緩やかな日常
本国の議員宿舎のベッドはとてもぐっすりと寝られて非常に快適だった。着替え部屋を出ると、私の部屋の前にはリナが立っていた。
「おはよう、ウォール」
しっかりと支度を既にしていたようで、仕事モードだった。
私も当然着替えてはいるが、気分は正直寝たままのところがある。
「おはよう。待っていてくれたのか」
「あんまり待っていないから気にしないで」
「外で立っていないで、合鍵を使い部屋に入ればよかっただろう」
「いや…それはちょっとウォール寝ていたし…」
リナは恥ずかしそうに視線をそらした。
「え?…ああ、寝ているであろう異性の部屋に入るのは抵抗感があるか」
私が頷くと、リナもぶんぶんと首を縦に振って頷く。
「そうそうそう」
「行くか、仕事へ」
「そうね」
議員宿舎の廊下もどこか懐かしい。
いつもある当たり前のものは、当たり前ではなくなった時に、その価値に気付くことができるのだろう。
行政区に入ると、廊下では官僚が歩いている。今日はいつもより多い気がする。
「今日の最初は行政調整会議ね」
「分かっているって…。お母さんじゃないんだから…」
リナはムッとした。
「別に私はお母さんではありませんけど、ただウォール抱え込みすぎちゃうじゃん。なんでも一人でやろうとするから心配で…」
「そんなことない。私は色々な人に頼りっきりだ」
「そうかなあ…」
リナは疑念にあふれた声を出した。
「とにかく会議に行こう。仕事がしたい」
リナが「話そらした…」と呟いていたが、聞かなかったことにする。
リナと会議室に行くと、今日は珍しく誰もいなくなった。
「珍しいな、私たちが一番早いなんて」
「確かにね」
私とリナがそれぞれ指定席に行くと、そこには静かな静寂が訪れる。
いいや、無論廊下の音は聞こえているが、壁越しでとても小さくなりもはや小鳥のさえずり声に聞こえる。
沈黙の中、私たちはぼうっと見つめ合う。
「ふふっ…」
リナが手で口を抑えて噴き出した。
なぜか理由もわからないが、私も少し可笑しく感じられて笑みがこぼれた。
リナが手を外してこちらを見ると、少女のように笑っていて、リナの子供っぽい一面をまた見ることができたことで私もうれしくなった。
私も笑いが堪えられず、笑い、リナの顔を見るとなぜかそのたび笑いが止められなくなって、お互いの顔を見ては笑うという無限ループに陥った。
ひとしきり笑った後、ノック音がした。
「失礼します」
と言って、入ってきたのはフィール外交部長だった。
間抜けにも、お互いの顔を見て笑いあうなどという行為をしていたせいで、元に戻すことがあまりに遅れた。
そのためフィール外交部長が私たちが見つめあい笑っていたという意味不明の行為を見てしまった。
その事実が余計ばかばかしく感じられてまた笑いに陥る。
「何していたんですか…?」
「いや、気にするな。全くくだらないことで聞く価値はない」
「価値がないなら秘密にする必要ないですよね…?」
フィール外交部長がなぜか食いついてきた。
「別に誰かの悪口を言っていたとか、そういうのではないから安心しろ」
「見つめあって、随分と楽しげに笑いあっていましたけど」
うーん…、変な誤解を持ち続けるより話した方がいいか。恥ずかしいことだが、有害な情報ではない。
「いや、誰もいない静寂なところでお互いの顔を見ていたら、なんか馬鹿馬鹿しくなってな。笑ってしまったんだ。いい年をして何をやっているんだと自分でも思うよ」
「そうですか。早く付き合ったらどうですか」
リナの方を見てフィール外交部長が低い声を出した。
「…別にあなたに言われることではないわ。ウォール議長は大陸統一で忙しいのよ、私が邪魔をするわけにはいかない」
リナが言い切ると、フィール外交部長はそのまま席に座った。
「まあ、後悔のなさらないようになさってください」
フィール外交部長のこの言葉の後、再び静寂になる。
が、リナと二人の時とは打って変わってどす黒く、淀んだ何かだ。居心地がとても悪い。
フィールとリナの個人的関係性を私は何も知らないので、不用意に口をはさむわけにもいかなかった。
誰か来てくれと願う。数分がとても長く感じられたが、ついにその時が来た。
エマリー軍代理がドアを開け入ってきた。
「おはようございます、ウォール議長」
「おはよう、エマリー軍代理」
