11章 コマ割りの中で
第1話 卵を温めるとき
そろそろ春の気配も濃くなり、桜もちらほらと開き始める。空を見上げればまだらな淡いピンクの光景が見えた。
金曜日、「煮物屋さん」の営業が始まって20時ごろ、またひとりのご常連が訪れる。
「こんばんは〜」
そう言いながら入って来られたのは、
「いらっしゃいませ。ご機嫌ですねぇ」
なので
「ふふ、原稿が完成したんです!」
片桐さんは漫画家志望なのだ。一般企業にフルタイムでお勤めしながら毎日こつこつと漫画を書かれては、数週間、数ヶ月を掛けてひとつのストーリー漫画を完成させているのである。
「どうしても今日中に仕上げたぁて有給取ってまいました。明日
片桐さんは佳鳴がお渡しした温かいおしぼりで手を拭きながら言った。
「見てもらう? そういうイベントみたいなんがあるんですか?」
「そうそう、イベントです。そこに漫画雑誌の編集者さんが来はって、見てくれはるんですよ」
「それは凄いですね。そこで認められたらデビューですか?」
佳鳴はつい興奮気味になってしまう。ついに片桐さんの夢が叶うのだろうか。だが片桐さんは「あはは」とあっけらかんとされたものだ。
「そう上手くは行かんでしょうけど、まずは見て欲しいなって。プロの人から見て、私の漫画はどうなんやろかって。これでもプロになりたいって思ってるんで、今の自分の力をちゃんと知っておかなって思ってるんです」
「それは大事なことですね。楽しみの様な、怖い様な、って、私が思うことや無いですが」
佳鳴が言うと、片桐さんは「そうなんですよねぇ〜」と苦笑を浮かべる。
「少しだけ、少しだけは自信があるんです。幸いにもとりあえず話を考えて漫画を完成させるだけの力はあるんで。漫画家になりたいって言っている人の中には、あまり練習とかせぇへんで、せやからちゃんと描けなくて、でも漫画家になりたいって気持ちだけが大きくなってもうてる人もおるので」
「そうなんですね。だったらやっぱり片桐さんは凄いんですねぇ」
佳鳴が感心した様に言うと、片桐さんは嬉しそうに「ふふ」と笑みをこぼす。
「あ、注文遅くなってごめんなさい。お酒でお願いします。えっと、酎ハイのレモンで」
「はい。かしこまりました」
まずは酎ハイを作る。おお振りのグラスに氷を入れ、そこにキンミヤ焼酎を入れ、レモン果汁を垂らし、炭酸水を注いてステアする。
ご提供したそれを、片桐さんはさっそく傾ける。
「美味しい! 原稿上がりやから一段と美味しい! もう今日は何もせえへんから、ゆっくりお酒がいただけます。シャワーも浴びて来てやりました」
「それは
今日のメインは、鶏肉と
生の筍は春の数ヶ月にだけ食べられる贅沢品だ。人参も春人参が美味しい。アスパラガスも時季のものである。
筍の下ごしらえは手間が掛かるが、だからこそこうしてお店で食べていただきたい。
皮目を香ばしく焼き付けた鶏肉と筍と人参、厚揚げをお出汁でことこと煮て、日本酒とお醤油などでシンプルに味を整えている。
小鉢、まずはちんげん菜とえのきのごま炒め。ごま油で炒めたちんげん菜とえのきに、味醂と日本酒、お醤油で調味をして、白すりごまをたっぷりとまぶしてある。
旬のちんげん菜は肉厚で、しゃきっとした風味の良いお野菜の中に、ふわりとごまが香る一品だ。
もう1品はクレソンと生わかめとかにかまの酢の物である。他の料理が甘めなので、酢は少し酸味を強めにした。クレソンの旬もこの時季なのだ。
片桐さんはまず酢の物を口にし、「んん」と嬉しそうな声を上げた。
「さっぱりしていてええですねぇ。こっちのごまのが甘くて、バランスがええなぁ。煮物は相変わらず優しい味で嬉しいです。こういうのってどうやって考えはるんですか?」
「仕入れの時に考えることが多いですねぇ。甘いとか辛いとか酸っぱいとか、そういうバランスはできるだけ考える様にしていますけど。味に変化がある方が楽しんでいただけるかなとも思いますし」
「なるほどです。それは漫画にも通じるものがあるかもです。
「そうなんですね。あ、でもグルメ漫画とかちょっと読んでみたいかも。私らには勉強にもなるでしょうし」
昨今はそんな漫画がたくさん出ていると聞く。きっと昔から人気で、中にはコミックスが100巻を超えるものもあるらしい。決して派手では無いかも知れないが、ずっと支持を集めているのである。
「そうですね。レシピが載ってる漫画もぎょうさんあるんですよ。せやのでお料理が好きな人とかは楽しめると思います」
「そうなんですね。おすすめとかありますか?」
「そうですねぇ〜」
好きな漫画のお話だからなのか、片桐さんは心底楽しそうに小首を傾げた。
翌日になり、佳鳴たちはまた仕入れの為に家を出る。いつもと違うのは、車に乗らず、歩いて曽根駅方面に向かう。だがたどり着いた改札は素通りし、高架沿いをそのまま進み、到着したのは本屋さんだった。
明るい清潔な店内だ。佳鳴たちが本を見る時には必ずと言って良いほど足を運ぶので、慣れたお店でもあった。ふたりは迷うこと無くコミックス売り場に向かう。
「えっと、片桐さんが言うてはったんのは、あ、これやな」
大きな棚にずらりと並べられた漫画本。その棚さしの中から1冊を抜き出した。それは昨夜、片桐さんに教えてもらったグルメ漫画の1巻である。
