二
誰かと言葉を交わしたような気がする。
そんな思いに、ふと綾は目を覚ました。
知らない天井だった。地下牢の石の天井ではないから、まだ外国を周遊している最中なのか。
そんな思考に突然差し込まれる峻烈な光景。
視界いっぱいの大森林。首筋にかぶりつくリァーカム。真っ白な闇の中、迫る金色の目。
「―――!」
飛び起きたその息は荒い。
(わたし……?)
寝台の上に彼女はいた。枕元には小さな卓があり、右手には窓。引かれたカーテンの隙間から、眩しい光が漏れている。足元の先には扉。その横に机と椅子が置かれている。
静かな部屋だった。
首をめぐらすと、頭側の壁にも扉があった。
(わたし、生きてる……?)
身体に手をやって、確かな感触を確認する。死んで幽霊になったわけではなさそうだ。
助かったのだ―――また。あの高さからあの勢いで落ちたのに。どうやら不気味な金の目にも、食べられずに済んだらしい。
だが、ここもどう見ても日本ではない。ベッドから落ちて夢から覚めるはずの、自分の部屋でもなかった。
誰かと、話をした気がする。
ここは、その誰かの家なのだろうか。それとも、リァーカムの別荘かなにかか。
ぞくりとした。
本当に、逃げられたのだろうか。
いてもたってもいられず寝台から降りた―――のだが、足に力が入らず、そのまま床に崩れてしまう。それでも、リァーカムから逃げなければという思いに突き動かされ、這って扉へと向かう。
一番近くにあった扉を力を込めて開けると、そこには浴槽があった。用を足すための椅子や壺なども置いてあった。窓はあったが小さすぎて通り抜けられそうもない。それ以外の逃げ道はない。
落胆と重たい身体を引きずるようにして、もうひとつの扉へと向きを変えたときだった。
目を瞠るひとりの女性がそこにいた。薄い金の髪と緑色の瞳。知らないひとだ。
彼女は血相を変えて綾に駆け寄ってきた。
「お怪我はございませんか? さ、こちらに」
寝台から落ちたと考えたのだろう。女性は綾の身体を支え、寝台へと導く。ずり落ちた上掛けに足を取られないよう、慎重に寝台に戻される。
彼女は綾よりもずっと年上に見える。敵なのか、味方なのか。
身を固くして相手の出方を窺っていると、彼女は優しく尋ねてきた。
「お加減はいかがです? 空腹ではございませんか? よろしければなにか軽いものを持ってまいります」
悪意のある言い方ではなかった。突き放す口調でもない。ゆっくりと綾の様子を窺いながら穏やかに尋ねてくる。
敵では、ないかもしれない。
「あの」
思いきって綾は訊く。声は少し掠れていた。
「ここは、どこなんですか」
「シェルヴァーブルグです。お
「お館さま……誰、なんですか」
おや、という顔をしながらも、彼女は答えてくれた。
「デュンヴァルト辺境伯、ロフォーオゥ・エゼィルクさまでいらっしゃいます」
(全然……知らない単語だ……)
「お目覚めになったらお会いしたいとおっしゃっておいででしたので、あとでお呼びいたしますね」
そう笑みを残して、女性はしずしずと部屋を退出していった。
ロフォーオゥ・……なんとか。全部は聞き取れなかった。
誰なのだろう。聞き覚えのない名前だ。リァーカムの関係者ではないのかもしれないが、綾が知らないだけで手先かもしれない。
そこまで考えて、ふと恐ろしいことを思う。
また自分は、別の世界へと放り込まれたのでは?
空を落ちたらヴェーレェンという国だった。また空を落ちたのだから、違う世界に来てしまったのかもしれない。
ありえないことではない。一度あったことが二度起こらないとは言い切れない。
(どうして……)
たまらず、上掛けに顔を埋めた。
数学で赤点を取って、追試でいつもよりも早く家を出ただけたのに。それのどこに、こんな仕打ちを受けなければならない理由がある?
どうしてこんなことに。
数学?
数学が、人生のすべてを決めてしまうのか。
数学の赤点は、こんな酷い罰を受けなければならないほどに許されないことなのか。
だったら、もっと早くそう教えて欲しかった。
空から落ちて、血を吸われて蹴られて殴られるぞと。だから絶対に赤点は取るなと。
今度はどんなひどい目に遭うのか。
この世界でもまた、非道な仕打ちを受けるのか。
―――逃げなければ。
あの窓から、逃げだせはしないか。
さきほどの女性がカーテンを開けてくれたので、窓の向こうが望めた。少し向こうに、生い茂る木々の枝が重なり合っているのが見える。上空から見た大きな森だろうか?
ここは2階か3階あたりの部屋だろう。塔のような高い場所から見下ろしているでも、地下室の天井から仰ぎ見ているようでもない。
逃げだせないほどの高さではないはずだ。
もう一度、寝台から降りた。
身体は沈むほどに重たい。
膝はついたものの、今度は倒れないよう懸命に身体を支えた。カーテンを摑み、窓枠に手をかけ、身を起こす。
が、手が滑ってバランスが崩れた。
「あッ」
どたんという強い音をたて見事に転んだ。肘をついて身体を持ち上げようとしたが、力は全身から流れてゆき、柔らかな淡い痺れを返すばかり。
―――泣けてきた。
リァーカムに監禁されて何年も経った。涙など、とうに涸れたと思っていたのに。
「ううぅ」
帰りたかった。めちゃくちゃに引き裂かれそうなほど、帰りたかった。
「大丈夫でいらっしゃいますか!?」
倒れた音に気付いたのか、さきほどの女性が慌てて駆け寄ってきた。いたわるように、身体をそっと抱き起こしてくれた。
「ううぅぅ……ッ」
いったん涙がこぼれてしまうと、止めることができなかった。
背中に、温かな手が触れた。その、あまりにも遠い記憶になってしまったぬくもりに、よりいっそう心が震える。心の震えは、同時に猛烈な孤独をもたらした。
気遣われているとは判っていた。
判っていたけれど、気持ちを抱え込むことができなくて、彼女の手を振り払って強く首を振った。
もう、嫌だった。
なにもかもが嫌だ。
どうして帰してくれないのだろう。
どうしてこんな目に。
「お館さまは、あなたさまを悪いようにはなさいません」
嗚咽に肩を震わせる綾に、彼女は言う。
「戻る場所があると伝えれば、きっと、良いように取り計らってくださいます」
だから、いまは身体を休めてください。
そっと寄り添う声だった。
彼女は真摯に綾を思ってくれている。けれど、どれだけ彼女が綾にひたむきだろうと、『お館さま』がどれほどの権力を持っていようと、きっと日本には帰れない。
彼女は知らないのだ。綾が日本からやって来たことを。だからこんな、希望を持たせるようなことが言えるのだ。
「スープを用意してあります。空腹ですと、どんな考えも悲観的になってしまいますわ。逃げるにしろ、体力はつけておきませんとすぐに捕まってしまいます」
綾は、そらしていた目を、はっと彼女へと戻す。
勇気付ける笑顔を、彼女は浮かべていた。
「まずは、体力をつけることが先決です。青白いお顔のままで逃げていただいては、気が気じゃございません」
「……」
このひとは、敵じゃない。望みを叶えてくれるひとではないだろうけれど、きっと、判ってくれるひとだ。
泣きながらも、ゆっくりと綾は頷いた。
それを見て女性はほっと安堵の表情を浮かべ、すぐに食事の用意をしてくれたのだった。
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