エマリー軍代理の三十秒くらい後に、気だるげなウージ財務部長が入ってきた。
「これより行政調整会議を始める。具体的な議題はなく報告がメインになると思う。各員報告・共有事項があるものはどうぞ」
フィール外交部長が手を挙げる。
「ネルシイ商業連合から大使館を通じて正式な抗議文が送られました」
「ネルシイが?」
フェーム諸侯連合が誕生してたら、ネルシイはフェーム諸侯連合がユマイルの傀儡国家だと警戒を始めていた。
ネルシイの議員や新聞ではそういった論評がすでに出ていたが、政府として外交ルートを通じ抗議してきたのは今回が初だ。
「具体的な内容は?」
「フェーム諸侯連合はユマイルの傀儡国家であり、ユマイルによる旧フェーム帝国の利権独占を強く非難する、というものです。要求は旧フェーム帝国の共同統治でした」
「やはり利権をよこせと言ってきたか…」
ある意味想定通りだ。
「どうなさいますか?」
フィール外交部長が私に問いかける。
私は少しの間天井を見上げて深く深呼吸をして覚悟を決めた。
「フェーム諸侯連合は独立国であり、どの国であっても内政干渉は許されないと回答してくれ」
「よろしいのですか。それでネルシイが納得するとは思えませんが…」
「だろうな」
私はつぶやいた。
「戦争は避けるべきですよ…」
フィール外交部長が珍しく低い口調で言った。
「無用な戦争はしたくないが、大陸統一のために必要なプロセスであるならばやむを得ない」
「不要でも必要でも戦争が起きれば人が死にますと何度言えば…」
「未来の犠牲を減らせるわけだ。今の私たちが頑張り次の世代に託す。人類史における基本だ。すでにフェーム帝国との戦争をやってしまっただろう、国家間戦争としては驚異的な死者数の少なさだが、それでもすでに何万人が死んだ」
「でも…死んでいった人たちは人類史のことなんて気にしていませんよ!!死人は少ないほうがいいに決まっています」
「フィール外交部長」
リナ諜報長官がフィール外交部長を睨みつけた。
「あなたの理想論にはうんざり。私たちのこの犠牲は素晴らしい未来のためのものなのよ、どうしてこの尊い行為が理解できないの?」
「死んでしまえば、その尊さなんてもう二度と理解できませんよ」
「そういう五十年しかない人の人生のことしか考えられないから子供だと言っているのよ。これから人類はあと何千年、何万年続くと思う?大陸統一が未来の子供たちにとってどれだけのレガシーになるか理解できないの?」
「社会は人間一人一人によってできています。統計値だけ見て分かった気にならないでください」
「安い感動は全体像を見えなくするわ。感情で訴え、貧乏人に甘い幻覚を見せても、彼らの所得は上がらない。豊かさとは結局、労働者たちの所得なのよ」
フィール外交部長が酷く動揺した。今までの声から打って変わって静かなものになる。
「リナ諜報長官はウォール議長の受け売りしかできないんですか…?」
フィール外交部長が小さくよく響く声でつぶやくと、リナが激しく動揺した素振りを見せた。
私は何かまずいものを感じて話を打ち切ることにした。
「もういい、リナ。…ありがとう。フィール外交部長も前に言ったとおりだ。私の方針に不満ならいつでも辞表を書いていい。これは嫌味とかではない、別に政治的思想が違うことなんてよくあることだ。君が反ウォール運動をやっても私は恨まない」
「私が外交部長の座を離れても大陸統一の意思は変わらないわけですよね…?」
「当然だ」
フィール外交部長は考え込んだ後
「私は外交部長としてネルシイとのパイプをしっかり維持します。議長と意向が相反した場合、ウォール議長に従います。それでいいですよね?」
フィール外交部長が私に顔を近づけ、前のめりに言った。
「ちょっとフィール外交部長」
「戦争には出口が必要です」
リナの問いかけをフィール外交部長は無視し、私を見た。私はフィール外交部長の視線を真っ直ぐととらえる。
私は頷いた。
「組織の一員として自覚を持ってやってくれるならいい。人にはそれぞれ仕事のやり方というものがある。ただし、何かあればすぐに私に報告してくれ、いいな?」
「はい」
何か言いたげなリナを視線で制止する。
「次、エマリー軍代理何かありますか?」
「はい。旧フェーム帝国に投入された十八師団のうち十四師団は首都ユマイザルに帰還しました。のち四師団は帝国フェームに残り、指揮権はルム軍事顧問が保有しています」
