もう一つの過ち

spin

前半

 昼前にひろしは待ち合わせ場所のイタリア・スペイン料理のダイニングバー・リゴレットオーシャンの前に着いた。一階に同店を擁する六階建の飲食店専用のテナントビルは、横浜の飲み屋街・鶴屋町にあった。午前中の今、まだほとんど眠っているこの一画は、今日のような小春日和に恵まれた土曜日の夜ともなれば、大勢の人出が見込めた。新型コロナの影響がなければの話だが。

 リゴレットの名前を冠した店は横浜以外の街にもいくつかあるが、それぞれに他店と異なる特徴があった(例えば、横浜店は「オーシャン」の名に因んで、船が店内の装飾のモチーフになっていたり、シーフドを使ったメニューが多い)。共通しているのは、洋の知る限りでどの店もデートの定番スポットになっていることである。つまり、小洒落た洋風の酒場だった。

 前回のデートでアツコが見せた笑顔や気合の入った服装に、洋は感銘を受けた。それは先に進めるサインだと考えていた。そうした状況を踏まえて、リゴレットを選んだのだった。この店を選択した思惑は、相手に伝わっているはずだと考えていた。四〇男の洋はすでに勃起薬――レビトラのジェネリック薬――を服用していた。およそ四年前に購入したものの最後の一錠であった。

 正午になっても待ち人は現れなかったので、洋は先に店内に入った。案内された席は、テーブル席だった。店内にはU字型のソファ席があることを知っていたが、その席でなかったことに軽い失望を覚えた。

 正午でもリゴレットは賑わっていた。コロナ禍でまん延防止措置下にある今、昼飲みであれば時間を気にせず飲めるという事情があるためだろうか。しかし、昼間からあまり酔っ払うというのは、正月でもない限りはどこか憚られるものがあった。結局、飲んでいいのは夜という思考回路ができているので、何か転倒したことをしている感が拭えなかった。相手の都合で昼飲みになっているが、酒飲みが我が物顔で飲めるのはやはり夜だった。そして、その後の男女の交合にとっても、夜のほうが都合が良いのは明らかである。

 待ち合わせ時間を一〇分ほど過ぎて、アツコが現れた。

「ごめん。道間違えちゃって……」

「大丈夫だよ」

 女は対面に座った。黒の薄手のタートルネックニットに、ベージュのパイピングの入った白ジャケット、デニム。お揃いのイヤリングとネックレスのアクセサリー。それは、ロングブーツにラメ入りのアイシャドウがインパクト大だった前回に比べるとトーンダウンしたように思えた。相手の席は、店の構造上逆光になってしまい、アツコの顔には暗いベールがかかっていた。まだ知り合って間もない女性の場合、最初の対面こそが、デートの最大のイベントと言っても言い過ぎではないと洋は考えていたが、今回はテンションを上げるものではなかった。

(うーむ、前回が良すぎたのか)

 ともあれ、ようやく昼飲みの口火が切って落とされた。ドリンクとフードを一通り注文すると、洋は最近購入したカナダ由来の電気圧力鍋の話をした。それはカジョス(スペインのもつ煮)というメニューから思い出したのだった。洋はその製品で豚汁を作ったこと、炊飯もでき、レシピブックも充実しており、アメリカで非常に売れていることを話した。アツコに売り込む気はなかったが、その製品の恩恵を大いに受けていていることから自然とアピールに熱が籠もった。

「へぇ~、時短になるのはいいね。でも、私の場合、時短になってもやることないんだよね」

「マジで? でも、趣味はあるでしょ」

「う~ん、どうかな。今は、カラオケとか、映画とかかな」

 アツコは週二日のコンビニバイト以外は、主婦業に従事していた。ただし、現在は夫と二人暮らしだという。今日も夜は、夫の夕食を作るために外出できないのだった。最初、洋はその話を聞いたときに、衝撃を受けた。世話をする相手が子供なら分かるが、大の大人のために、体を拘束されるというのは、あまりに前近代的ではないだろうか、と。しかし、よくよく考えてみれば、当然なのかもしれなかった。それは会社員が勤務時間中に会社に体を拘束されるのと同じと考えることができた。実際、よく結婚は就職にたとえられる。とはいえ、自分が同じ状況だったら、それを受け入れることは考えられなかった。たかだか料理のために、なぜ拘束されなければならないのか? ビジネス関係ではなく、自発的な感情に基づいて関係を持っている男女が料理のために相手を拘束するのは、ある種の虐待ではないだろうか。それはもっともらしい言い分のように思える。お互いに同じくらい稼いでいるのであれば。そうでなければ、夫婦である以上は、稼ぎの少ないほうがより稼いでいる人を支援するのは当然という見方のほうが支持されるだろう。

