青豆

第1話

 この世で本当に意味のあることなど、そう多くはないけれど、少なくとも朝起きて顔を洗うことは、意味のあることだと言える。ぼくは朝に顔を洗うことが好きだ。冷たい水が顔を覆い、汚れと暖かい微睡みを流してしまうから好きなのだ。

 朝起きて顔を洗うと、何か奇妙な音がした。まとわりつくような粘着質な音だった。もしかすると、ただの感触だったのかもしれないが、ぼくにはわからない。

 一体、何だろう、とぼくは不思議に思った。何かが水に溶けた音のように感じたが、心当たりはなかった。洗面器の中を覗き込むと、何やら黒い影のようなものが、水と共にグルグルと回っていた。髪の毛だろうか、と思ったが、違った。髪の毛のような細い糸状のものではなかった。どちらかと言えば、形を持たないカオスのようなものだった。

 まるで水に溶けた絵の具みたいだ。カオス、混沌、凝縮された宇宙。

 そうか、絵か・・・・・・と納得がいった。

 昨日ぼくは絵を描いていた。その時に黒の絵の具が、顔に跳ねてしまったのだろう。それが顔を洗った時にとれてしまった、というわけだ。

 安心して、顔を上げた。濡れた顔を拭いたタオルが、洗面器の縁に掛けたままだった。ぼくはそれを洗濯機に投げ入れた。水を含んで重くなったタオルは、音を立てて洗濯機の中に着地した。ぼくは息をついた。これでやるべきことは全て終わった。

 しかし、変だった。心のどこかに、「何かをやり残している」という感じがあった。漠然としたもやもやが、心のひだに絡めとられているのだった。その正体が何なのかわからなかった。心の中で違和が膨れ上がっていくのを感じた。

 なんとなく鏡を見つめた。何故か、そうしなければならない、と思った。「見ろ」「お前は鏡を見なければいけない」と、誰かが耳元で囁くように感じるのだった。

 もっとも、家にはぼく一人しかいなかった。なので、その声はあくまでも精神的な作用に過ぎない。ぼくが知覚したのは、あくまで無意識的な自分の声だったのだ。

 鏡はひどく汚れていた。白い霧のような汚れが、鏡を全体的に覆っている。思えば、鏡を磨いたことなど一度もなかった。今度磨いてやらなくてはいけない。

 そこで、ちょっと待て、とぼくは考えた。鏡を見ろと耳元で囁いておきながら、見せたかったのはたったこれだけか? ぼくは何かを見逃しているのではないか?

 ぼくは鏡を、その中でもとりわけ自分の顔を凝視した。何かをそこに見逃しているはずだった。

 違和感の正体はすぐにわかった。

 鏡に映るぼくには、顔がなかったのだ。

 驚いて、目を――本来目があるはずの場所を――こする。何かの見間違いに決まっている。顔を失うだなんて、そんな超現実的なことが起こるわけない。

 ぼくは鏡を見た。

 やはり顔はなかった。パーツはおろか、凹凸さえ消えていた。全くののっぺらぼうだった。流れたのは僕の顔だったのだ。

 顔が水に流れる・・・・・・一体、ぼくは何を考えているのだろう。

 試しに、顔を洗ってみた。起きたばかりだ。まだ頭がぼんやりとしていて、上手く働いていないのかもしれない。それは大いに考えられることだ。

 季節は冬で、水は冷たかった。顔が痛かった。細かなガラスが顔に突き刺さっているみたいだ、と思った。洗い終わり、もう一度鏡を見た。しかし、期待は裏切られた。やはり顔はなかった。卵のようにツルツルとしたぼくの顔は、現在の状況の確証として、ぼんやりと鏡に浮かんでいた。

「一体何が起こっているんだ?」とぼくは声に出してみた。

 開く口がないせいで、アテレコをされているように見えた。いいや、実際そうなのかもしれない、と思った。ぼくの意識を知る何者かが、ぼくの代わりに声をあてているのかもしれない。言葉を口に出したせいで、余計にわからないことが増えたような気がした。

 そのまま、五分、十分・・・・・・と時間が過ぎていった。当然のように、時間は何も教えてくれなかった。

 こういった場合、誰に相談すればよいのだろう、とぼくは考えた。顔を失った時にかけるフリーダイヤルなどがあるのだろうか?

