいの?
――――それではダメだ。そんなのはわたしらしくない。なるべく遠くまで行きたい。彼のそばに。どんなときも持ち続けた願いじゃないか。そして、それは……こんなときでもなければ挑戦できない事だから。チャンスは……そう、一度きり。
死ぬのが少し遅いか早いかの違いなんて、言われなくてもわかっている。言うなれば、わたしのしようとしている事は『誰より前向きな入水自殺』。……けれど、『誰より前向きな遺品整理』を成し遂げた実績が背中を押してくれる。潮の流れを見極めて、身を任せた。この推進力を借りて、どこまで行けるだろう。本当はすでに苦しくなってきている。想像よりずっと早い。人間はこんなにも無力なのか。
海水が流れ込んでくるのを防ぐために、しばらくは少しずつ息を吐き出しながら進んでいたが、吐く量を誤ってしまった。命取りの動揺。酸素を戻そうと吸い込んだ口から水が容赦なく侵入してくる。首を抑えて悶えていたら、だんだん意識が遠のいて――――……。
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