 いずれにしても、女性の生き方が多様化した現代では、主婦がどちらかというと前時代的な「職業」であることは間違いない。アツコが自由な女性を横目に鬱憤を溜めている可能性はある。彼女が恋愛を求めているという確たるサインはなかったが、それでも洋はそれに賭けた。まず出会いは、洋がサイト(出会い系ではない)に掲載した飲み相手募集への応募だった。また、五〇オーバーという相手の年齢もそうした見方を強める要因だった。つまり、セックスはもはや希少になっていると考えられる。だから、求める相手には体を開く、と洋は考えた。

「他にも飲みがあるでしょ」

「ああ、そうだね」

 アツコはそう言うと軽く笑った。洋もそれに応じて、口角を上げた。

「最近夜飲みしてる?」とアツコ。

「してるよ。最近は、伊勢佐木町の飲み屋によく行ってる」

 洋は伊勢佐木町駅から徒歩で行ける焼きとん屋の話をした。前回行ったときは、開店後約一〇分で満席となったその店は、低価格ながら料理もサービスも非常に満足が行くものだった。その店ならではの料理は一度は食べる価値があると力説した。

「いいな。わたしも行きたい」

「行けばいいじゃない」

「なかなか自由に出歩けないんだよね」

「……主婦業もある意味大変だよね。たまには羽を伸ばさないと」

「まあ、働いている人に比べたら全然楽だけどね」

「そうかもしれないけど、別の大変さがありそう」

「まあね。子供が独立して、二人暮しになるとどうしてもね。息が詰まるというか」

「そんなときは、ぼくがいつでも相手するよ」

 洋は口説き文句のつもりで言った。

「ありがとう。でも、無理しなくていいよ」

 その冷静な口調から魂胆が見透かされている気がした。


 豪勢なランチタイムも終盤に差し掛かっていた。その間、二人の距離が縮まるような展開はなかった。話題に上がったのは、料理、Netflixのドラマ、アツコの飼い猫の話などだった。そうした話がつまらないわけではないが、次にラブホに誘えるような雰囲気ではまったくなかった。どうにかしたいと考えた洋は、残っているテキーラハイボールを飲み干すと唐突に言った。

「おれ、最初に会ったときからアツコさんのことかわいいって思ってたよ」

「ハハハ、何言ってんの」と五〇女は一笑に付した。

 

 リゴレットを出たときはまだ午後二時前だった。前回は、二軒目に立ち飲み屋に行ったが、今日はもう飲み食いは十分だった。

「もう飲めないよね?」

「そうだね」

 ラブホを諦めて、洋が提案したのはネカフェだった。

 ビルの五階にあるネカフェは、横浜という立地上やはり狭そうだった。アツコは会員カードを持っておらず作らなければならなかった。アツコが店の備え付け端末に登録に必要な情報を入力しているとき、洋は偶然にも「56」という年齢を垣間見た。それは予想よりもかなり上であり、心がざわついた。

(五六とは、恐れ入った。セックスできるのか?)

 選んだ部屋は、フラットタイプのペア席であり、室内は扉で見えない状態になっていた。

「えっ!? 何これ」

 部屋を見るや否や、瀬谷区在住の主婦の顔が青ざめた。洋は何もリアクションせずに、靴を脱いで部屋に上がった。

 二人はそれぞれが部屋の別の壁沿いに離れて座った。洋はテレビを点けて、パラパラとチャンネルを変えてみた。バラエティ番組、競馬、プロ野球、ドラマという中でドラマに合わせた。観ているうちに、それはストーカー被害に遭う女性の話ということが分かった。画面の右上の小さな窓に芸人やタレントの顔が交互に映っていた。推測するに、この番組は、ドラマ形式でいかにしてストーカーから身を守るかという知識を授ける情報番組のようだった。アツコは無料で飲めるオニオンスープをすすりながら、テレビを観ていた。今、女と二人で観るのに適切な番組ではまったくない。こうしていてもただ時間だけが過ぎていくだけだ。Jはコンビニで買った缶チューハイをすすりながら思った。

「トイレ行ってくるね」と洋。洋は個室に入ると、小便をした後、ウェットティッシュで陰茎を入念に拭いた。ウェットティッシュは、今日のこの状況を想定して、携帯していたものだった。

 洋はトイレから戻ると、アツコの隣に座った。かの女は部屋に入ってから借りてきた猫のように静かだった。

「この靴下かわいいね」

 洋はそう言うと、五〇女の黒い透け感のあるショートソックスを履いた足首を掴んだ。

「ありがとう」

「透けてるのは男が履くと気持ち悪いけど、女性が履くとセクシーだね」

 次の瞬間、女を抱きしめ、唇を塞いだ。舌を入れようとしたが、アツコは口を閉じたままだった。洋はひるまず、女の服を脱がそうとしたが、「ダメだよ」とピシャリと言われた。