 あるわけがない。そんなものが存在したとして、一体誰が利用するのだ? もっとも、今のぼくはそれを求めているのだから、需要はあるのかもしれないな、と思った。

 適当な番号に電話をかけて、話を聞いてもらおうか、と考えた。それもありかもしれない。もちろんすぐに切られてしまうだろうが、それでいい。ぼくはとにかく、この行き場のない謎めいた気持ちを、誰彼構わずぶつけてやりたいのだ。

 本当に、そうしてやろうか・・・・・・と思った。ぼくは追い詰められていた。

 しかし、結局適当な番号にかけるのはやめた。そんなことをしても意味はない。それに、そうするだけの勇気もない。

 仕方なく、下水道局に電話をかけることにした。電話番号を調べ、それを入力した。コール音が二回目の時に、電話が繋がった。

「****下水道局コールセンターです」

 女の声だった。奇麗な声だが、事務的な物言いとはマッチしていなかった。

「あの、ちょっと困っていて」

「困っている?」

「なんと言えばいいのかな、大切なものを、流してしまったというか・・・・・・」

「大切なものですか・・・・・・?」女は不思議そうに言った。

「はい、大切なものを・・・・・・」

「ええと・・・・・・」女は訝しげに言った。「例えば、指輪ですとか・・・・・・」

 ぼくは黙って考えた。この場合、なんと答えるのが正解なのだろう。指輪はあまりに遠いかもしれない、と思った。しかし、「実際に排水溝に流れ得るもの」と「顔」の間に、最大公約数など存在するのかどうか、ぼくにはわからなかった。

「まあ・・・・・・そんなところです」

 結局ぼくは、そう答えた。

「そちらに伺って、こちらでお取りすることは可能ですよ」

「あ、それは」ぼくは少し焦って言った。「それはちょっと困るんです」

「なら、すっぽんなどを使ってもらうしか・・・・・・」

 すっぽんなんかで顔が取り戻せるか、とぼくは叫びたくなった。しかし、もちろん叫んだりはしなかった。そんなことをしたところで、何が解決するわけでもない。ぼくの正気が疑われるだけだ。

「あの、とてもとても、ミクロレベルで小さなものを流してしまった場合、その時はもちろん・・・・・・?」ぼくは恐る恐る尋ねた。

「ええ、もちろん、下水道に流れます」

「そうですよね・・・・・・」

「はい」

「すいません、なんか、変なことを訊いてしまって」

「いいえ、それが仕事ですから」

「じゃあ・・・・・・ありがとうございました」ぼくは電話を切った。

 ぼくは額に浮かんでいた汗を袖で拭った。額は汗でヒリヒリとしていた。

 結局何も解決はしなかった。あの女に期待をしていたわけではない。だが、心のどこかで一筋の光を彼女に見出していたのもまた事実だった。

 あの女は声がよかった。聡明な女なのだろう、という気がした。しかし、声なんてなんのものさしにもならない、とぼくは考えていた。あの女は良い声を持っているから聡明そうに感じたが、実はモグラ並みの知性しか持っていないのかもしれなかった。

 ぼくはリビングを横切り、階段を上った。二階には絵を描くための部屋があった。そこで試したいことが、一つだけあった。電話をしている時に、もしかして・・・・・・と、頭に浮かんだのだった。

 部屋に入ると、不出来な絵がズラッと並んでいる。大体は裸の人間の絵だ。ぼくは、美しい人間を描こうとすると、どうしても裸にしてしまうのだ。それが、子供のころからの悪癖の一つだった。今どきお前の描く絵は珍しい、と言われたことがあった。確かに、その通りかもしれない。絵の具で裸の人間を書く人間は、近頃あまりいない。絵はコンピュータの中で構築される、電子的なものへと変わったのだ。

 一番手前にあった絵を手に取った。裸の男女が像の上で交わっている絵だ。大したものではない。ぼくは、これにしよう、と決めた。

 小さなバケツに水を入れた。この部屋にも、水道を通していた。筆の毛先をバケツに突っ込み、水を含ませた。筆を絵まで持っていき、そして男の顔に付けた。

 思った通りだった。水を付けると、男の顔は溶けて流れた。男はのっぺらぼうになった。男は今ぼくと同じだった。

 おれが関わった顔は、必ず水に溶けてしまうのだろうか・・・・・・?

 女にも同じことをした。しかし、女の顔は流れなかった。キャンバスが少し濡れただけだった。これは一体どういうことなのだろう?

 ぼくは考えた。そして、こう結論付けた。あの絵の男は、ぼく自身だった。つまり、ぼくが自己を投影して描いたものだった。だから、男の顔も水に溶けてしまったのだ。そうとしか、考えられなかった。

「どうしたらいいんだろう・・・・・・」ぼくは呟いた。

 その声はやはり他人のもののように響いた。

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