第36話 ある人魚の恋
「その人魚を食べようって発想は?」
「浮かばなかったと思いますよ。その集落では、人魚の存在自体が不吉なものとされてましたし」
「そうなのか……」
癖毛の男は多少の違和感を抱きましたが、特に口を挟まずに話に聞き入っています。
「はい。でも、彼は知識欲が旺盛でした。初めて見る人魚にいろいろ質問して……。彼女は気持ちよく泳いでるところを釣り人に邪魔されて怒ってたんですけど、話していくうちにだんだん彼に惹かれていきました」
「人間のほうもか? 最初はがっかりしたんだろ?」
「そうです。彼女は喜怒哀楽がはっきりしてて、気が付いたらひとつひとつの表情から目が離せなくなってた……らしいです。その地域は極寒なんで、彼の周りの人はいちいち顔で感情表現してられないし、凍傷を避けるために風の強い日は顔の大部分は隠してたみたいですから、彼にとって彼女はすごく魅力的だったんじゃないかなぁ」
「ああ、そういう感じか。確かに気温の低い場所じゃ表情筋も動かしづらいし、顔に出やすい奴ってなんか憎めねえよな」
そのとき、癖毛の男は右腕に傷痕を持つかつての相棒を思い出していました。
「はい。笑顔が素敵な人はやっぱり気になっちゃいますよね」
人魚の男は人差し指で軽く頬を押し上げます。どちらかといえば女性的な仕草だと癖毛の男は思いましたが、そんな事も気にならなくさせる不思議な魅力がその人魚にはありました。
「そこからはもう語るまでもないかもしれませんけど、彼と彼女は愛し合うようになります。本当に危険な寒さの地域だから、スキンシップもほぼできなかったみたいですけど、心から思い合ってた二人は結婚しました」
「ちょっと待て。集落の奴らは反対しなかったのか? そいつらにとって、人魚は不吉な存在だったんだろう?」
癖毛の男は人魚の男に訊きます。彼は軽く頷くと、その先へ話を繋げました。
「もちろん反対はされました。だから、青年はその集落を出るようにして彼女と一緒になったんです。縁を切ったって言えばわかりやすいでしょうか。ただでさえ海に近い集落よりももっときわに家を建てて、時間の許す限り、彼女と過ごしました」
「……二人の生活が脅かされる事はなかったんだな?」
「はい。助け合う事もない代わりに、そこで慎ましやかに生きる二人を咎める人はいなかったそうで……彼らは数十年の間、仲睦まじい夫婦として暮らしました。誰にも邪魔されず、二人きりで……。そして、年老いた彼を看取った彼女は、もう二度と海から顔を出す事はありませんでした」
癖毛の男は、無関係なはずの他人が暮らしを踏み荒らしにやってくる恐怖を思い出して身震いしましたが、言い伝えの恋人たちに横槍が入る事はなかったとわかり、人心地つきました。
「話はそこで終いか」
「そうです。結ばれなかったり途中で引き裂かれたりするわけじゃないんで、ハッピーエンドって言ってもいいんじゃないかなぁ……って僕は思うんですけど、あなたはどう思いました?」
「二人がどんな奴かわからねえから難しいが……まあ幸せだったんじゃないか。家族でも相棒でも恋人でも、苦楽をともにできる奴がいるのは、それだけで幸せだろ」
「……そうですね。僕もそう思います」
なにか思うところがあったのか、人魚の男は一拍置いて肯定しました。
「ひとつ気になった事があるんだが、残された人魚はそいつの亡骸をどうしたんだ? 海の近くにでも埋めてやったのか?」
「鋭いですね。彼女が人間の文化を知ってたかはわかりませんけど……たぶん知らなかったんじゃないかなぁ。知ってたら、二人で過ごした家の近くに埋めてあげてたような気がします」
癖毛の男は興味深そうに身を乗り出して人魚の話に耳を傾けています。
「彼女は彼の遺体をしばらく悲しそうに見つめたあと、ひょいっと軽く背負って海に帰っていったらしいですよ」
「結果的には水葬になったのか……」
癖毛の男の故郷では、土葬が一般的な弔われ方でした。故人が生前最も愛した土地に埋葬されるというのがならわしで、迷わず故郷の地を選択する人が過半数を占めていたので、庭の隅にひっそりとお墓が建てられている家も少なくありません。彼は久しぶりに望まずして去る事になった村ののどかな風景を思い浮かべ、じんわりと胸があたたかくなりました。
……ですが、おそらくそれは失われて久しい情景。管理者のいなくなったあの小さな農村は、いくらもしないうちに荒廃したか、強欲な領主に掠め取られ、当世風に整地された姿で村人たちの帰還を待ち続けていることでしょう。せめて獣たちの楽園になっていてほしいと彼は思います。
「あなたたち風に表現するなら。彼女は、愛しい彼を海の底に連れて行こうとしたんでしょうね」
「死後に用意されてる理想郷の話か」
「はい。実際に人間もそこへ行けるかどうかは置いておいて……まだまだ一緒にいたかったんじゃないかなぁ、その人と。人魚の一生は長いから」
長い睫毛を伏せ、片手で海水をひと掬いして言う人魚。彼が古い言い伝えに登場する同胞に感情移入しているのか、それとも過去の出来事を振り返っている最中なのか、癖毛の男には見当も付きませんでした。
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