 その言葉は、冷水を浴びせかけるものだったが、洋は後に引きたくなかった。

(もう少しなのに……)

 諦めたくなかった洋は搦手に打って出た。テレビを消して、PCからアダルトビデオを再生した。それは、マジックミラーの車に女の子を連れ込みセックスするという企画ものだった。

「これと同じことしよう」と洋。

「え~、無理だよ」

 ビデオでは、若い女の子が男優にどんどん服を脱がされ、クンニされていた。洋は、服の上からアツコの胸や尻を撫でたが(ブラには厚いパッドが入っていた)、その体の感触は伝わってこなかった。その間、洋は風俗嬢にクンニして褒められたことを話した。

「試してみない?」

「みない、みない」

 物理的にはごく近距離にいる女は、洋とまともに目を合わせなかった。暴力に訴える以外に、アツコとヤるのは難しそうだったが、それは選択肢になかった。一瞬の隙を突き、女の股間に顔を埋めることはできた。ところが、ジーンズの上からでは何も感じられなかった。

(ここまでか) 

 洋は顔を上げて、相手から離れると、ドリンクを飲み干した。その直後、「出ようか」とアツコ。


 午後五時からはファミレスでのバイトが入っていた。洋は大学生や高校生に混じって厨房を担当していた。社員は店長を含めて最大で二人であり、今日は店長と三〇代の男性の社員がいた。洋はおよそ三か月前から始めて、週二か週一でシフトを入れていたが、いまだに皿洗い担当だった。新参者は皿洗いと相場が決まっているようだった。

 ファミレスのバイトは、大学生の頃以来だった。当時は、半年しないうちに辞めていたが、そのことは今でも後悔していた。中年になった今、バイトは金銭を稼ぐという本来の目的ではなく、そうした後悔の念に依るところが大きかったが、それだけではなかった。それは社会に組み込まれているという実感を持てるという点で有意義と言えた。

 ところが、当時もそうだったが、洋はバイト仲間から距離を置かれていた。それは洋が雑談ができない性質のためだった。結局のところ、それは障害かもしれなかった。そう考えれば、無駄な努力から解放される。実際、身内に障害と診断された子供がいるが、自分と似ていると思っていた。

「杉村さん、 だし巻き卵作ってみる?」

 洗い物をしているときに店長から声が掛かった。近々新しい人が入ることになっており、洋は皿洗いを卒業できることになっていた。

「はい、是非」

「坂本さん、だし巻き卵の作り方教えてやって」

 坂本美緒さかもとみおはバイト歴二年を超える、女子大生のベテランバイトだった。バイトの中で、ホールも厨房もできる人は彼女しかいなかった。愛想が良く、仕事ができることに加えて、目元がパッチリした可愛らしい顔だった。バイト仲間にも彼女に好意を寄せている男子がいた。

 洋もまた自分が大学生だったら、好きになったのではないかと思った。今でも好きになりそうだった。自分が坂本さんの恋愛相手になることは限りなくゼロに近いが、ともすると年を忘れてしまいそうになる自分がいた。

 教わっていると、料理を取りに来たホール担当の男子大学生・高橋翔たかはししょうの視線を感じた。彼が坂本さんに好意を寄せていることは社員も含めて知れ渡っていた。洋としてはバイト先で恋愛するのはどうかと思っていた。それは当時の自分がバイト先の子に振られて、バイトを辞めていたからだった。


 その日の夜、洋は自宅――1Kの賃貸アパート――でネット配信をした。それは、生配信であり、洋の顔や部屋の一部がリアルタイムで全世界に配信されるものである。そのことに最初こそ緊張したが、今は慣れて何も感じなくなった。また、そうすることで何か実害を被ったこともなかった。それなりの地位のある人が洋と同じ配信をしたならば問題になる可能性はあるが、バイトで妻もいない洋には無問題だった。配信でどれだけ無知を晒そうが、どれだけスケベな動画を流そうが直ちに不利益を被ることはなかった。洋にとって、配信は赤裸々な自分を出せる、貴重なコミュニケーションチャネルになっていた。

 配信開始から三分くらいで数少ない常連の一人のレッドが来た。レッドは、鳥取在住で、ルートセールスの仕事をしている四〇男という情報を開示していた。洋が今日のネカフェでの顛末を話すと、レッドは〈すごいことするねぇ、スピーノさん〉とコメントした。

