第三話『自覚』
ホテルの部屋でベッドに入り数時間が経過した。悠人は眠れずにいた。考え事をしていたからだ。そのまま考え事に集中しようと頭を切り替えたが、同室の洋一の寝言があまりにも五月蝿いため中々集中できずにいる。洋一の寝言は一度静かになったかと思えばまた何かを話し出すのを繰り返しており一向に鎮まりそうにない。洋一と同室で寝るのは今回が初めてではなかったので分かってはいたのだが、今回に限っては非常に迷惑をしていた。
悠人は布団から出ると机に置かれた部屋の鍵を手に取りそのままの足でホテルの部屋を出た。
このホテルには中庭があると説明を受けており、二十四時間開放されているのをバスガイドがアナウンスしていたのを覚えていた。エレベーターで一階まで降りると降りたすぐ先のところに中庭への扉を見つける。悠人は扉の取手を掴むとギィ…という音と共に大きな扉が開いた。
悠人が睡眠時間を削ってでも考えたかった事は菜乃葉の事だった。正確に言えば菜乃葉への気持ちだ。悠人は菜乃葉に惹かれている自分に戸惑っている。面倒臭くてやたらと年上ぶりたがる変な女。それなのに彼女と接する度に悠人の気持ちは菜乃葉を中心に動かされている感覚になる。そして不思議と嫌な感覚ではなかった。一時の感情ではなく、菜乃葉が好きなのだろう。
だが、悠人は簡単に人を好きになる事はしたくなかった。というより人を好きになる事は一生なくて良いと思って生きてきたのだ。父親に不倫相手の存在がいる事を知った日から。両親の喧嘩が絶えなくなってきた時から。父親の所為で母親が自殺をした瞬間から。その度に何度も悠人は決意していた。自分が人を好きになる事は一生ないと。未だに父親の不倫を知った時の母親の姿が忘れられない。悠人は人を好きになるのが怖かった。その為、悠人はこの気持ちを受け入れていいのかどうか葛藤していた。
その時ギィ…という先程聞いた扉の開く音が聞こえた。こんな真夜中に人が来るとは思えなかったのだが誰だろうと悠人は扉の方へ顔を向けてみる。暗闇でよく見えないが、近付いてきた人物はまさかの菜乃葉であった。「え」という言葉と共に驚きを隠さない菜乃葉はすぐさま悠人に声を発した。
「な、何で悠人くんが!?」
「…オレの台詞でもあるんだけど」
夜中だよ!?と言いながら驚く菜乃葉に自分も来ているではないかとヤジを飛ばしたい気持ちもあったが悠人はあくまで冷静に菜乃葉へ言葉を返す。しかし本当に何の用なのだろう。
「あたしはなんか眠れなくてさー。ちょっとでも植物に癒されたくて来たの」
悠人は梅宮菜乃葉という人物を理解していたつもりだが、本当に庭バカだと改めて感じた。そして心の中で感じた事を悠人はそのまま口に出した。
「ふーん。だからって真夜中に植物見に来るとかイカれてるね」
普通来る?と付け加えてやると菜乃葉は眉根を吊り上げて「なっ」と声を荒げると「悠人くんだって来てるじゃない!」と抗議の声を上げた。一緒にしないでほしい。悠人は目を伏せながら菜乃葉へ素っ気ない返答をする。
「来てるけどアンタと一緒にしないで」
そう言うと菜乃葉は目を細めて悠人を睨みつけるように「カワイクない子っ!!」と文句を垂れる。別に可愛くなくて良い。
「あっそうだ!」
かと思えば急に菜乃葉はハッとした表情へ変化し突然悠人へ別の話題を振ってきた。本当に不思議な女だ。振り回されてとても面倒なのだがやはり彼女自身を拒絶する気にはならなかった。
「悠人くん一つ聞きたい事があるんだけど」
そう言えばまだ菜乃葉に言った事はなかったと思い悠人はとある告白をする。
「オレ、質問は嫌いなんだけど。」
そう告げると菜乃葉は目を見開き驚いた表情を見せる。「なっ…!!」と声を上げそのまま静止した。しかし菜乃葉が聞きたい事が何なのか気になってきた悠人はこう答えた。
「まあでもいいよ。何?」
すると菜乃葉は固まっていた表情を動かし口を開いた。
「…何であたしが岸くん好きだって分かったの!?」
何だそんなことか。悠人は少し落胆した。本人としては隠しているつもりなのだろうか。そんな事を頭に浮かべながら悠人は表情を崩さず答える。
「分かりやすかったから」
答えに驚いたのか菜乃葉は再び目を見開き「えっ!?」と大きな声を上げた。その声が中庭に響き渡る。
悠人は無意識に「それと…」と言いかけ一旦言葉を止める。
―――――オレが無意識にアンタを見てたから
そう言おうとしていた自分に気が付き悠人は認めざるを得なかった。そもそも認める認めないの問題ではなかった。認めずとも彼女を好きな自分が既に生まれており、悠人は紛れもなくこの目の前にいる菜乃葉に恋心を抱いている。悠人はようやく自分の気持ちを理解しその気持ちを受け入れた。
「それと……?」
菜乃葉は続きを待つようにじっと悠人を見つめている。表情はいつになく真剣だ。しかし悠人はそれを口にする事は止めた。
「…いや、分かりやすすぎただけ。」
気持ちがはっきりした今、悠人は心が軽くなっていた。受け入れる事がこんなに気持ちの良い事だとは思ってもいなかった。悠人は自然と口元が緩み目を閉じながら菜乃葉へ言葉を続ける。
「初めて見抜かれたのがオレで焦ってんのかもしれないけど、おねーさんは警戒心なさそうだもんね。そりゃバレるよ」
そう口にすると菜乃葉はムスッとした表情をして上目遣いで悠人を睨みつけてきた。その様子は、気持ちに気付いた悠人からは可愛らしく感じられた。菜乃葉は「ふーんそう」と小声で呟きながら「あたしもう行くから」と悠人に背を向けようとする。小声なのは変わらず「教えてくれてありがと」と不服そうに感謝してくる菜乃葉が、普段大人ぶる人間にしてはやけに子どもじみておりそれが何だか可笑しかった。
悠人は菜乃葉が立ち去るのを静かに見送ろうとしていると菜乃葉は何故か足を滑らせ身体のバランスを崩し始める。悠人は咄嗟に手を伸ばし菜乃葉の身体が地面に叩きつけられるのを防ごうとする。結果、菜乃葉の身体を転ばせずに受け止める事は叶わず二人で地面に尻餅を着く形となった。しかし菜乃葉の頭部を守る事は出来たので悠人は心の底から安堵する。
「いたた……」
「…何してんのおねーさん」
安堵したせいか無意識に言葉を発していた。
そして同時に菜乃葉との距離がいつも以上に近い事を認識する。右手は菜乃葉の二の腕を支え、悠人の身体には菜乃葉の身体がもたれかかっている。悠人は顔にこそ出さないが、内心動悸が激しいのを感じていた。
菜乃葉もその状況を理解したのか背後にいる悠人を見てハッとした表情をすると直ぐに飛び起き「ご、ごめんっ!!!」と悠人に謝罪する。
「てゆか、ありがとねっ!!」
もしかしなくても動揺している菜乃葉の顔はみるみる頬を染め菜乃葉は自身の口元を手で覆って唸っていた。
悠人同様、先程の近すぎる距離に困惑しているのだろう。しかし菜乃葉の挙動不審ぶりを見ていると何故だか冷静になってきた悠人は少し呆れた様子で言葉を投げる。
「顔、赤いけど?」
自分の気持ちに気付いたとはいえ、菜乃葉が悠人を異性として好いているとは全く思っていない。なので菜乃葉が先程の接触で顔を赤らめたのは嬉しいと同時に複雑でもあった。それは他でもなく、期待してしまうからである。
「しょうがないでしょ!? 免疫がないの!! あたし男の子になら皆誰でもこうなっちゃうし」
「言わせないでよ!」とまだ紅潮している菜乃葉は右手でブンブン手を振って悠人に返答する。
菜乃葉がこういった事に免疫がないというのは何となく分かっていた。しかしそれを本人の口から聞いて悠人は心のどこかで嬉しく感じていた。
「ふーん」
自分の気持ちを隠すようにいつもと同じく感情を表に出さず声を発する。
「でももし今のがあいつだったら良かったんじゃないの?」
あいつとは岸の事である。何故こんな事を口に出したのかはよく分からない。否定してほしかったのかもしれない。
「そりゃ、そうでしょ」
まだ少し赤らめた顔を見せる菜乃葉はそれでも当然というような顔をして悠人を見る。しかしその後すぐに諦めたような表情を見せると手をひらひらとさせながら言葉を出した。
「でも世の中そんな上手くいかないし、たまたま好きな人とこんなラッキーシチュエーションなんて少女漫画みたいな展開あるわけないでしょ」
確かに的を得た発言ではある。あるのだが、悠人はそうではなかった。まさにたった今、そんな展開が起こったのだから同調する気にはならない。
「そうかな」
「え!? もしかして悠人くんそういう事あったとか!?」
悠人の発言に驚く菜乃葉は食い付くように悠人に近付いてくる。興味津々といった様子に悠人は複雑な気持ちになる。
――――――アンタの事なんだけど
「言うわけないじゃん」
悠人は右手を首に当て菜乃葉を見やる。菜乃葉の好奇心旺盛な質問は嫌いなはずなのだが、この時の気持ちはいつもの嫌悪とは違った。ただ好きな人が自分の恋路を他者目線で気にしているのが気に食わなかったのだ。
悠人の生意気な態度に菜乃葉は明らかに苛立った顔を見せ、そっぽを向くと予想していない言葉を切ってくる。
「なによ! まだその年で一体何人の女の子をたぶらかしてきたのよ!? やっぱりマセガキね!!」
この発言には悠人も苛立ちを隠せなかった。自分が父親のように女をたぶらかす訳がないだろうと確信があるからだ。そして何より、その台詞を想い人の菜乃葉に言われたくなかった。
「じゃーそういうことでいいよ。オレもう寝るからアンタも早く戻れば」
悠人は仏頂面を隠さず菜乃葉の横を通り過ぎると最後に振り返り「バーカ」と暴言を残してその場を立ち去る。背後からは「なっちょっとなんなのよ!?」と抗議の声が聞こえてくるが無視する。悠人は中庭のドアを閉めると真っ直ぐ部屋へと戻り眠りについた。
悠人は菜乃葉に気持ちを伝えようとは考えていない。それは菜乃葉に岸という想い人がいるからだ。独占したいという思いがないといえば嘘になる。だが、自分が菜乃葉に一方的な好意を示した所で菜乃葉にとってそれは良いことなのだろうか。少なくとも今現在、岸に片想いしてる菜乃葉の心を掴む自信はなかった。それに菜乃葉が幸せである事が一番だという気持ちも強かった。
悠人は自分が初めて人を好きになった事を受け入れてからある決意をしていた。それは、初恋の相手――菜乃葉を生涯思い続ける事だ。父親のような中途半端な事は絶対にしない。悠人は菜乃葉を見守る事を心に決めていた。たとえ菜乃葉が振り向いてくれなくても悠人の気持ちが変わる事はない。それを悠人は理想としてではなく確実なものとして確信していた。
しかし気持ちに気付いたからといって菜乃葉への態度を改めるつもりはない。菜乃葉に変に思われると厄介なのと悠人自身、菜乃葉との関係性に不満がないからだ。ただ菜乃葉にはこれまで通り庭で楽しく過ごしてもらいたい。それを見ているだけで悠人は充分だった。
昨夜はあのような別れ方をしたものの、そんな事で来なくなる菜乃葉ではないだろう。悠人はキャンプ合宿の最終日に菜乃葉が庭に来るのではないかと内心期待していた。
「悠人ー! 楽しかったな! この後はどうすんだ?」
観光バスから勢いよく降りてきた洋一は楽しそうに悠人へ尋ねてくる。洋一の事だからこの後遊ばないかと誘おうとしているのだろう。それも悪くはないが、悠人には他に優先したい事があった。
「寄るとこあるから帰る」
そう告げると洋一はいつもの様に笑顔を崩さず「おうそうか! じゃあまたな!」と明るい調子で返すとまた連絡するなー!と言う声とともに悠人とは逆方面へ歩いて行った。
洋一の姿を少し見送ってから悠人は足早に自宅へ戻る。心情的には直ぐにでも庭のある城へ向かいたい所だが、荷物が邪魔であるのと菜乃葉より先に庭に行くのは嫌だったからである。菜乃葉は悠人の事情を知らない為、悠人が庭に来るのは植物が好きだからと思っているだろう。だが悠人自身が庭に来る理由はそうではなかった。最初こそ庭の訪問者を確認する為だったが、今はただ菜乃葉が来るからというそれだけの理由だった。
植物に興味があるのは否定出来ないが、そもそもこの庭に悠人が来ている理由自体が城の住人だったからだ。決して植物が好きだからという純粋な理由ではない。その意味では、悠人を同じ植物仲間と認識している菜乃葉に多少の罪悪感は持っていた。菜乃葉は悠人を自分と同類だと思っているからだ。
――――――そろそろ言うべきだよな
悠人は次第に菜乃葉へこの城の話をしたいと思う様になっていた。前からそのつもりではいたが、今すぐにでも伝えたいと思う理由はやはり罪悪感を拭いたいという気持ちと、何より無条件で庭を好いてくれている菜乃葉に誠意を示したかったのだ。
第三話『自覚』終
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