第111話 それは魔法の呪文
「足元に気をつけて」
そう言って差し伸べられたニコラスの手を取り、ナタリアは馬車に乗った。
歩きで帰ると遠慮したナタリアに、ベアトリーチェがどうしてもと用意したものだ。
--- 信じて
--- あなたは幸せになっていいのよ
何度も、何度も、ナタリアの心に浸みこませるように繰り返されたベアトリーチェの言葉。
それは魔法の呪文のようだった。
感情の落とし所が分からず混乱し、罪悪感に苛まれ、自己嫌悪に陥り、自分をどうやったら罰せるのか、ずっとそればかり考えていた。
幸せなんて、人に愛されることなんて、二度と望んではいけないと思っていた。
だから、あんな風に、しかもベアトリーチェから言ってもらえるなんて予想もしていなかった。
幸せに、なっても、いい。
なっていいのだと、ベアトリーチェはナタリアを抱きしめた。
あなたは今、何も悪いことをしていない。きっとこれからもしないから、と。
「・・・」
ニコラスが口を開く。
「・・・少し、気が楽になった?」
「え?」
「表情が、柔らかくなってるよ」
「・・・」
無意識だったのか、微笑んでいたことに本人は気づいていなかったようだ。
ナタリアは不思議そうに両手を頬に当て、自分の表情を確認している。
その様子を見て、ニコラスはおかしそうに笑う。
「なんか、よく分からないけど、でも良かったね。ベアトリーチェさまはずっとナタリアさんのこと気にかけてたからなぁ」
「・・・はい」
まるで自分のことのように、そう言ってくれるニコラスに、ナタリアは嬉しさと懐かしさを感じる。
この人は、初めて会った時からそうだったのだ。
校舎裏に呼び出され、騎士訓練科の模擬戦の観戦に誘われた。それがきっかけでよく話すようになって、周囲には付き合っていると誤解する人もいたけれど、でもそんな雰囲気にはならなくて。
気安く、居心地よく、話しやすく。
ニコラスと居るのは、温かい布団に包まれているみたいに楽だった。
強く押してくることも強引に事を進めることもなく、たまに小さく好意を覗かせるくらいで。
本当に、本当に、ゆっくりと、じわじわと育ってゆく友情にも思える愛情は、もしニコラスの退学がなかったら、いつしか恋へと育っていたのだろうか。
もしあのまま、同じ学年でいられたら。
三年間、共に学園に通えていたら。
自分は、レオポルドではなく、この穏やかな人に恋をしていたのだろうか。
「・・・もうすぐだよね」
「え・・・?」
視線を窓の外に向けたまま、ニコラスが呟く。
よく聞き取れず、首を傾げたナタリアに、ニコラスが笑った。
「学園の卒業だよ。もうあと十日くらい・・・だったかな?」
「あ、はい。そうです」
「それで、新しい町にはいつ発つ予定?」
「卒業式の二日後の予定です」
「そっか。じゃあ、もうすぐだね」
頬杖をつき、顔は窓の方に向けたまま、ニコラスは呟く。
「寂しくなるな」
ぽつり、と。
でも、今度の声は、ナタリアの耳にちゃんと届いていた。
「・・・」
相変わらず、気安くて心地よいこの人は、やはり強引なことは言ってこない。
いつも、ナタリアが怯えないように、怖がらないように、どこかに逃げ道を用意して接するのだ。
だから、きっと。
今回も何も言わない。
言われない、筈。
・・・もうすぐ、会えなく、なるのに。
何度か遠回しに好意を伝えられているのに、返事が出来ないでいるのも自分。
なのに、今もまたニコラスから何か言ってくれるのを待ってしまう。
「・・・」
溜息が出そうになり、慌てて飲み込んだ。
あれから、少しずつ強くなれた気でいたけれど。
ナタリアは膝の上でキュッと手を握り込む。
それはやっぱり気のせいだったみたいだ。
視線を巡らせ、馬車の窓から景色を見やるナタリアの眼に、病院の建物が遠くに映った。
ああ、早いな。
もうすぐ病院だ。
歩きだったら、もっと。
「・・・手紙を」
静寂の中、ニコラスが口を開く。
「え?」
「手紙を、書いてもいいかな」
「手紙・・・私に?」
「うん。ナタリアさんが元気でやってるか知りたいんだ。迷惑でなければ」
「・・・」
ニコラスの優しさに、甘えていると思う。
きっと、この人の目に留まりたい女の人はたくさんいるだろう。
優しくて、穏やかで、しっかりしていて、子ども好きで。でも、きっと女の人を見る目がない。
だからずっと、自分なんかに声をかけ続けてくれるのだ。
自分なんかに・・・
--- 幸せになっていい人よ
「・・・っ」
不意に。
ベアトリーチェの言葉が脳裏に浮かぶ。
--- 大丈夫
あなたは、今、何もしていない
これからもしないわ ---
ナタリアは、膝の上で固く握っていた手を解いた。
「・・・ニコラス、さん」
「うん?」
「・・・ありがとう、ございます。嬉しい・・・です」
「・・・ナタリアさん」
何故か、ニコラスは驚いたように目を瞠る。
「あの、ニコラスさん」
ナタリアは、ベアトリーチェの言葉を胸に精いっぱい微笑んだ。
「私も・・・書きます。お手紙」
「・・・っ」
ニコラスは、軽く息を呑んで、そして。
「楽しみにしてる」
そう言って、笑った。
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