第71話 その目に映るのは自分ではなく、また妹でもなく
病室の扉が開く。
そこから覗いた顔に、ベッドの住人は顔を輝かせた。
「ミルッヒ」
その名前に苦笑しつつ、ナタリアはアレハンドロのベッド横にある小さなテーブルに食事を乗せたトレーを置く。
「アレハンドロ。お昼の時間よ」
「ミルッヒ、やっときた。ぼくずっとまってたんだよ」
「ごめんね。でもやる事がいっぱいあるの。ずっとここに居るわけにはいかないのよ」
「・・・もういっちゃうのか?」
「え、と」
しゅん、とされれば、ナタリアも直ぐに帰るとは言いにくい。
「・・・じゃあ、食べ終わるまでここで見てるわ」
「ほんと?」
「ええ」
十八歳のそれなりにしっかりした体躯の男が舌足らずの言葉で懸命に話す姿は、どこをどう見てもアンバランスだ。
アレハンドロ自身は納得しているのか、それともそこには意識が向かないのか。
自分が大人の体格をしていること、妹と信じている目の前の女性が他人であること、今やアレハンドロにとっては見知らぬ人となったザカライアスが時々やって来ては必要なものを用立てていること、父や母の姿が一切見えないことなど、それらは全て瑣末な事らしい。
ただ、どうして
アレハンドロは時折り、思い出した様に『なんでおにいちゃんってよばないんだよ』などと聞いてくる。
ナタリアは、その時はアレハンドロに合わせてお兄ちゃんと呼んであげるのだが、次の時にはまた名前呼びに戻る、そんな感じだ。
会話が成立するからなのか、はたまた今のアレハンドロと過去のアレハンドロとは違っているからなのか、『ミルッヒ』と信じるナタリアが目の前にいても、アレハンドロの行動は昔と違う。
虐めることも罵ることも、馬鹿にすることもない。
ただただ嬉しそうに、懐かしそうに、そして愛おしそうにその名を呼ぶ。側にいて欲しいと強請る。それだけだ。
でも、ただそれだけのことがナタリアを面はゆくさせ、同時に哀しくもさせる。
今のアレハンドロの感情が向けられる先にいるのは自分ではあるが、純粋に自分一人ではない。
そして、それはきっと
自分は、いつからミルッヒの姿を重ねられていたのだろうとナタリアは思う。
少なくとも自分が覚えている限り、ナタリアはアレハンドロから妹の話を聞いたことがない。
あの橋の上、川に落ちる直前に、追いかけて来た男性とアレハンドロとの言い合いで、その名が出てきたあの瞬間までは。
そんな事を考えながらアレハンドロを見れば、彼はスープを飲んでいる最中だった。
所作は、やっぱり記憶を失くす前のアレハンドロのまま、洗練された大人のもので。
彼の事で奇妙なのは、アンバランスに映るのは、やはり六歳のある時までしか覚えていないという記憶にあって。
だけど、それもまたナタリアを戸惑わせる要因なのだ。
だって、六歳と言えばナタリアとアレハンドロが出会った年齢でもある。
記憶にあるアレハンドロは、こんなあどけない印象の男の子ではなかった。
大人びていて、偉そうな言葉遣いで、ちょっと乱暴で、でも優しいところもあって、もの凄く自信家で。
それが、ナタリアの知るアレハンドロだ。
昔も今も、出会った時からずっと。
「ねえ、ミルッヒ」
そんなアレハンドロは、フォークで野菜をつつきながら伺う様な視線でナタリアに声をかける。
「あとでぼくとあそべる?」
「何かしたい事でもあるの?」
他の看護師の世話も甘んじて受けてはいるが、アレハンドロは可能な時はナタリアに来てもらいたがる。
それはどこか、姉か母に甘えるかのようで。
家に置いて来てしまった幼い弟を思い出してしまうくらいには可愛らしい。
だから、ナタリアは腑に落ちないのだ。
あの頃のアレハンドロは、こんなに無邪気に笑う子どもではなかった。
こんなに素直に自分の願いを口にする人でもなかった。
たったの六歳。
あの時、ナタリアと出会ったアレハンドロは、正真正銘、心も身体も六歳の子どもだった筈なのに。
暗い目をしていた。
その眼に何も映していなかった。
初めて会った時は、その眼を怖いと思うと同時に、仲間のように感じて、どこか惹かれて。
この男の子なら、自分の中にある感情を理解してくれるかもしれない、そう思ったのだ。
誰にも求められていないという、この絶望を。
「う~ん」
何がしたいのかと問われたアレハンドロは首を傾げる。
「くるまいすで、そとにでたいな」
「お散歩ね。それくらいなら時間が取れると思うわ」
「ほんとう? やった!」
「でもね、今から患者さんたちの食べた食器を片付けなくちゃいけないの。洗い物を手伝って、それがひと段落ついたら、ここに来るから」
「わかった」
アレハンドロは子供の様な言葉遣いになっていても、ナタリアはごく普通に返事をする。
幼児に対する言葉ではなく、かつてのアレハンドロに対して話していた、そのままの口調で。
でも、やはりアレハンドロはそのことも気にしない。ただアレハンドロの幼い話し方だけが奇妙に浮く会話が、そうしてここに成立している。
「じゃあ、ミルッヒ。ようじがおわったら、ここにきてね」
「分かったわ」
そうして、食事を終えたアレハンドロの食器を持って下がると、ナタリアは他の病室も回って汚れた皿を回収していく。
今日は土曜日で、朝から病院の手伝いをする日。
一日中お手伝いをする代わり、夕方以降に自由な時間を持てるのだ。
時は既に十の月に入り、秋が深まりつつあった。
あと五か月もすれば卒業だ。
ライナルファ家からの援助によって無事に学園を卒業出来そうだが、その後についてはまだ悩んでいた。
レオポルドの好意で与えられたただ一度のチャンスだ。簡単に決めることは出来なかった。
貴族籍を抜いてオルセンの両親との縁を切る手続きは、多少あちらと揉めながらも進んでいる。
それが無事に終わればナタリアは平民になる。
今さら貴族社会に未練はないが、漠然と込み上げる不安だけは、どう取り繕ってもないとは言えなかった。
それから、約束通りにアレハンドロを車椅子に乗せて外に連れ出し、秋の爽やかな空気に少し気分が晴れたと思った時。
予想外の訪問客の知らせがあった。
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