〈既婚者にそんなことして、ただで済むと思ってるの。下手したら、訴えられるよ〉

「可能性としては、そうだね。でも、密室で女と二人きりになったら、誰だって同じことするんじゃないかな」

〈でも、56でしょ。そんなBBAにしねーよ〉

「いやいや、年齢は問題ではないよ。でも確かにどこかやっつけというか、ここまで来たんだから、みたいなところはあったけど」

〈会って二回目なんでしょ。スピーノさん焦りすぎだよ〉

「違うな。お互いに目的が同じならすんなり行けたはずなんだよ。ぼくは、彼女がそれを求めているという可能性に賭けたんだが、違ったんだろね。相手のことが好きとか、そういう感情はないけど、どこかビジネスライクにヤれるかなと思ったんだよ。相手にもニーズがあるとすればね。でも、きっと彼女はぼくが思っている以上に貞節だったんだろうね」

〈貞節というか。彼女は離婚されたら生きていけないでしょ。だとしたら、そんなリスクの高いことするわけないでしょw〉

「一理あるけど、どうかな。バレるリスクはないでしょ。それでも、罪悪感を抱えることになるかもね。でも分からないな。カラダを求められることはないと思っていたのかな。こっちは、自分に都合よく考えるからね。つまり、会ってくれるということはOKという意味だって」

 ややあって、レッドのコメントがあった。

〈年齢が年齢だからセックスを求められるなんて想定外だったんじゃないの?〉

「そうかな。最初に会ったときは、すごくめかしこんでて、十分に女を感じたから、相手もその気だったと思ったけど。でも、今日はそうでもなかったんだよな。地味というか」

〈じゃあ、最初に会ったときにあまりいい印象じゃなかったんじゃないの?〉

「そうかな〜、そうでもなかったと思うけどな」

〈だったら、最初に会ってから今日会うまでの間に、何かあったんじゃないの?〉

「それはあり得る。実はYouTubeにアップしている生配信の動画教えたんだよね。それ見て失望したという可能性は大いにあり得るね」

〈教えたんかいw そりゃだめだ〉

「やっぱだめだよね」


 配信を終えると、洋はアツコに今日の行いを詫びる内容のLINEを送信した。それは、確かに醜悪な行動だったが、アツコとヤろうとすることの醜悪さと地続きだった。そこには、打算や効率が働いていた。まず、振られてもあまり痛くない相手であるいうこと、また時間帯の制約のため簡単には会えないのだから、会っている時間から最大のものを引き出そうとする姿勢。それは親密な関係を目指すという王道のセックスへのアプローチとはまったく異なる、もっぱら性欲のみに端を発する態度である。洋は、自分が性欲に支配されていることを認めざるを得なかった。それこそが宿痾のようにこの二〇数年にわたり洋に苦渋と失望をもたらしてきた原因だった。否、それだけではなかった。人を傷つけ、関係を壊した原因でもあった。一九歳の頃、幼なじみの同級生をレイプしたことがあった。ここ数年そのことがやたらと気になり、相手の許しを得ることが目下洋の目標になっていた。そこで、洋は、幼なじみで友人の伸也しんやに自分の悪行を話したのだった。



 およそ三年前に洋が四月に帰郷する折に、飲みたいとメールで伸也に伝えると、伸也が指定したのは、隣町の居酒屋だった。そこは最寄りのバスの停留所から徒歩五分程度の、海の近くにある店だった。洋が小上がり席のふすまを開けると、伸也はビールを飲みながら、タバコをくゆらしていた。

 同窓会以来およそ一〇年ぶりに会う伸也は、中年体型になっていた。洋もまた腹囲が年々増えていたが、伸也は洋以上だった。とはいえ、四〇半ばなら伸也の体型はごく普通だった。それは結婚して子供がいることを反映しているように洋には思えた。

「まま、駆けつけ一杯やらんか」

 お互いの近況を話し合った。伸也はかれこれ二〇年以上にわたり、施設で介護の仕事を続けており、今や管理職になり二児の父になっていた。

 刺し身、サラダ、焼鳥、天ぷらなど豪勢な料理が振る舞われた。酒は、ビールの後は、地酒の日本酒を選んだ。

 やがて話題は女関係に移った。女関係とは独身である洋だけの話題である。洋は出会い系アプリで知り合った女性に振られたばかりだった。厳密には振られていないが、返信が帰ってこなくなった。

「あまりうまく行ってないな」

「女関係はどうなっとるの?」という質問に答えて言うと、ずっと話すタイミングを見計らっていた洋はここぞとばかり、温めていたネタを持ち出した。

「それよりも過去の女関係が気になってるんだ」

「というと?」

「実は……」

 洋は以前同級生で共通の友人である青柳美穂あおやぎみほをレイプしたことを話した。

 洋が話し終えると、伸也は「吸っていい?」と言ってからタバコの煙をくゆらせた。沈黙が重かった。友達とは言え、何でも受け入れられるわけではない。

「まあ、若い頃はよくある話じゃね。おれはないけど。それで? おれにその話をしてどうするの?」

「伸也は美穂と仲良かっただろ? 連絡は取ってる?」

「そう言えば、もう何年も取ってねーな」

「そうか」

「最後に会ったのは、二〇代の頃かな。偶然、佐和田さわたのジョーシンで会ったことがあるよ。彼氏か旦那と一緒だった。今はどこで、何してるのやら。美穂と連絡取りたいの?」

「そうだね。まあ、ぼくももう人生の半分は終えているわけで、このまま死にたくはない。彼女には悪いことしたから、謝りたいと思ってるんだ」

「へぇ~、それは殊勝というべきかな」

「君なら彼女の連絡先知ってるかなと思ったんだが」

「知らんよ。でも、力になろう。今年か来年同窓会を開く予定だから、あの子の実家に連絡して、連絡先聞き出してやるよ」

「そうか。それは助かる」

「でもよぉ、レイプとはな。まあ、二人で会う時点で何かあるとは予感してたけど、まさかね」

「伸也には、人に言えない秘密ない?」

「ああ、まあそうだな。嫁に言えないことはあるよ。特に昔のことで。……レイプではないけど、性犯罪になるようなことはある」

 伸也はそう言うと、声を上げて笑った。



 六月に洋はおよそ四年ぶりに女性と同衾した。濡れたヴァギナはやはり感動的だった。自分よりも四歳年下の鈴木美沙子すずきみさことは、Tinderで出会ったのだった。美沙子は、決して美人とは言えないが、惹かれるところはあった。それは例えば、笑顔だったり、優しさだったり。

 美沙子との間には、四年前に出会って、その日のうちに同衾した浅倉文あさくらあやとの恋愛で体験した最大瞬間風速はまったくなかった。文との恋愛で、洋は天国と地獄の両面を体験した。非常な魅力を備えた文に夢中になり、その最中にある種の「事故」によって振られたのだが、その苦痛たるや最大の苦痛である友人や肉親の死に匹敵するものがあると思っていた。もうリアルで会うことが未来永劫叶わなくなる死別よりもマシと言うこともできたが、そこには死別にはない要素があった。それは相手が自発的に離れたことである。そのために、悲しみだけでなく、恥辱をも感じた。

 美沙子は文に比べればそれと分かる魅力は乏しかった。しかし、だからこそ付き合える気がしていた。文に対してはとにかく嫌われるのが怖くて、どこか無理していた(結局、女性の美しさは、暗黙裡に男性にプレッシャーをかけるものではないだろうか)。他方、美沙子には精神的な余裕を持てた。それは、虚栄心を満たすことができないことの代償だった。性欲を除けば、虚栄心こそが、男を美しい女性との交際に駆り立てるものである。そうした認識を経て、洋は虚栄心を捨てることこそが女性と関係を持って、それを維持できる唯一の道ではないかと考えるようになっていた。それは年齢の問題も大いに関係していた。四〇オーバーの女性に、二〇代の女性と同じものを求めることはできない。四〇ともなれば、もうとっくに美しさのピークを過ぎている。洋はずっと女性に美しさを求めていたが、それはセックスで興奮したいためでもあった。ところが、セックスももう若い頃のようにできなくなっている。もう若い頃ほど性の喜びを感じられない年齢だとしたら、セックス以外に女性に求めるものの比重が高くなるのは当然ではないだろうか。

 洋は日曜の夜、チェーン店の中華料理屋で美沙子にLINEを送った。今何をしてるかを相手に送ることで、いつでもつながれるのは、ネットとモバイル端末が普及した現代ならではである。距離を超えた新しいつながりを享受できる現代は、カップルにとって喜ぶべきことではないだろうか。

 洋が自宅でNetflixのドラマを見ているときに、LINEの着信があった。それは、正月以来の伸也からのメッセージだった。

〈おひさ。今年の夏、同窓会やるからよー。来いよ〉

〈あーそうそう。美穂ちゃんだけど、連絡先わかったぞ。よかったな〉

 次に会場と日時を記したメッセージが続いた。お盆シーズンに地元の会場での開催だった。

〈久しぶり。連絡ありがとう。それで、彼女は同窓会来るの?〉

〈まだわからん〉

 伸也からすぐに返信があった。最後に会ってから三年以上が経ったのに、同窓会開催の段取りをつけて、美穂のことも覚えていてくれたことに感謝の念を覚えた。彼女と和解できれば、今の相手である美沙子との関係にも影響があるのではないか、と洋は考えていた。例えば、今、彼女に美穂のことを話すことはできない。本当は話したほうが良いのだろうが。親密な男女間に秘密は要らないから。ところが、もし和解できれば、話すこともあり得る。そうして、美沙子に自分の汚点も受け入れてもらうことができれば、よりいっそう関係を深めることができるのではないだろうか?

