雨の降る街
1 昨夜
少年は、眠れない夜に考え事をするのは、よくないことだと分かっていた。
考えは、ただ暗い部屋に漂うばかりで、欲しいと願った正解を、与えてくれることはない。
それでも、布団から這い出て、何か別のことをして気を紛らわせる余力も、もう残ってはいなかった。
カーテンの切れ間から、車のライトが、部屋の壁をなぞって消える。また一台……。
白々とした陽の光が、その切れ間から、強さを増してやってくる。
明日が不意に、今日になる。
僕はまだ、前に進むことはできない、と少年は思った。
今の気持ちのまま、翌日へなんか、運ばれたくなかった。
いつものように、何事もなかったかのように……、平然とした顔で生きていくことは、もう無理なのかもしれない……。
少年は起き上がるとすぐに、大きな鞄を取り出して、身の回りの物を詰め込んだ。
白いシャツに、ジーンズとスニーカーを履き、朝食も取らずに、鞄を持って外へ出た。
目的地はどこでもよかった。朝日に逆らうように、ただ東へと向かった。
何の思い出もない場所へ行こう……。
辛い記憶ばかりが残る、この街を出なければ、自分は自分を殺してしまうかもしれない。
少年にはそう思えた。
浅い山の谷間から、湯気のようなもやが立ち昇っているのに気づいたのは、夕日が沈んでからだった。
山間に見える小さな街から、黄色い明かりが暗い空へ、もやに溶け込んで広がっていた。
初めは、温泉街か、と少年は思った。けれど近づくにつれ、それは街に張り巡らされた、配管から出ている蒸気のせいだと分かった。
工業地帯だろうか。くすんだ茶色いパイプや、大きな歯車が、灰色のコンクリートのビルに、ツタのように絡まっている。
機械の街……。
少年は昔、地元の映画館で観た、スチームパンクの映像を思い出した。
それは今と同じような、セピア色のパイプが巡る都市が舞台で、近未来的でありながら、どこか寂れた、レトロな印象も思わせる――そんなSF映画だった。……内容は、すっかり忘れてしまっていたが。
傘を持って出なかったのは、先のことなど、まったく考えていなかったからだ。
突然降り始めた小雨に、少年は片手でひさしを作りながら、街なかを進んで行った。
水溜りを跳ねて、布地の靴が重くなる。ずっと歩きっぱなしだった。もう歩けない。腹も減った……。
近くのビルに、雨宿りするつもりで立ち寄った。
冷たく、しけった空気が、薄暗い部屋に停滞している。
人がいる気配はない。すべすべとした床に、革張りのソファが、一つだけ放置されているのが見えた。
少年は鞄を手から離し、床に下ろすと、無言でソファに倒れ込んだ。
何度か小さな咳をして、自分が風邪を引き始めているのだろう、と察したが、何をどうする気力もなく、ただ静かに、そこに横になっていた。
しばらくして、コツ、コツ、と、床を叩くような音が聞こえてきた。
薄目を開けて眺めると、少年と同じように雨に濡れた男がひとり、硬いブーツで、こちらに向かって来ているのが見えた。
廃墟のようなビルだが住人がいて、今出先から、ここに帰ってきたのだろう。
少年はうしろめたさから、目を閉じると身動きもせず、相手の出方を待つことにした。
男は寝ている少年の前まで来て、足を止めた。体から落ちる水滴が、床に弾ける音がした。思案するためか、少し間をあけたあとで、男はこう口にした。
「……移住者かい? 大きな鞄だな。そりゃ、この街に住みつくのは自由だけどよ……」
ゆっくりと、大げさにも聞こえるため息をついてから、言葉を続ける。
「それにしたって、だ。……なあ、別の部屋にしてほしかったぜ。俺は今晩、どこで寝るんだ」
どこかふざけているような調子の、柔らかい声だった。敵意はなさそうだと分かり、少年はもう一度目を開けた。それから話し出そうとしたが、声の代わりに咳が出た。
男は「喋れないんなら書きな」と言って、ズボンのポケットから、細長い紙の切れ端(たぶんレシートのようなもの)を出し、ペンと一緒に少年に持たせた。
少年は仰向けに寝たまま、薄闇の中に両手を上げると、感覚を頼りにペンを走らせた。が、細いペン先が紙を破って、書けた文字はこれだけだった。
「僕は昨夜、思い立って……、ん?」
男が紙を取り上げて、目に近づけて読み上げた。少年は起き上がろうとした。けれど男が、片手で強く押し戻すと、低い声で短く言った。
「寝てな、サクヤくん」
古めかしいストーブと、毛玉のついたタオルケット。奥にある調理場で作った、即席のラーメン。
男は文句も言わず、かいがいしく少年の看病をしてくれた。風呂はあっち、トイレは右、服はこれを貸してやる、淡々と少年に話しかけた。
電気もつけない、色のない部屋で、手際よく動く男の気配を、少年はソファで眠りつつ感じていた。
ふと……父親のことを思い出した。眠りにつく前の、ほんの一瞬だけ。
男は父親よりは若いだろう。自分より、ひと回りほど離れているように、少年には思えた。
薄暗いので、いつ朝が来たのか分からなかった。
カーテンのない窓を打ちつける、強い雨。今日も雨が降っている。
「おはようさん」
と、男が自分の歯を磨きながら、コップを片手に言ってきた。窓から差す弱い光に、その男の風貌が見てとれた。
少し長めの黒い髪。あごに生やした無精髭。タンクトップから伸びた、筋張った腕。太い指輪をした、その手の甲に、刺青らしきものもある。
やさぐれたバンドマン……少年は男から、そんなイメージを受け取った。
「熱はなさそうだな。もう歩けるか? おっと、ちょい待ち」
男は言って、くるりと背を向け、行ってしまった。部屋を仕切った、薄いパーテーションの向こうから、うがいの声が聞こえてきた。
少年はソファに身を起こすと、かけられていた毛布をたたみ、それから足もとに置いてある、自分の鞄に目を向けた。中を確認してみたが、あさられたような形跡はなかった。
少年は無言で座ったまま、戻ってきた男の顔を見上げた。男は薄明りの中でも、その目の中には輝きが見えた。渋い顔には不釣り合いのような、無邪気な眼差しで少年を見返す。
「雨に倒れるなんて、この街のことを知らないな? お前が誰で、どこから来たとか、詮索はしない。その代わり、行き倒れを救ってやったんだ、少し手伝いをする気はないか?」
少年は口を開きかけたが、その前に男が、人差し指を自分の口にあて、
「礼は言うな。Yesなら頷く、Noなら横に振る。質問はなし。どうだ?」
と言って、立てた指先を少年のほうに向けてきた。少年はその銃のような指から目をそらし、考えようとした。しかし男は「それとも」と言葉を続け、考える時間をくれようとはしなかった。よほど人手に困っているらしい、そんな様子がうかがえた。
「他に行くあてでもあれば、話は別だが……」
言いながら、男は足もとの大きな鞄に目を落とした。
子供の家出だと思われているのかもしれない……。少年はソファから立ち上がると、男に向き合った。そして静かに一度、Yesの代わりに、頷いて見せた。
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