5 睡蓮
この街に来て何日経ったか、もうサクには分からなくなっていた。
食事も、取ったり取らなかったりと不規則だったし、夜勤もあったりで、寝る時間も定まってはいなかった。
相変わらず、ハンドルがどんな役割を担っているのか、理解できてはいなかったけれど、それでも、任務を与えられているという責任感が、心の穴を埋めていることは確かだった。
夢は、見た。
自分の父親が、死ぬ間際に言ったこと……許さない、許さない、とサクを責め、病院のベッドの上で泣き叫ぶのだ。サクは厳格だった父の、あまりの変わりように、唇を噛んで耐え続ける。そのうち朝がきて、父の幻は消えてゆく……。
サクはレンの革張りのソファから、起き上がった。レンは工場の一室に、自分の仮眠室をかまえた。このところずっと、こちらのビルには、帰ってきていなかった。
ソファに座って鞄を開く。ハサミとカミソリがカチャリと触れ合い、サクは思わず身構えた。そっと片手で刃物をよけて、下に埋もれたクシを引き出す。
薄暗い窓に反射した自分に向かって、髪をといてみた。
寝癖の毛先が言うことを聞かない。
無駄なことだ。セットをしても、またすぐ濡れる。と、サクはひとりごちた。
(この雨は永遠に、上がることはないんだから……)
蛙堂では、ホノカが料理を運びながら、客として来ていたゴウに向かって、
「食べすぎ、もうこれくらいにしときなよ」
と、心配そうに声をかけていた。
ゴウは新聞の天気予報を目で読んでいる。晴れマークもここではまったく意味を持たない。不思議なことだが、この街を通ると、必ず雨に変わってしまうということは、サクもすでに知っていた。
「台風になるぜ。今晩は、工場も閉めたほうがいいかもな」
ゴウは三杯目のマーボー豆腐を口へ運んだ。
その隣で、サクは野菜スープを飲みながら、少し離れた席にいる、社長を見ていた。
スーツの袖で肘をつき、シュウマイを口へ運んでいる。店内に充満したもやのため、その表情はうまく読み取れない。
ゴウが言うには、社長はしばらく、この街に滞在し続ける予定らしい。自分を取り巻く環境が変わって、居心地が良いのだそうだ。
「よく分からんが。あんなヤツにも、涙は流れてくるんだろうな……」
ゴウは声を低くしぼって、サクに話した。
「俺は前の職場で、こっぴどくこき使われた。そのことを思うと、心が張り裂けそうになる……。そんときゃ表へ飛び出してって、ワッと泣くんだ。泣くことは別に恥ずかしいことじゃねえ。この街ではみんな、抑えつけてた感情を、素直に解放してやれるのさ」
ゴウは店内を忙しく回る、ホノカの赤毛を目で追った。
「ホノカだって、手首の切り傷は母親のせいだ。でもこの街では……何もかもを水に流せる。雨による浄化。そう……俺はつくづく、思ってんだ」
新聞を折りたたんでテーブルにのせる。からになった皿に、しかめた顔をしていたが、ゴウは手を上げ、明るく言った。
「ホノカちゃん、マーボーおかわり!」
「お前の胃袋は底なしじゃな!」
カウンターの奥から、カエル店主の大きな声が飛んできた。
レンが姿を消したのは、その日の午後のことだった。
蛙堂でたらふく食べた昼食後。ゴウはサクを連れ工場へと向かったが、工場はすでに閉められたあとだった。
カギは工場長であるレンが持っている。今晩やってくる台風に備え、彼がカギをかけたのだろう。
電源の落ちた工場は、しんと静まり返り、薄暗い闇の中に同化した。レンは中にもいないだろう。そう、ゴウはサクに考えを話した。
「まぁ、いい大人だから、そう無茶なことはしないと思うが。ただあいつは……少しカッコつけなところがあるからな……」
風は雨粒を、鋭く刺すように飛ばし始めた。
「俺たちにできることは何もねぇよ。信じてやるぐらいしか」
ゴウは帰って待つよう、サクに言った。
ずぶ濡れのレンが帰ってきたのは、もう日付をまたいでのことだった。
稲光が一瞬、部屋を眩しく照らし出す。
入り口に立つレンの影が、部屋の奥へと伸びていた。
サクはソファから立ち上がり、ぐしゃぐしゃになった髪のレンを、その場で見つめた。
海から上がってきたようなレン。体から水滴を落とし、床に大きな水溜りを作った。
硬いブーツで中へと歩み、ソファを背にして、冷たい床へと座り込んだ。
サクが見下ろすと、と同時に、大きな雷が響き渡った。長く余韻を残す、その音が消えるのを待って、レンはようやく口を開いた。
「この街に来る前、俺は刺青を彫った。花言葉には……滅亡、終わった愛……という意味もあった。そのことについて、深く説明はしない。だが、こんな天気の日には、古傷がうずいて……悪夢を見るんだ……」
稲光のフラッシュで、サクは立ったまま両目を閉じた。目を閉じると、胸の中に、言いようもない悲しさが押し寄せてきた。
(ああ……この人も、夢にうなされる……あの重苦しく、眠れない夜を知っているんだ……)
レンへの強い共感を覚えた。
サクはキッチンへ立ち、お湯を沸かして湯飲みに入れた。レンの前に差し出すと、レンは有り難そうに、両手でそれを受け取った。
「雨は、優しいほうがいい。こんな日に泣くのは、経験者から言って、とてもオススメできねぇぜ……」
サクはレンの肩に毛布を広げ、ストーブをつけた。
寒さという感覚を思い出したように、レンは大きく震え始めた。
ガタガタ、ガタガタ……体と湯飲みを揺らしながら、レンはそんな自分を、おかしそうに笑っていた。
「どんな悲しみだろうと……それを心の糧にして、前に進むしかねぇんだ。俺たちは、泣きながら……」
微笑んでいるレンの顔を、サクは声もなく眺めていた。
レンに対して、憧れにも似た感情を抱いた。
レンから穏やかな寝息がし始めると、サクはそっと窓辺に近寄り、雨の音に耳を寄せた。
雨はすべての思考をかき消すかのように、激しく音を立て、窓を外から洗い続けた。
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