「分かった」
「参謀本部としては、現在首都に駐留していますが、動員を解除し各所属へ戻すことを提言します」
「首都に駐留できないのか?」
「収容率は九割近くですので、駐留し続けることはギリギリ大丈夫でしょう。ただ、二週間にも及ぶ戦争ののち、一週間の慣れない帝都フェームへの駐留、往復にも合計一週間弱。実に一か月ぶりの故郷です。これ以上は士気の限界です」
「そうか…」
「きっと、ウォール議長はネルシイのことを心配しているのだと思われますが、彼らも人間です。もしどうしても戦わなければならないのであれば、別の師団を転用するべきです」
「確か、今回はフェーム帝国と距離的に師団を使った」
「そうです。ですからネルシイ付近の師団を使うことになると思います」
「今のところネルシイ国境で何か動きはないのか?」
「特に大きな動きはありません。しかし、偵察の頻度が増えているとの報告が上がっています」
「分かった。ルム兵站課長の後任は決まっているのか?」
「参謀本部兵站課の人間を昇格させる予定です。実戦経験は少ないですが、…ルム兵站課長と比べられては可哀想ではあります」
「兵站課長の人事は参謀本部に任せよう。私より詳しいだろうしな」
「はい」
私はリナのほうを見る。
「リナ諜報長官からは何か?」
「ネルシイが現段階でユマイルに戦争を仕掛けようとしている証拠はないわ。…ただ、明らかに情報統制が強まっている。彼らは民主主義国家ではあるものの、同時にナショナリズムを持っているわけで」
「つまりユマイル強硬論が高まっていて、水面下で戦争を考えていてもおかしくないと」
「おそらくネルシイ軍はすでに兵棋演習を始めているし、政治家もその可能性に気が付きつつある。…まあ、実際は本当に戦争のことなんて考えていなくて大衆から支持を得たいがために、ユマイル強硬論を唱える政治家も多いのだけれどね。だけど、まともなネルシイの政治家は真剣にユマイルとの戦争のリスクを検証している」
私は一人の男の顔が浮かんだ。
「ビュー外務大臣…」
かつてネルシイシティでフィール外交部長と私で、関税同盟の交渉を行った時のネルシイ外務大臣だ。爽やかなイケメンな男だが、同時に優秀な男だ。
「ああ、あのイケメンの…」
フィール外交部長が思い出して呟いた。
「そう?胡散臭い男よ。男の趣味が悪いんじゃない?」
「リナ諜報長官に言われる筋合いはありません」
…また喧嘩してるよ。
「リナ諜報長官、話を進めてくれ」
「…ええ。彼は主婦に支持を受けるような男だからユマイルへは基本穏健派の立場を取っている、だがそれは単純にユマイルと戦争することがネルシイの国益にならないだけであって、別に親ユマイルだとかそういうわけではないわ」
「賢明な男だな。…非常に厄介だ。諜報部でうまい具合に処理できないか?」
処理という言葉にフィール外交部長が顔を曇らせた。
「できたら苦労しない…。周りには優男ポジション気取っておきながら、実際は警戒心剝き出しでだれも信用していないあたり、本当に悪い男よね」
フィール外交部長が嫌そうな顔をしていた。ビュー外務大臣が好みなのか、あるいは単にリナの悪口が気に障ったのか。
…前者だとハニートラップ的にまずいんだけど、大丈夫だろうか。
「ネルシイの情報収集を強化してくれ。もし戦争の兆候があるならば、必ず大規模な動員がかかるはず。できればその前にシグナルを察知してほしいが」
「分かった」
「ウージ財務部長からは何か?」
「ちゃんと戦時国債はユマイル民族銀行やユマイザル中央銀行が消化してくれるそうだ。これで問題はない」
「助かります。財源がなければ何もできませんので」
「ただし、財政健全化を忘れないでくれ。ポピュリズム的な財政出動を許されない。借金は必ず返済しゼロにしなければならない」
古典的保守政治家らしい意見だった。
「分かっています。財政破綻する前に大陸を統一しますよ」
ウージ財務部長はいやな顔をしていた。
「他にないなら、行政調整会議を終える。各員、言うまでもなくこれからの課題はネルシイとの向き合い方だ。ウォール政権として一致団結し、この喫緊の課題と向き合ってほしい。
では解散とする」
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