第94話 先手必勝
「あら、ナタリアちゃん、お出かけ?」
「こんにちは、ターナーさん。はい、ちょっと出かけて来ます」
「いつも頑張ってくれてるもんねぇ。たまには羽を伸ばしてくるといいよ」
ヴィヴィアンと約束した日。
裏門から出ようと病院の敷地内を移動していたナタリアに、年上のスタッフたちが声をかける。
「ここもあとひと月くらいなんでしょ? ナタリアちゃんがいなくなったら寂しくなるよ」
「立派な看護師になって戻っておいで。楽しみにしてるから」
「マルナさんもありがとうございます。あと少しの間ですけど、よろしくお願いしますね」
夏の終わりにこの病院に来てから、ナタリアはずっと穏やかな暮らしを送っていた。
生活そのものは忙しく、疲れも溜まっている。
だが、何よりも心が楽なのだ。
これまでずっと、何をしても何を言っても、最後には必ず嫌われた。
やってもいないことで、言ってもいないことで責め立てられる。
人といるのは苦痛で、いつ何処で何を言われるかが怖くて堪らなくて。
鎧のように笑顔をまとい、気にしていない振りをした。
そうしなければ、心が壊れてしまいそうだった。
でも、ここは不思議なくらい何も起こらない。
皆が親切で、駄目な時は叱られるけど、やればやった分だけ褒められて感謝されて。
それをどれだけナタリアが嬉しく思っているか、きっと周りの皆は知らないだろう。
慣れたと思っていた。
覚えのないことで嫌われるのも、嫌味や無視も、蔑みも。
けれど、やっぱり傷ついていたのだと今なら分かる。
全てが変わったのは、ここに来てから。
アレハンドロが・・・動けなくなってから。
裏門を抜けると、少し離れたところにバートランド公爵家の紋章が入った馬車が停まっている。
徒歩では大変だろうとヴィヴィアンが手配してくれたのだ。
バートランド公爵家で今日、ナタリアはレオポルドの婚約者メラニーと話をする。
一体どんな話をされるのか、ナタリアには見当もつかない。
まだ少し怖い気もする。
でも、あのヴィヴィアンの妹なら大丈夫な気もする。
心を落ち着けようと目を瞑り、振動に身を任せた。
快適な馬車で移動すること15分。
馬車は、バートランド公爵家の広大な敷地内へと入っていった。
「お待ちしていました」
老齢の執事、品のあるメイドたちが揃って頭を下げる。
この間まで、貧乏ながらも子爵令嬢ではあった。だが今の立場は平民。
頭を下げてもらってもいいものかと冷や汗が流れた。
そして、そんな礼儀正しい使用人たちの向こうに立っていたのは。
「ナタリアさん」
「ご足労ありがとうございます」
ヴィヴィアンと、そして彼女と同じ金色の髪と紫の眼を持つ小柄な少女。
ああきっとこの方が。
「メラニー・バートランドと申します」
清楚で知的な顔立ちの令嬢が、平民のナタリアに礼を取った。
「ナタリアさまとお呼びしてもよろしいでしょうか」
妹は人見知りだというヴィヴィアンの言葉はその通りなのだろう、メラニーはゆっくりと、ひとつひとつ噛みしめるように言葉を紡ぐ。
「・・・あの、私は平民ですので、呼び捨てで構いません」
「・・・」
平民という言葉に戸惑ったのか、メラニーは首を傾げて暫しの間、考える。
「・・・いえ、ナタリアさんと呼ばせていただきます。私のことは家名ではなくメラニーと」
結果、スルーすることにしたらしい。
「は、はい。メラニーさま」
こうして、多少ぎくしゃくしながらも会話は続く。
そして、約束通りヴィヴィアンも同席してくれていた。
「・・・あの」
「は、はい」
「・・・まずは、こちらをお受け取りください」
「・・・え?」
そう言って、メラニーが差し出したのは、真っ白の封筒。
「レオポルドさまが、あなた宛てに手紙をお書きになりまして」
・・・え?
驚愕するナタリアの視界の端に、戸惑うヴィヴィアンの顔が見えた。
空気がピンと張り詰める。室内にいた使用人たちの怒気かもしれない。
「あ、の・・・」
どうしよう、と考えるナタリアに、メラニーが変わらない静かな声でこう続けた。
「お読みになる前に、聞いて頂きたいのですが」
「・・・はい」
緊張するナタリアに、メラニーは告げる。
「実は、私・・・」
ナタリアはごくりと唾を飲んだ。
「・・・とても幸せなのです」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
ナタリアだけでない、ヴィヴィアンも、壁際に立つ使用人たちも、呆けた顔をした。
微妙な空気に気がついたのだろう、メラニーの視線がちらちらと周囲をうかがう。
「・・・すみません。そのお手紙をご覧になる前に、先に言っておかねばと思いまして」
「・・・はあ」
「とても恥ずかしいことが書かれておりましたので、先に言ってしまった方が気が楽かと・・・」
「・・・はあ」
「先手必勝、という言葉がありますでしょう・・・?」
「・・・はあ」
もはや、何がどうなっているのか分からないナタリアは、同じ言葉しか出てこない。
見ればヴィヴィアンも同様だ。意味が分からないという表情をしている。
「えと、その」
少し考えた後、メラニーは言葉を続けた。
「レオポルドさまは、どうしてもナタリアさんにお伝えしたいことがあったそうなのです。ですが、まず私にその手紙を見せて下さいました。疾しいところはない、私の許可なしには出したくないと仰って」
「・・・はあ」
「それで、読ませていただいたのですが・・・その、かなり、だいぶ恥ずかしくて」
「・・・はあ」
「・・・取り敢えず、読んで頂けるでしょうか」
「あ・・・はい」
促され、ナタリアはおずおずと封筒を手に取る。
入っていたのは、二枚の便箋。
「・・・」
ナタリアは手紙に視線を走らせる。そしてすぐに。
ナタリアの口元が緩く弧を描いた。
「・・・ああ、そういうことですか」
「・・・分かっていただけたでしょうか」
「はい。よく分かりました。レオ・・・ポルドさまらしいですね」
「・・・はい。私もそう思いました」
メラニーとナタリアの間でだけ会話と理解が成立し、ヴィヴィアンも使用人たちも置いてけぼりだ。
だが、あくまで立会人としての立場を忘れないヴィヴィアンは、黙って成り行きを見守っている。
一枚目の便箋の終わりまで視線を走らせ、ナタリアは嬉しそうに微笑んだ。
「・・・幸せそうで・・・良かった。ずっと・・・気になっていたんです」
その言葉に、メラニーは頷く。
「はい。ご覧の通り、幸せです・・・とっても」
ここで、ヴィヴィアン、そしてその場にいた使用人たちは、手紙に書かれている内容についての見当をつける。
「メラニー・・・」
姉は妹に視線を向けた。
メラニーは恥ずかしそうにそっぽを向く。
「・・・」
姉はその仕草の意味を知っている。
それはもちろん、使用人たちも。
では便箋に書かれていたのはやはり、と想像して、だがまたここで疑問が生まれる。
元恋人に、今の婚約者の惚気を書いて、レオポルドは一体何がしたいのか、と。
だが、その答えはすぐに出た。
ナタリアが二枚目の便箋へと視線を動かした時。
ナタリアの動きが、ピタッと止まったから。
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