 そうした思惑が利己的にすぎることは認識していた。しかし、そもそも美穂に会おうとすることが、どう転んでも利己的にならざるを得なかった。彼女が自分と会いたいなどどうしたら思えるだろうか? 被害者が加害者に会いたいはずがない。本当にすまないことをしたと思っているならば決して相手の前に現れないようにすることが筋ではないだろうか。美穂に会いたいのは結局、今でも彼女に美貌や性的な魅力を期待しているからだった。

 それは洋が美穂に恋慕した状態で時が止まったから当然なのかもしれなかった。あれからおよそ四半世紀の年月を経て、美穂への気持ちが賦活するなどということがあり得るだろうか? それがまたしても不幸な結果を招くとしても。しかし、そのこと自体は貴重な体験である。結局、洋は美沙子に恋慕してはいなかった。それは美穂への思いに照らせば、明らかだった。



 美穂とは中学入学時に出会ったのだったが、親しくなったのは、一九歳の頃だった。ちょうど夏休みに地元に戻った折に伸也と海水浴に行ったときに、美穂と出逢ったのだった。美穂の青いビキニが眩しかった。一緒にいたもう一人の子は、短大の同級生だった。そのときは四人で、海で過ごした後、飲みに行ったのだった。

 次に美穂と会ったのは秋口で、場所は渋谷だった。彼女の要望で渋谷・原宿の服屋に行ったのだった。

 何軒か服屋を回って、美穂はスカートとトップスを購入した。その後、原宿のカフェ(洋には敷居が高かったオシャレカフェ)でお茶しているとき、美穂は気になっている異性がいることを話した。その人とは、合コンで知り合ったのだという。洋と同じ大学の学生だった。洋はその話を聞いて、失望したが、美穂が自分と会っていることに希望を見出していた。

「まあなかなか良さそうな人なんだよね。デートに誘われてるんだ」

「で、OKするの?」

「もうした」

 美穂はそう言って、笑いかけた。それは自分に対して「お生憎様」という意味なのか、と洋は思った。

(でも、今、自分も美穂とデートしているのだから。自分にも目はあるはず)

「幸運を祈るよ」

 洋は余裕を見せたくて言った。


 その後、洋は美穂を何度か誘ったが、会ってくれなかった。次に会ったのはクリスマスを翌週に控えた肌寒い一二月半ばの日だった。美穂から連絡があったのだった。今度は夜の新宿で会った。美穂はタイトなスカートにタイトなニットにダッフルコートという出で立ちで洋は見惚れた。

 二人は、チェーン店の居酒屋に入ると、店員に案内されて、大きなテーブル席に横並びに座った。

 ビール片手にお互いに近況を話し合った。洋は一般教養課程だったが、勉強が面白いとはあまり感じられなかった。大教室で講義を聴いていたが、興味が持てるとはあまり思わなかった。洋がそうした感想を口にすると、「もったいない。せっかく苦労して大学入ったのに」と美穂。美穂は服飾の学科で学んでいたが、勉強は面白いということだった。「将来はデザイナーになりたくて」と美穂。それは消去法で経済学部を選んだ洋とは対照的だった。短大よりも大学に入るほうが難しいだろうが、目標があるのとないのとでは充実感は全然違うだろう。大卒という肩書は社会で有効と聞いているが、それを手に入れるのが目標というのは、あまりに空疎ではないだろうか? そもそも会社で働ける自信が洋にはまったくなかった。しかし、順調に行けばあと四年足らずで否応なしに社会に放り出されるのだ。そのときは、何らかの選択をしなければならないだろう。

「洋くんは、将来どうするの? やりたいこととかあるの?」

「あ~、それは、今考え中だね」

「そっか。まあ、まだ時間あるしね」

「結局、大学入ることが目標になってたからその後のことまで考えてなかったんだ。本当は君のようにやりたいことがあって、学校を選ぶというのが本来の順番なんだよね」

「そうだね。でも、一八でそこまで決めてる人は少ないよ」

「うん、まあ、でも、今後数年で社会に出ることになるわけだから早く自分の道を決めるにこしたことはない」

「……よくあるパターンは、会社に就職だけど、洋くんがスーツ着て出勤とかあまり想像つかないな」

「それはぼくも思う」

「何か自分に合った専門職を探したほうが良さそうよね」

「うん、そうだね」

 洋はそう言ったものの、自分に何ができるか皆目検討もつかなかった。ただ、女が好きで、女とヤリたいだけの男に何ができるだろうか?


 美穂がトイレから戻ってくると、ふわりといい香りが漂った。洋は、今日ずっと訊きたかった質問をついにした。

「クリスマスはどうするの?」

「実は予定ないんだ」

「前言ってた人とはどうなったの?」

「ちょっと付き合ったんだけどね。別れたわ。束縛がキツくて」

「じゃあ、ぼくと会ってくれる?」

「う~ん、そうね。一人で過ごすよりはいいか」

 美穂は手に持っているドリンクの入ったグラスを見ながら、言った。その言葉に洋はしたたか傷ついたが、結局のところ「イエス」という答えであれば、それは希望をつなぐものであった。


 クリスマス・イブの新宿は異様な人出だった。二人は新宿南口からほど近いパスタ屋に入ろうとしたが、少なくとも数一〇分は待たなければならなかった。

「どうする?」

 美穂は眉間にシワを寄せてこちらを見た。洋も待ちたくはなかった。

「……どこも混んでそうだね。たぶんぼくの家の近所なら空いてると思うんだけど、そこで飲むのはどう?」

 美穂は考え込んだが、最終的にはOKした。

 電車に揺られること約四〇分で多摩地区の駅に降りた。

 二人で駅前のピザ屋で飲み食いした後、洋は自分の部屋で飲み直すことを提案した。

「そうね。まだ早いし、飲み直そうか」

 美穂が自分の部屋に入ったとき、むさ苦しい貧乏学生の部屋が一気に華やいだ。自分だけでなく、本棚やテレビまでもが彼女の存在を歓迎しているようだった。美穂の眼差しに晒されるすべてのものが、そのライフサイクルの頂点にあるように思えた。

「へぇ〜、結構キレイにしてるんだ」

「まあね、キレイ好きだから」

 そのとき美穂は自分を見て、フフっと笑った。その笑いは、彼女がその言葉の言外の意味(つまり、キレイな女の子が好きだという意味)に気づいたことの合図のように思えた。

 二人は正方形のローテーブルのコーナーを挟んで座ると、缶ビールで乾杯した。洋は一人暮らしを始めて以来、最大の幸福を迎えたと思った。  

「それにしても、洋くんと東京で飲む日が来るなんて思ってもみなかった」

「ぼくもだよ。夏に海で会わなかったら、飲むことはなかっただろうね」

「だね。ほんと縁って不思議よね」

「……うん、ぼくはむしろ運命と捉えたい」

「アハハ、『運命』なんて大げさな」

 軽く流されたが、洋にはその言葉も嘘くさくなかった。それは、自分が今、最高の相手と童貞卒業という記念すべき瞬間を迎えようとしているためだった。AV《アダルトビデオ 》やエロ本の世界でしかなかったセックスと、恋している相手との幸福な結合。それは、まさに夢✕夢であり、現実とは思えなかった。そうなったらもう、彼女と添い遂げるくらいの思いでいた。洋は溢れんばかりの美穂への思いを伝えようか迷っていたが、「テレビでも見ようか」という言葉により掻き消された。


 二人でテレビを見たり、音楽を聴いたりしていると、夜が更け、電車がなくなる時間になった。洋は時間を気にしながらも、女に帰ってほしくなかったので、時間のことは口にしなかった。

「もうこんな時間か。そろそろ寝る?」

 美穂はまるでカップル同士の会話のようにテレビを見ながらそう言った。そのとき、すでに日付が変わっていた。

「ああ、そうしようか」

 洋は昂奮を抑えて応えた。

(ああ、ついにこのときがきた。大勝利だ)

「じゃあ、何か着るもの貸してよ。この服で寝るのやだし」

 そう言うと、女は歯磨きをしに、洗面所に向かった。洋は洋服ボックスの中を漁って、寝間着になるものを渡した。それは部屋着にしているグレーのスウェットだった。

 洋は、キッチンで着替えて目の前に現れた美穂に感動した。自分の服が女の素肌に密着していることが、すでにセックスの前戯を連想させた。

 洋は美穂が着替えている間に一組しかない布団を敷いていた。それを見ると「他に布団ないよね?」と美穂は残念そうな顔をした。冷水を浴びせかけられた洋は、言葉が出てこなかったが、女は「しょうがないか。じゃあ、おやすみ〜」と、布団に潜り込んだ。

