第2話 おばちゃんのわがまま
数日後、訪れた
「前に言ってたあのおばちゃんが毎週指名してくれるもんで、ほんまに助かってるんすよ。書き入れ時は土日なんすけど、おばちゃんは平日なんで被らへんのっすよね」
「平日はやっぱり少ないんですか?」
「看護師さんとか平日が休みになる人もいるんで、平日にもあるにはあるっす。でもやっぱり暇な日が多いっすねぇ」
「あら、そういえば渡辺さんのお仕事って、レンタル彼氏さんだけなんですか?」
佳鳴はふと疑問になった。渡辺さんのこともあり、気になってレンタル彼氏さんのお給料を調べてみたことがある。時給は2,000円ほどで、時間単位にすると良い様に思えるが、お仕事が無ければそもそも時給が発生しないのだそうだ。
ほぼ毎日業務があるのなら生活できる様な気もするが、「個人」を売ると言うお仕事なので、そう単純に行くものでは無いのでは無いかとも思ってしまうのだ。
「いや、フリーライターやってるっす。レンタル彼氏の仕事は不安定っすからね。指名があれへんかったら稼げへんっすもん。ライターもそう売れとるわけや無いっすけど、両方合わせたら充分普通の生活できるっすよ」
「そうやったんですね。ライターさんもされてはったんですか。ではご多忙ですねぇ」
「どっちもぼちぼちっすよ。ライターて言うてもそんな大きい書きもんが入ってくるほど売れてへんっすから。あ、シャンディガフお願いするっす」
「はい。お待ちくださいませ」
少なくともこの「煮物屋さん」に来ていただけるほどの余裕はあるということなのだろう。余計なお世話だと判っていつつ、少しほっとしてしまう。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ〜」
その日、佳鳴と
「あら渡辺さん、いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
ご婦人はお連れさまなのだろうか。渡辺さんがどなたかとご一緒なのは初めてだった。お母さまなのだろうか。それにしては渡辺さんの表情が気になる。
「こ、こんばんは」
渡辺さんがやや困った様に応えると、ご婦人は店内をぐるりと眺めて「まぁ〜」と楽しそうな声を上げた。
「ここが
のんびりとした口調である。おっとりとした方なのだろうか。
「は、はいっす。あの
「あら、そうやねぇ」
渡辺さんが空いていた椅子を引くと、加寿子さんと呼ばれたご婦人は素直にそこに掛ける。その横に渡辺さんも腰を降ろした。
「どうぞ」
佳鳴がおふたりに温かいおしぼりを渡すと、ご婦人は「ありがとう」と満足げに頷いてゆっくりとした動作で手を拭いた。渡辺さんもさっと手を
「渡辺さんのお連れさまは、このお店は初めてですよね?」
「そうやねん。佑ちゃんの好きなお店に連れてってってお願いしたんよ。そしたらここに案内してくれてねぇ」
「そうやったんですか。渡辺さん、ありがとうございます」
お名前で呼ばれているのだから、お母さまでは無いのだろう。未だに関係性が判らない。が、佳鳴にはひとつだけ心当たりがあった。
「い、いや、俺も頼まれてびっくりして、ついここにお連れしてもたんすよ」
「ふふ。嬉しいですねぇ。お客さま、このお店のご注文方法はお聞きになってはります?」
「いいえぇ」
佳鳴がご説明をすると、女性は「あらまぁ、おもしろいわねぇ」と手を叩いた。
「ほなお酒をお願いしようかしらねぇ。何にしようかしら。白ワインがええかしら。こちらでは甘口なのかしら、それとも辛口?」
「辛口なんですよ。ですが飲みやすいすっきりとしたものをご用意しております。銘柄をあまりお選びいただけへんで申し訳ありません」
「いいえぇ、とんでもない。ほなそれをいただくわね」
あまり細かいこだわりはお持ちで無い様だ。すんなりと受け入れてくださったことに佳鳴は安堵する。
「かしこまりました。渡辺さんはどうされますか?」
「俺はいつものシャンディガフでよろしくっす」
「はい。お待ちくださいませ」
千隼がワイングラスを出し、貯蔵庫から冷えた白ワインのボトルを取り出して静かに注ぐ。佳鳴はシャンディガフの準備だ。
「はい、お待たせいたしました」
ご婦人にご用意したのは、オーストラリア産「イエローテイル」のシャルドネだ。辛口ではあるのだが辛すぎず、爽やかでフルーティな味わいの白ワインである。
それぞれにドリンクをお出しし、それを受け取った渡辺さんとご婦人は「乾杯」と軽くグラスを重ねた。ご婦人はにこにこと上機嫌で、渡辺さんはまた少し浮かない表情だ。
ちびりとワイングラスを傾けた女性は、小さく苦笑を漏らした。
「佑ちゃん、困らせてしもうてごめんなさいねぇ。ここまでしてもらうんはもしかしたら契約違反なんかも知れへんわねぇ」
