相良くんと赤羽さん

相良くんと赤羽さん

「相良くん、キスをしたことはある?」

 赤羽さんが突然そんなことをいった。

 夕方。赤く染まる放課後の理科室。ぼくと彼女ふたりだけの科学部の活動。

 そういう話をするには絶好のシチュエーションだと思う。

 けれどこうした状況になるのはなにも今日がはじめてというわけではない。

「どうしたの急に」

「いいから答えなさい。あるのかないのか。質問はすでに拷問へと変わっているのよ」

 赤羽さんが作りかけのカルメ焼きが乗ったおたまをぼくに向かって突き出してくる。後ずさりしてかわさなかったら首に焼き印を押されるところだった。やばすぎる。

 拷問されてはたまらないので早々に答える。

「ないこともない」

「……ふうん。そう」

 とたん、ふいと顔を背けてカルメ焼きの焼成に戻る赤羽さん。長い黒髪を耳にかける仕草で綺麗な横顔があらわになる。一心不乱に手元を見つめて、唇は真一文字に結ばれている。

 わかりやすくへこんでいる赤羽さんの隣に座る。彼女が見つめるおたまの中はすでに真っ黒に焦げている。あいまいな記憶を頼りに作り始めたものだからこうなった。そもそも重曹が必要なのに用意しなかったのでこれははじめからカルメ焼きではない。じゃあなんなのかというとまあ、炭と呼ぶのが妥当だろう。赤羽さんとぼくは炭を生成している。

「はじめては保育園のころだったかな」

「勝手に話し始めないで」

「ぼくはいやだったんだけどむりやりされちゃって」

「聞きたくない」

「何度もされた。中学くらいまでは続いたと思う」

 ようやく赤羽さんがぼくを見た。というかにらんだ。

「それで?」

 険のある声。赤羽さんの敵意。けれど向けられているのはぼくではない。ぼくの後ろ、ぼくの過去の上に立つ人物を狙っている。

 彼女のそんな怒りにぼくは救われている。

「本当にいやだったんだ。タバコと酒臭い口が。唇を舐めまわす舌が。よだれの生臭いニオイが」

 赤羽さんの射抜くような瞳に昏い炎が宿る。

「でもいやがるほど喜ぶんだよ。そしてなぜかぼくが悦んでいたことにされる」

「クズね」

 そう吐き捨てて勢いよく立ち上がる赤羽さん。そしてシンクに近づくと、水を張ってあったビーカーの中におたまごと炭を放り込んだ。あ、と思ったときにはじゅわっ、という激しい音とともに白煙が上がっていた。ごぼごぼと音がして、焦げ臭い香りが鼻孔をつく。

「相良くんのおとうさんってほんとゴミクズ」

 赤羽さんは父がぼくにしてきたことを知っている。

「ぼくもそう思う」

「でもあなたにもむかついてる」

「え?」

「わたしをわざと怒らせようとしてる」

 見抜かれていた。ばつが悪くなって、でもどうすればいいかわからなくて、結局あいまいに笑って「ごめん」と告げることしかできなかった。赤羽さんは無表情のまま近づいてくる。

「いいよ」

 あっさりと赦された。そしてぼくを背中から抱きしめてくる。

「同罪。聞きたがったのわたしだから」

 赤羽さんはぼくの肩口に顔をうずめて「わたしこそごめんね」とつぶやく。

 ぼくは首を振り、「聞いてもらえてよかったよ」と答える。

「……上書きしようか」

 そう耳元で囁かれ、真横にある赤羽さんの顔を見た。真剣な目をしている。

「いまさらだね」

 思わず笑ってしまった。

「もう何度も上書きされてる気がするけど」

「何度だって上書きしようよ」

 そういってぼくの返事も待たず彼女は唇を重ねてきた。

 やわらかく触れ合うだけのキス。ちゅ、ちゅ、とついばむように繰り返したあと、吐息を漏らし離れていく赤羽さんの顔は惚けたような表情をしていた。その表情が美しくて、艶めいていて、胸が苦しくなって、ぼくは思わず彼女を追いかけて再び唇を合わせるとその口の中に舌を割り入れ──

 ──そうしたい衝動を抑えて口にする。

「でもぼくたち付き合ってないよね」

 赤羽さんが再びキスをしてくる。彼女の舌がぼくの唇を舐めるように触れた。顔を離した彼女の口から、自身の唇をちろりと舐める桃色の舌が覗く。

「だから?」

 ぼくを抱きしめていた腕が解かれたかと思うと、今度は膝の上にまたがるようにして対面に座り、両腕をぼくの首に回してきた。華奢で軽い赤羽さんの体。けれどぼくの体に押しつけられる彼女の胸は存在感があった。

 再び重ねられた赤羽さんの唇から、ぼくの口内にぬるりと温かいものが侵入してきた。

 頭の芯を快感が駆け上る。

 唇を合わせる。舌を絡ませる。ただそれだけのことがこんなにも気持ちいい。

 キスをしたことがあるか。

 当然、イエスだ。ぼくにキスをしたのは赤羽さんだ。だからあの質問はこう聞いていた。

「わたし以外とキスしたことある?」

 ぼくの「ないこともない」という回答に彼女は傷ついた。

 けれどぼくたちは付き合っていない。

 告白したけどふられた。

 より正確に述べるなら、キスをされて、好きになり、告白したけどふられた。でもキスは今もされる。

 なぜキスをされたのか。なぜ今もキスされるのか。ぼくは赤羽さんのことがよくわからない。

 好かれていない、ということはないようには思うけれど、ぼくから彼女を求めることはない。彼女が始めないかぎり。それだけがぼくと赤羽さんの間の、ぼくが勝手に決めたルール。

 簡単な話、ぼくは動けなかっただけだ。この関係が終わってしまいそうで怖かったから。

 気づけば呼吸も忘れるほど互いの舌を吸い合っていて、「──ぷあっ」と息継ぎしたときにはぼくも赤羽さんも呼吸が荒くなっていた。

 赤羽さんはなんだか泣きそうな表情で「ごめんね」と口にした。

「なんで?」

「さっきの質問。いやなこと聞いた」

「ああ。気にしなくていいのに」

「ごめん」

 訂正。赤羽さんは泣きそうな表情というか、泣いている。ぼろぼろと涙を流して怒っている。

 愛おしくなって、彼女をぎゅっと抱きしめる。すぐにしがみつくように抱きしめ返される。つややかでやわらかな髪を撫でる。背中をさすると薄いシャツの下にあるブラジャーの感触に気づき、慌てて意識の外へ追いやる。

 赤羽さんは賢いから、ぼくが「ないこともない」と答えた瞬間にわかっただろう。その相手がだれだったかということが。

 だから怒ってる。過去のぼくを傷つけた相手に。その記憶を呼び起こすような質問をした赤羽さん自身に。

 そんなこと、いまさら聞かれたって赤羽さんなら気にしないし、ぼくが傷つけられてたとしても赤羽さんが怒ることじゃないと思う。

 でもやっぱりどこか、彼女が怒ってくれることに安心する自分もいて。

 ぼくは卑怯だなと思いながら、赤羽さんともう一度キスをする。

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