居酒屋を舞台にした、店員さんとお客さまの触れ合いが描かれた漫画なのだそうだ。居酒屋では無いが、お酒なども提供する飲食店を経営する佳鳴と千隼は、ぜひ読んでみたいと思ったのだ。片桐さんもそれを見越しておすすめしてくださったのだと思う。
また、片桐さんとの話のネタにもなるので一石二鳥だ。片桐さんは今からでも買いやすい様にと、現在3巻まで出ているものをおすすめしてくださった。
「今夜読んでみようっと」
「その後俺も貸してや。気に入ったら2巻は俺が買うで」
「ええで〜。交互に買ってって、リビングに置いていつでも読める様にしておこうか」
「そうやな」
佳鳴はシュリンクされた1巻を手に、レジへと向かった。
翌朝、起き出してキッチンに顔を出した佳鳴は、「ふわぁ」と大きなあくびをした。
「姉ちゃん、夜ふかししたか」
「まぁねぇ〜。でも少しやで。漫画1冊読み込むぐらい」
まだ寝惚けたぼんやりとした声で言うと、千隼からすかさず突っ込みが入る。
「読み込んだんかい」
「おもしろかったで。優しいお話やったぁ。うちもお客さまがそんな気持ちになってくれはったらええんやけどなぁ」
お客さまが抱える小さな日常的なお悩みを、店員さんが聞いたり解決したり背中を押したり。お客さま目線だったり店員さん目線だったりする、数話完結型のオムニバスだった。エピソードを読み終えるごとにふぅわりと優しい気持ちになれるのだ。
もちろん出てくるお料理もおいしそうだった。旬のものをふんだんに取り入れたりしているのは「煮物屋さん」と共通しているだろうか。美味しいものをお客さまに召し上がっていただきたいと言うのは、フィクションでもノンフィクションでも同じなのだ。
「なるほどな。俺も読んで勉強しよ。明日は店も休みやから、少しぐらい夜ふかししても平気やし。あ、ビールでも飲みながら読むかな」
「それええなぁ。よし、今日3巻まで買って、私も飲みながら読もうっと」
「その前に家事やな。店もあるんやし」
「分かってるって」
佳鳴は笑い、またふわぁとおおきなあくびをした。
定休日の月曜日が過ぎ、火曜日になりまた「煮物屋さん」の営業が始まる。
「こんばんは!」
19時を過ぎた頃、元気にそう言って入って来られたのは片桐さんだ。またにこにこと笑顔を浮かべている。
「こんばんは、いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
片桐さんは空いていた奥の方の席に掛け、千隼から受け取った温かいおしぼりで手を拭いた。
「お酒でお願いします。今日はええっと、カルピス酎ハイで」
「はい。お待ちください」
まずはカルピス酎ハイを作ってご提供し、続けてお料理を整える。
今日のメインはかんぱち大根である。絹さやで彩りを添えている。
冬ならぶりでぶり大根を作るが、春だとかんぱちが旬だ。ぶりと負けず劣らずの仕上がりになる。
お塩と日本酒で臭み抜きをしたかんぱちは、さらにさっと霜降りし、お米の研ぎ汁で下茹でした大根と煮込む。味付けは生姜と日本酒、お砂糖にみりん、お醤油。
さっぱりとしつつも脂のりの良いかんぱちはほろっとほぐれ、口に入れるとじゅわっと甘みと旨味が広がる。煮汁もしっかりと蓄えていて、大根にもしみしみだ。
小鉢はしらたきとにらの酢味噌和えと、厚揚げと新玉ねぎの煮浸しだ。
さっと茹でたしらたきと旬のにらはそれぞれざく切りにし、酢味噌で和えた。ぴりっとしつつも爽やかな一品だ。
煮浸しは日本酒とみりん、薄口醤油で優しい味付けにし、厚揚げと厚く切った新玉ねぎをさっと煮て、火を落として冷ましながら余熱で火を通す。
手軽に作れる一品ながらも、素材の旨味がしっかりと感じられる調理法だと思っている。特に今日は新玉ねぎの甘みがふんだんに味わえるのだ。
片桐さんはさっそくお箸を手にし、料理に
「片桐さん、先日教えていただいた漫画読みました。おもしろかったですよ」
佳鳴が言うと、片桐さんはぱあっと顔を輝かせる。
「嬉しいです! 私もいつも続きが楽しみで。連載分を電書で読んでるんですけど、コミックが出たら買ってまいますわ。こっちも電書でなんですけど」
「うちは紙の本ですねぇ、ものにもよりますけど。あの漫画は千隼と共用ですから」
「ああ、電書やと共用は難しいですもんね。私、あの漫画読んだ時にこの「煮物屋さん」のことを思い出したんですよ。ここは正確には居酒屋とは違うんですけど、優しいお店っていうのが共通してるなぁって」
「あらぁ」
佳鳴にとって、それはとても嬉しい言葉だった。少しでもお客さまに憩っていただけるお店作りを目指しているので、あの思いやりの物語と連想していただけるのは本当に幸いである。
「そうおっしゃっていただけて嬉しいです。もっと精進しますね」
「今で充分ですって。あ、もののついでに聞いてください。この前、日曜日。描いた漫画を雑誌の編集さんに見てもろたんですけど」
「あ、先週おっしゃっていたのですね。どうだったのかお伺いしても?」
「はい。ええと、良いところ悪いところ、半々と言った感じでした〜」
良いところがあるのは嬉しかっただろう。素晴らしいことだ。だが悪いところも指摘されてしまった様だ。しかも半分も。それは決して良い結果では無いだろうに、片桐さんは楽しそうにからからと笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます