【三章】
一
森の中の館、シェルヴァーブルグは、デュンヴァルト領の中心にあり、ロフォーオゥがおもに秋の間を過ごす館だ。
夏の後半にこの館に入り、近隣の村などの視察や中型動物の狩猟、大森林リグールの手入れなどをしながら、秋の日々をゆったり満喫するのが常らしい。
その期間はちょうど、綾の審判の日までの時間と重なっていた。
ロフォーオゥが言うには、王が辺縁の姫君の血を吸わずに生きていられるのは、65日、約2ヵ月。
この2ヵ月を堪え忍べば、綾は解放される。
最後に血を吸われたあのとき、リァーカムはこれまでにないほど容赦なく血を吸いとっていった。血を吸われると数日はぐったりと力が入らなかったが、今回ばかりは10日以上も動くことができなかった。
そんな綾を、リュデュはかいがいしく世話してくれた。
リュデュは最初、綾がどんないきさつで館に保護されたかを知らされなかったから、ロフォーオゥの懸想相手かと思ったと言う。すぐに綾は否定したが、それなりに年齢のいったロフォーオゥが独身であることに驚いた。
一緒にするなと言われるだろうが、高校の担任も43歳で独身だった。
しかし、担任もからかわれた際言っていたが、結婚というのは年齢や見た目だけの問題だけではないらしい。ロフォーオゥは立場上結婚が難しいのかもしれない。
(領主さまだから、きっといろいろプレッシャーもあるんだろうな。あ、でも、領主さまだからこそ結婚しなきゃいけないんじゃないのかな)
そんなどうでもいいことをつらつら思いながら、綾は寝台に横になって身体を休める日々を送っていた。
身体に力が戻って歩けるようになると、夕食はロフォーオゥとともにとるようになった。
たったふたりだけの夕食は緊張しないでもなかったが、ロフォーオゥは気さくで、2本の牙を持つアーブという野生動物との奮闘など一日の出来事を面白おかしく話してくれた。
そんな中、綾は訊いてみたのだった。
高い空から落ちたのに、どうして自分は助かったのか、と。
ニリーネが多少なりとも効力を残していたこともあったのだろうが、
「きっと、ラディッカと遭遇したのが良かったんだろうな」
そう分析するロフォーオゥ。
「良かった、なんですか?」
ラディッカはひとを襲う種であると、彼から教えてもらっている。
「アヤの……首からの血になにかの力があったのか、アヤ自身が力を秘めていたのかは判らないけど、ラディッカは獲物ではなく守らねばならないものとして、アヤを認識したんだと思う」
あの雲の中で見た金色の目。咆哮と衝撃。あれは、自分を守ってくれるものだったのか。恐ろしいと思ったのが誤解だったとすれば、少しだけ、申し訳ないと感じた。
「本来ラディッカは北に生息する種だ。それがこちらにまで南下してアヤを連れてきたわけだから、なにかの意図を探りたくもなるな」
「神さまの意図、ですか?」
「さあ。そこまではね」
ほのかに笑みを浮かべて真意を濁し、ロフォーオゥは食事を続ける。
リュデュなど一部の者は綾の素性を知ってはいるが、対外的にはロフォーオゥの〝個人的な〟客人となっているため、彼の口調は砕けたものになっている。年上の男性から敬語を使われるのはくすぐったかったから、この措置はありがたかった。
一日のうちで、一番緊張するのは朝だった。
毎朝目が覚めるたび、自分の中にリァーカムを欲する感覚がないかを探るのが、自然に身についた日課となった。真実を暴くその作業は自分を裸にしてゆくようで、まるで最後の審判を待つ罪人になった気すらする。
起床時になにも感じなかったとしても、ふとしたとき、リァーカムを求めていやしないか不安に押し潰されそうになる。
絆への恐怖は、簡単には消えない。
リァーカムと自分を繋ぐ絆など、いますぐにでも消えてしまって欲しい。
この血が、リァーカムを求めるのだろうか。
この血で、リァーカムと繋がってしまったのか。
皮膚の下を透かす血管を流れている血。なんの変哲もないただの血液なのに。
―――不思議でならない。
自分の血がこの国に王を生み、100年の間生かし、ひとを襲うというラディッカにも影響を与えていたかもしれないだなんて。
血液は、血漿と赤血球と白血球、血小板からなると習った。そのどこに、これほどまで影響のあるものが潜んでいるのだろう。鉄分? タンパク質?
「大丈夫か?」
中庭へと降りる扉の前で足を止めていた綾に、背中から声がかかる。小さく振り仰ぐと、ロフォーオゥが気遣わしげな色を眼差しにのせ、こちらを見つめていた。
「あ。はい。―――大丈夫です」
「無理してるんじゃないのか? 足がすくむほど怖いのなら、やめるか?」
「いいえ。大丈夫です」
今日、この日。
綾はシェルヴァーブルグに来て、初めて屋外へと足を踏み出す。
この館はリグール内にあるとはいえ、比較的木々の少ない開けた場所に建てられている。装甲機竜を使うリァーカムなら、空から簡単に見つけられてしまう。夏の終わりの陽光に輝く外界が気にはなりつつも、だから無防備な屋外に出る勇気と覚悟はなかなか出てこなかった。
きっかけは、ほんの些細なことだ。
昨日の夕食時、肉料理の付け合わせに、アルジェーブジャムというものがあった。赤い小さな実の残るそれはほどよい酸味があり、口に含むとすぐにとろけて美味しかった。ロフォーオゥに美味しさと触感を何気なく伝えると、ちょうどいまがアルジェーブの収穫時期だから、森に採りに行ってみてはどうかと提案された。
「でも、リァーカムさんに見つかったら」
2ヵ月の間、なんとしてもあの男から逃げねばならないのだ。屋根のない屋外に出るのは、怖い。
綾の不安に、ロフォーオゥは「そのことだけど」と前置きし、まっすぐに見つめてきた。
「見つかるかどうかは、
「隠れても、意味がないと?」
「主の御心は、おれには判らない。だから絶対に大丈夫だとは言いきれないけど、ずっと地下室に押し込められてたんだろう? ここでもそんな暮らしをしなくてもいいんじゃないか?」
「あ……」
思いもしなかった。
「もし戻ることになっても、ここでの暮らしはきっと、いい思い出になるだろ?」
「……、そんな、後ろ向きなこと言わないでください」
「はは、そうだな。で、どうする? 明日、アルジェーブを摘みに行ってみるか?」
「ロフォーオゥさんも、行くんですか?」
「ああ。さすがにアヤをひとりにはさせられないし」
「あの、でも、他にお仕事があるなら」
「明日でなければならない用事はないから大丈夫」
本当は、ロフォーオゥといるのはまだ少し抵抗がある。リュデュとは普通に接することができるのに、次期国王と知らされたからだろうか、距離を置きたいと気持ちは訴える。
けれど、
(もしリァーカムさんから逃げきれたら、ロフォーオゥさんが王さまになるわけだから、仲良くしておかなきゃいけないんだし)
彼の機嫌を損ねては、また暴力を振るわれることになるかもしれない。
そう考えた自分に、どうしてだか、胸の底に穴が開いてしまったような気がした。
そこから大切ななにかが流れ落ちてゆく。その、小さな引きつれるような痛みから目をそらし、綾は沈黙が不自然に思われないうちに一緒にアルジェーブ摘みに行くことに同意したのだった。
「―――大丈夫です」
綾はもう一度そう言い、扉の前で止まっていた足に力をこめる。意思の力で、扉の取っ手に手をかけた。
「なにかあればおれに言え。怖くなったら上着で隠して、一目散にここに逃げ込んでやるから」
扉を開ける直前、そうロフォーオゥは勇気づけてくれた。
「はい」
不思議なほど、彼の言葉は胸に解け込んだ。
扉を開くと、爽やかに澄んだ風が頬を撫ぜた。
広い芝生とそれを囲む石を積んだ背の高い塀。その向こう側にある森の木々。陽光は眩しく、濃厚だった。
外の世界は、どうしてだか希望を湧き起こさせる。
無意識に、深呼吸をしていた。
綾がシェルヴァーブルグに来て半月ほどになっていた。
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