 考えられる限りで最大の快楽の源泉に手を伸ばせば触れられる今、何もなしに寝ることは不可能だった。すでに一物いちもつ が勃起しており、トランクスを突き上げていた。パンツ一枚になった洋はこちらに背を向けている女の尻を撫でた。

「もう、やめてよ。そんな気にはなれないから」

「えっ、じゃあ、なんで家に来たんだよ」

「だってわたしたち友達でしょ」

 美穂はこちらを向いて言った。

「おれはそんな風に思ってない。好きだよ。美穂さんのことが」

「……あ~あ、来なきゃ良かった」

 その言葉は、悲しみと怒りの奔流を生み出し、洋が先程まで抱いていたはち切れんばかりの期待を暗い衝動に反転させた。

「もう遅いよ!」

 それからは、無我夢中だった。男は欲望のままに女の身体に覆いかぶさり、そのすべてを味わった。小さな白いパンティ、小ぶりな乳房、細い腰、白い肌、薄い陰毛。それらは暗闇の中で宝石のように輝いていた。

 挿入後は何度か動いただけで射精した(コンドームはしていた)。洋が体を引き剥がすと、美穂は「シャワー浴びてくる」と言ってバスルームに行った。洋は冷静になると、自分がやってしまったことに慄いた。レイプだったのか、と自問したが、そうとしか思えなかった。

(なんということをしたんだおれは)

 しかし、この状況で第三者にレイプだと主張することは無理ではないか、とも思った。彼女は自発的に夜、家に来て、泊まったわけであり、それが性交の暗黙の同意を構成するという見方は、決して飛躍が過ぎるとは言えないはずだ。とはいえ、愛のあるセックスではなかったことは間違いなかった。美穂は決してキスに応じなかったし、最中はただ嵐が過ぎるのを待っているような顔をしていた。

 美穂は戻ってくると、「今度こそ寝かせてよ」と言って布団に入った。

 二人で隣り合って寝ているとき、「なんか無理やりしてごめん」と洋は謝った。「いいから、しゃべりかけないでよ」と美穂はこちらを見ることなく言った。



 およそ四半世紀ぶりに会った美穂は、静かな水面のような美を湛えていた。彼女にとって、加齢は必ずしも魅力を減ずるものではなかったと言えた。

 会場は居酒屋の座敷席だった。およそ二〇人くらいがコの字型に配された座席に着いた。洋は同窓会開始から数分で美穂の隣に移った。

「久しぶり」

 美穂が先に言った。笑顔だった。洋の緊張が解けた。

「久しぶり。元気そうで安心したよ」

「洋くんも」

 お互いに近況を話した。美穂は子供が二人おり、主婦業に加え、郵便局でバイトをしていた。

「勝ち組の人生を送ってるね」

「そう? それを言ったら、洋くんもそうじゃないの?」

「そうは思わない」

「結婚してないから?」

「……そうではないけど。若い頃の夢を諦めたから」

「若い頃の夢って何?」

「DJになること」

「DJって。クラブの? そんな夢があったなんて、初めて知ったよ」

「一時期、練習してたんだけど、才能ないから止めた。まあ、妥協を重ねることなんだよな。年を取るってことは」

「ほかには? 妥協を重ねるだけ?」

「受け入れること」

「分かる。それは諦めることとも言えるよね」

「そして、忘れること」

「忘れること、ね。でも、忘れられないこともある」

「確かに……」

「洋くん、わたしに言うことないの?」

 美穂は急に真顔になった。洋は不意を突かれた。

「……ある」

 次の瞬間、美穂は徐に立ち上がると、全員に向かって声を上げた。

「ハイ、皆さん注目! 杉村洋くんがわたしに言うことがあるそうです。さぁ、どうぞ!」

「お、いいぞ、愛の告白でも何でも言ってやれ」

 ヤジがあった。予想外の展開に、心臓の鼓動が早まった。

「バカか! 皆んなの前で言えるわけないだろ」

 洋は膝立ちになると、冷然と自分を見下ろす美穂に向かって、声を潜めて言ったが、彼女は突き放した。

「なんで? 自分がわたしにしたことを皆んなの前で言いなよ。何の代償もなしに罪を償えるとでも思ってるの? そんな虫がいいことないよ」

 洋は初めて美穂が今なお自分の行為を憎んでいることを知った。同級生の面々が洋に注目していた。

(嘘だろ。こんな展開になるなんて)


 ピピピ、ピピピ――。目覚まし音で目が覚めた。


 その日の夜の同窓会には結局、美穂は来なかった。洋は落胆したが、安堵もした。伸也から美穂の住所・連絡先を教えてもらった。美穂は川崎市に住んでいた。彼女の住所は、洋の家から一〇キロも離れていないと思われた。

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