第86話 私情は挟まない
ノイスからの事情聴取の協力要請に応じたナタリアは、呼ばれた先の面会室で緊張の面持ちで座っていた。
マッケイが騒ぎを起こしたのは土曜日の昼前。そして今日は日曜日の午前である。
事情聴取であればナタリアは既に経験済みだ。それも余り遠くない過去に。
アレハンドロに攫われ森の隠れ家に監禁された一件で、数回にわたり聴取に応じていたから。
もっと正確に言うならば、巻き戻り前に起こしたベアトリーチェ殺害事件でも犯人として聴取されてはいるのだが、もちろんナタリアにその記憶はない。
それは兎も角として、何か月か前の聴取の時も、主導したのはストライダム侯爵家。
にもかかわらず、今なぜナタリアが非常に緊張しているかと言うと。
理由は単純。
ベアトリーチェの父、ノイスとはこれが初対面になるからだ。
レンブラントとは数回会っている。眼差しは冷たく、突き放すような物言いはするが、その実あまり厳しすぎることは言わない。
恐らくまったく好かれてはいないだろうとナタリアも思っている。
当たり前だ、自分は彼の妹を消えた過去で殺したそうなのだから。
けれどそれでも、まだその事実を知る前にレンブラントに会った事がある、それだけでナタリアの気持ちは少しばかり落ち着いたのに。
ベアトリーチェの父親は、一体どんな人なのだろうか。
ナタリアは、緊張のあまりスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
父親も巻き戻りについて知っているのだろうか。だとしたら、自分にどんな感情を持っているだろう。
そんな事をぐるぐると考えて。
ーーー 予想をあっさりと覆す満面の笑顔でノイスは現れた。
息子レンブラントとマッケイを取り押さえた騎士ニコラスを伴って現れたノイス・ストライダム侯爵は、笑顔で口を開く。
「大事になる前にあの男を抑えられたのは君のお陰だ。
下手をするとレジェス商会そのものに価値が無くなるところだった。ありがとう」
と礼を言う。
「あの男にはいつも監視を付けていたのだけれどね、隙を見てトイレの窓から抜け出したらしい。管理体制を見直さねばならないと反省しているところだ」
「そ、そうなんですか」
顔の造作はベアトリーチェよりもレンブラントに似ているだろうか。
けれど纏う空気はレンブラントのそれよりも遥かに柔らかい。
怖い人じゃない・・・かもしれない。
そう思い、少しだけ肩の強張りが取れた。
「商会は評判が命だからねぇ。名前だけとは言え会頭とされている男が実の息子を刺し殺したなんて、実際に起きてたら商会そのものが潰れてもおかしくない。
いやぁ、握り潰せる程度の騒ぎで済んで良かったよ」
「そ、それは、良かったです」
時折り不穏な言葉が交じっている気もするが、あいにくナタリアは一度に二つのことが出来るような器用なタイプではない。
先程までの極度の緊張は取れたものの、余計な考え事をする余裕はなかった。
「ああそうだ」
優雅に足を組み直しながら、ノイスは続ける。
「君は、どうしてあんなに早くマッケイを追いかけられたんだい? あの男の姿をどこかで見かけたのかな」
これが聴取したい内容なのだろう。
そう判断したナタリアは、弟と中庭にいたこと、職員しか使わない裏の通用門から入って来るマッケイを見かけたこと、様子を不審に思ったこと、そしてマッケイはアレハンドロを見舞うような仲ではなかったこと等をあげた。
「そうか、なるほどね。そういう理由か」
ニコニコと頷くノイスの隣で黙って座るレンブラントは、なぜか呆れたような目つきでノイスを見ている。
「まあ、君には大きな恩が出来た。礼をしたいのだが、何がいいかな」
「え?」
「なんでもいいよ。なにせ、この先もずっと我が侯爵家の潤沢な資金源となるであろう商会を守ってくれた恩人だからね」
「いえ、そんな、私は別に」
「そう言わずに。君に
終始笑みを浮かべて穏やかに話す侯爵にすっかり緊張が取れた所までは良かったが、ナタリアとしては報酬目当てで助けに行った訳でもなく、やはり断らせてもらおうと、もう一度口を開きかけた時。
ノイスの目が、すっと細まる。
「遠慮することはない。私はあの男と違って、判断に
「え?」
レンブラントが溜息を吐いた。
ニコラスはきょとんとしている。
ええと、今の言い方は、つまり。
言われた言葉の意味を考え、はた、とナタリアは気づく。
借りは作りたくない、それから。
判断に私情を挟まない、それはつまり。
私情は別にあるという事で、きっとその意味は。
「・・・っ」
完全に緩んでいた緊張が、一気に全身を凍りつかせる。
知っている。
この人も、知っているのだ。
知っていて、それでも今回のことでは自分に礼を言って、感謝の品も渡すつもりで。
「・・・父上。ひとこと余計です。怖がらせてどうするんですか」
冷静な声が耳に入り、はっと息を吐く。
事情を知らないニコラスは、まだ訝しげな表情のままだが、レンブラントは父の言葉に滲む意味に思い当たったのだろう。
既視感のある冷たい眼差しが、今回は父親に向けられていた。
「そうか? いや脅かすつもりはなかったんだが」
そう言ったノイスは、褒美を与えたいのは本心だと続ける。
正直、レオポルドからの援助の申し出で今のところ不自由はしていない。
だけど、これは何と答えるのが正解なのか。
深く考えることに慣れていないナタリアは、もういっぱいいっぱいだ。
「今すぐには思いつかないかな? まあ後からでもいいからゆっくり考えておきなさい。
その言葉で一旦話はまとまったとして、ナタリアは席を立つ。
そこにレンブラントがスッと近づいた。
「・・・父上は俺より腹黒だが、今回のことを感謝してるのは本当だから」
気にせず軽い気持ちで受け取れと耳打ちされた。
どちらにしろナタリアには頷くという選択肢しかない。
アレを言ったのは絶対にわざとだろうけど、という呟きまでも拾ってしまったが、ナタリアが処世術で身につけた気づかない振りがここで非常に役に立った。
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