3 蛙堂


 昼間でも薄暗い、霧のもやに包まれた街。


 水溜りの上を歩きながら、僕ら以外に誰もいない、とサクは思った。


 通りに、歩く足音は他になく、雨と、時折過ぎてゆく風だけが、耳に大きく聞こえていた。


 時が止まったようなこの街に、誰も住んでいないんじゃないだろうか。


 レンの背中を追いかけて、道の角を曲がった途端、サクは突然、足を止めた。


 人がいた。


 黒いロングスカートの女性だった。傘もささずに立っていた。白い頬が、濡れている。


「見てんじゃねえよ」


 いつの間にか隣に来ていたレンが、サクに言い、襟を引っ張って歩かせた。


 手を離したレンの後ろを、サクはまた歩き続けながら、やっぱり人は住んでいるみたいだ、と思い直した。それからふと、先ほどの女性のことを考えて、(あの人は泣いていたのかもしれない)、と思った。


 泣きたいやつしか住もうとしない、そう言っていた、レンの声が頭をよぎった。


 涙は、雨でカモフラージュできる。頬を濡らすのがどちらでも、見分けることはできなかっただろう。もしかしたら、自分自身でさえ……。


 古いビルが通りに並び、黄色い光が、曇った窓から漏れていた。


 そのビルとビルの間に、挟まれるようにして建っていた、一軒の小さな店が目についた。看板には、「蛙堂/Kaerudo」という文字が、雨に打たれて、にじんで見えた。


 カエル?


 サクの疑問をよそに、レンは躊躇なく、当たり前のように店へ向かった。


 扉を開けてレンが待つ。サクも続いて中に入った。後ろ手に、レンは静かに扉を閉めた。




 調理場がカウンターのすぐ後ろにあるらしく、湯気や熱気がモクモクと、狭い店内へと溢れ出ていた。


 カウンターの席に座った二人は、頭からその熱風を浴びて、つい先ほどまで濡らしていた体から、水分を飛ばすことができた。


 白い煙のようなもやが充満していて、他の客の表情などは、あまりよく見えない。


「今日は点検の日じゃったんかね?」


 カウンターの奥から、おじいさんの大きな声が飛んできた。店主らしい。白いエプロンに、緑の刺繍でカエルの絵が描かれている。厚いレンズのメガネと、横に広がった口が、そのカエルのような顔つきに見えた。


「大変じゃのー。いっとき、雨はやんだようじゃったが、また降り出したみたいじゃな」


「ああ、じいさん。こいつのおかげで、ゴウと同時に見回りに行けてさ。点検は早くすんだんだよ」


 レンが隣で、サクに親指を向けて言った。店主の視線が、サクに移動する。


「新入りかね?」


「名前はサク。口なしだ」


 サクが声を出すより先に、レンがそう言ったので、サクはこのまま、誰とも口をきかなくてすみそうだ、とホッとしていた。もちろん、喋りたいことなどなかったし、聞きたいと言ってくる相手も、ここには誰もいなかった。


「それじゃ、ゴウが今はハンドルを?」


「午後からは俺が回す。朝が来るまで」


 レンは「いつものを俺と、こいつにも」と言って、店主に料理を注文した。そして、トイレと書かれたドアへ向かって、姿を消した。


「睡蓮の花が傷だらけじゃったよ」


 店主はよく分からないことを言いながら、奥の調理場へと向かっていた。独り言のようだったが、声が大きいので、こちらにも聞こえてしまう。


「点検で手を切ったんじゃな。花も、いつかは消えるじゃろう。そう……忘れてしまうほうがええ、昔のことなんかは……」




 レンがラーメンをすするその手を、サクは隣で盗み見ていた。同じラーメンを食べながら。


 手の甲に、刺青がある。それが睡蓮の花だということは、さっきの店主の話で分かった。新しい切り傷が、花の上に細かに線を入れていた。配管の詰まりを直している時に、ついてしまったものだろう。レンは気にする様子もないが、サクの目には痛々しく見えた。


「食べたら今日は、もう帰れ」


 声を低くしてレンが言った。


「俺は徹夜で作業があるから、工場にお泊まりだ。ソファはお前が使うといい。風呂入って寝ろ。そんで朝になって、また工場へ来るかどうか、決めるんだ」


 サクは一瞬、ハシを止めた。店主がそのすきに、薄いチャーシューを一枚、サクのどんぶりにトングでのせた。見ると店主は、頷きながら笑っていた。


 サクはまた麺をすする。喉から胃へ、熱い物が流れ落ちてゆく。温まった体に、頭ものぼせたようになる。レンの静かな声も、どこか遠くのほうから流れてきているような感覚だった。


「道ってもんはな、一つじゃねえ。どんな状況に立たされたって、周りをよく調べれば、必ず用意されているはずだ。どの道を生きるのか、選び出すのは自分自身だ」


 レンのハシには、メンマが持ち上げられていた。それを食べようと口もとに近づけるが、再び下げて、声を出す。


「まだ……ここに生かされている、ってことには、それなりの意味があるんだろう。面倒なことも多いし、サク、お前は嫌かもしれないが、この世はまだ、お前を離したがらない」


 サクはハシを置いて、席を立った。


 入り口の扉を開けると、雨のすだれが目に見えた。


 サクはレンを振り返って、小さくお辞儀をすると、音を立てずに扉を閉めた。




 蛙堂をあとにして、サクはまた雨の街を歩き続けた。


 ほてった体を、シャワーのような雨が濡らした。頬についた水滴は、風に吹かれて後ろへ流れる。


 角を曲がる時、少しだけ立ち止まった。


 黒いスカートの女性は、もういない。


(道を探しているんだろうか……)


 サクは短いため息を吐いた。


 こんな僕にでさえ、道は残されているというのなら……見つけることはできるだろうか。


 朝が来れば、分かるのだろうか。


(明日が来ることを、こんなにも拒んでいるのに……)




 風呂上がり、ストーブの前で、サクは自分の鞄を開けた。


 無造作に入れていたハサミやカミソリが、ストーブの明かりで鋭く光った。


 サクは自分の手の平を見つめた。それから細い、カミソリの柄に手を伸ばそうとして、やめた。


 鞄を閉め、革のソファに横たわる。


 目を閉じると、さらに大きく聞こえてくる。


 ずっと途切れることがない。頭の中や胸の奥へ流れ込む、砂嵐のような、雨音――。

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