第49話 月森、「世の中」を垣間見る
その昔……20年近く前のことですが、オランダに住んでいました。当時は築八十年の、傾きかけたアパートに住んでいました。一階が洋品店で、二階と三階がわたしたちの住居。そしてそのとなりに中華料理屋さんがありました。
その中華料理屋さんは、となり町のアジア食材店から材料を買っていました。
そのアジア食材店のオーナーが
とても優しくていい方達で、私たちはすぐに友達になりました。
芳姐はわたしが日本人だと知るととても喜んでくれました。彼女はふだん、広東語を話し、片言のオランダ語と北京語を使います。わたしは日本語を使い、片言の英語と北京語を話していました。そこで、わたしたちは北京語で意思疎通を図ることにしました。
彼女はわたしを食事に招待してくれ、とてもたくさんの料理でもてなしてくれました。
まず、
ベトナム料理などで使うライスペーパ―よりもずっとぶ厚くて、真っ白です。もちもちしているけどお餅ではない。その中にお肉などを入れ、オイスターソースのようなタレにつけて食べます。とっても美味しいんです。
あと、野菜の炒めもの。
なんでしょう、あれは。とても長いんですが、なぜか切ってない。噛み切ろうとするのに噛み切れなくて、仕方なく手繰り寄せる感じで口に放り込み、ひたすらもぐもぐやるんですね。口から万国旗が出てくる手品を仕込んでいるマジシャンの気分でした。
味はおいしいです。濃い緑色なのに、青臭さがまったくない。でも結局あまり噛み切れないまま丸呑みし、もう少しで窒息しそうになりました。
つぎは、へちまのスープでした。沖縄でも食べるんですよね? 食べたのは初めてでした。特に味は感じず、おいしいスープの味と、冬瓜のような舌ざわり。おいしいんですが、皮つきだったんですね。とっても美味しかったんですが……へちまって、皮に産毛があるんですね。でもまあ、欧米では桃も、産毛のついた皮のまま食べますしね(私は食べませんが)、こんなことでグダグダ言うのは海外初心者のやること、と自分に言い聞かせ、その、もさもさするへちまを食べました。
つぎもまたスープでした。いいですか? ここで「スープがかぶってんだろ!」とキレてはいけません。世の中とはそういうものなのです。
で、その、透き通ったスープの中を見て、ぎょっとしました。
大量のニワトリの足がありました。ちょっと本格的な中華のお店だと、日本でも食べられるものだと思います。でも、確か日本では、原型があまりわからないように、いくつかに裂いて提供していたと思いました。
ここでは違います。そのまま、足です。大量の足がね、あるわけです。日本で見たやつは真っ白だったんですが、こちら、色が残っていました。あの、皮膚のこう、網目のような質感とか、爪の感じとか、もう、「裏のニワトリ捕まえて切ってきました」感を彷彿とさせる一品でした。
ちらりと見ると、高先生も芳姐も、二人の息子さんもむしゃぶりついてます。食べ方がわからないと思ったのか、
「ほら、こうやってね」
と、その、足を丸ごと口に突っ込み、くちゅくちゅ、とやりました。そして、「ぺっぺっぺっぺっぺ」と、スイカの種を飛ばすかのように、細かくなった骨だか爪だかを別皿に飛ばしました。
ハードルが高すぎました。
初心者と笑われようが、臆病者、と罵られようが、無理でした。もちろん、
「こんなおいしいものを食べないなんて、変なやつ」認定
を受けました。
食事が終わった後、裏庭に連れて行かれました。
何をされるんだろう、と、ぎょっとしていると、芳姐は家庭菜園の前に立ちました。
「ほら、これがさっき食べた野菜」
背の高い、青々と茂ったその野菜の名前を知りませんでした。なので、
「これ、なんていう名前?」
「だから、野菜」
もうこの際、野菜の名前などどうでもいいのです。
芳姐はそこに座り込み、持っていたカッターナイフで根元近くの土をほじくり返しました。
「これさ、すごくおいしいよね。虫も知ってるからさ、毎日こうやって退治しないとすぐにやられちまう。根から入り込んでね、中から汁を吸って枯らしちまう、とんでもないやつなんだ。殺しても殺しても出てくる」
言葉遣いが物騒な気がするのは、片言で話しているせいでしょうか。
一匹の芋虫を掘り出しました。背側が真っ黒で、腹側が真っ白な、体長三センチほどの虫です。
めちゃくちゃ気持ち悪い。
その虫は、いきなり地面に出されて驚いたように体をもぞつかせています。芳姐はその虫を平たい石の上に置きました。
そして。
「ほんとこの虫は、生かしておくと、ろくなことをしない」
カッターナイフでその体を真っ二つに切りました。虫は「ぎゃあっ!」という声を体現するかのように身悶えしていました。芳姐はすかさずその体の上にナイフを寝かせ、石に擦り付けてペースト状にしました。
断末魔の声もないほどの早技でした。
これが「世の中」というものです。
石の上でただの黒いシミに成り果てた「それ」を見て、 誓いました。
決してこの人を怒らせまい、と。
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