「それは、その」
渡辺さんは言葉を詰まらせる。きっとその通りなのだろう。タレントさんのプライベートに必要以上に入り込むのは、禁止事項なのでは無いかと思われる。
「私も少し調子に乗ってしもうたんかも知れへんわねぇ。もうこんなことは最後にするから、またご指名受けてくれるかしら」
「それは、はいっす。俺でよかったら」
「ああ、良かったわぁ」
女性はほっと表情を和らげた。
会話の内容からすると、やはりこのご婦人が最近頻繁に渡辺さんを指名される「おばちゃん」なのだろう。そのおばちゃんが少し渡辺さんにわがままを言った様だ。渡辺さんお気に入りのお店に連れて行って欲しい、と。
適当にごまかしたりすることもできただろうし、別の行きつけのお店もあるだろうに、この「煮物屋さん」にお連れしたということは、渡辺さんもお困りなのだろう。渡辺さんの表情からも伺える。
しかしまずはお料理を用意しなければ。佳鳴たちはせっせと手を動かす。
今日のメインは海老と春きゃべつと椎茸の旨煮だ。小麦粉をはたいた海老をさっと煮付けているので、煮汁に少しとろみが付いている。そのとろみが他の具材に滋味深いお出汁を絡ませるのだ。
小麦粉に守られた海老はぷりっぷりに仕上がり、柔らかく甘みも強い春きゃべつはしっとりと。時季外れながらも傘の厚い椎茸の歯ごたえも心地が良い。
小鉢のひとつは新ごぼうの明太マヨネーズ和えだ。斜め切りにした新ごぼうを蒸して、粗熱が取れたら明太マヨネーズで和える。
新ごぼうは灰汁が少ないので、蒸すことでそのほのかな癖と栄養も生かしてあげる。明太マヨネーズのお陰で全くと言って良いほど気にならなくなるのだ。だがごぼうの甘さはしっかりと引き立っている。
もうひとつは生わかめとにらのナムルである。生わかめと茹でたにらをお醤油やお酢、ごま油などの調味液で和えた。すり白ごまもたっぷりと使っている。
しゃきしゃきの生わかめとにらはそれぞれの味わいを高め合い、ごまなどの調味料がそのふたつをまとめ上げるのである。
「はい、お料理お待たせしました」
整えたお料理をお出しすると、女性は「あらぁ」と目を輝かせた。
「こんな家庭料理を誰かに作ってもらうなんて、ほんまに久しぶりやわぁ〜。嬉しいわぁ。いただいてもええかしら」
「もちろんです。お口に合うとええんですが」
「とてもええ香りやわぁ。いただきますねぇ」
女性はお箸を取り、まずはナムルに手を伸ばした。少量を口に運んで
「とっても美味しいわぁ。心がほっとする味やねぇ。これナムルやんね。焼肉屋さんなんかでいただくんはもっと味が濃いんやけど、こちらのは優しいんねぇ」
「お醤油を少なめにして、お酢をほんの少し入れてさっぱりめにしています」
「そうなんね。なるほどねぇ。こちらの煮物も美味しそうやわぁ」
女性は次に海老と春きゃべつを重ねて口に入れる。そしてほっこりと顔を綻ばせた。
「こちらも優しい味やねぇ。でもしっかりと旨味があるわ。美味しいわねぇ」
「ありがとうございます。そうおっしゃっていただけて嬉しいです」
初めてのお客さまにお料理を食べていただくのは、いつでも少し緊張する。千隼の煮物は間違い無いと確信しているし、佳鳴も心を込めて丁寧に作っているのだが、やはりそれぞれのお好みと言うものがある。合わないお客さまもおられるのだ。
「うふふ。佑ちゃんがご贔屓にするんが解るわぁ」
「旨いっしょ、ここ。雰囲気も良くて」
ご婦人の横で渡辺さんももりもりと料理を食べていた。そうしているうちに戸惑いも解けて来られた様で、いつものご陽気な笑顔が浮かんでいる。
「ええ。こうしてお店の方とお話できるんも嬉しいわねぇ。あら、申し遅れました。私、
「はい。お伺いしてます」
「私ね、佑ちゃんのお客さんやの。いっつも佑ちゃんに楽しませてもらってるんよぉ」
「そうなんですね。私は「煮物屋さん」店長の扇木です。あちらは弟なんですよ。皆さんハヤさんと呼んでくださいます。よろしくお願いします」
佳鳴がゆったりと頭を下げると、佐藤さんもぺこりと首を傾げた。
「こちらこそよろしくお願いしますねぇ。ここはまた来たいお店やねぇ。佑ちゃんとの約束は関係無しに、ひとりでも来てみようかしら」
確かご結婚されていると聞いているのだが、旦那さまとでは無いのか。ご既婚でレンタル彼氏を依頼されるのだから、何かご事情があるのかも知れないが。
「ねぇ佑ちゃん、わがままついでにもうひとつええかしら」
「何すか? 俺で叶えられたらええんすけど」
「難しいと思うわ。だってねぇ、佑ちゃんに私の専属になって欲しいんやもん」
佐藤さんののんびりとした口調のわがままに、渡辺さんは「は?」と目をむいた。
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