リアムの望みは

 一口しか飲まれなかった紅茶のカップを、リアムは持ち上げた。


 手順としては間違った淹れ方はしていない。けれど、どうにも心の籠っていない茶だ。ヴィクトリアには絶対に出さないだろう。


 ギルバートたちがティールームを出た後、リアムたちは片づけを始めた。遠くで授業開始の鐘が鳴る。ほかの従者やメイドから同情の視線を受けながら、リアムはため息を飲み込んだ。


 あの王子たちは、リアムもここの生徒だということを覚えていないらしい。


 だが、リアムは片づけを終わらせないとティールームを出ることができない。ギルバートが片付けを命じて行ったからだ。


 ほとんど無理やり結ばされた、リアムとギルバートの血の契約。条項は一つだけ、二人が明確な主従であること。


 本来ならば、ここに「意に沿わない命令は拒否できる」「法に反する命令は無効となる」などの条件が加えられなければならないのだ。給与の支払いや勤務時間まで指定することもできる。


 ヴィクトリアと結んでいた契約には大量の条件が書き加えられ、保管のために巻いたスクロールがそこそこの固さを持つくらいの量になっていた。それらはすべて、リアムが自由に生きられるようにと、ヴィクトリアが真剣に考えてくれたものだった。


 だが、今の契約において、リアムの自由はない。


 心は縛られていない。けれど、命令に反することはできない。意思とは関係なく動く体はとてつもなく不愉快だった。


 王族が結ぶ血の契約は、すでに決まった形式がある。王宮に仕える者たちが不公平にならないよう、一律に同じ契約を結ぶのだ。学園の授業ではやらないから、知らない者が多いだろう。リアムは自分が血の契約を望んだ時に、アイラ公爵から教えてもらっていた。


 王家から出る予定のギルバートには、血の契約を必要とする側近がいない。血の契約を結ぶのは今回が初めてだったのだ。よって、既存の形式ではなく自分で構築した術式、条項で契約してしまった。


 あの時のリアムに、拒否できるはずもなかった。


 ギルバートについて学園を歩いていると、遠目にヴィクトリアを見る機会がある。表情を取り繕ってはいるが、リアムの目にはかなり憔悴しているように映った。


 今のリアムの状況が、ヴィクトリアの心労になっている。それだけ大切に思われていることが嬉しく、心苦しい。


 リアムが望むのは、ヴィクトリアの幸せだ。あんな顔をしているところは、見たくない。



(お嬢様の幸せのために、今の私ができることはなんだろう)



 カップに波打つ紅茶をバシャリと捨てた。






 物心ついた時には、もうリアムはスラム街にいた。その頃はまだ『リアム』という名前もなく、ただ薄汚い道端にうずくまっている子供でしかなかった。


 保護のない子供が、スラムで生きていくのは至極難しい。周囲にいた数少ない同世代は日ごとに消えていった。それを何とも思わない、むしろ自分の分の食い扶持が増える、とまで考える、荒んだ生活だった。


 リアムがそんな環境で生き残っていたのは、ひとえに顔が良かったからだった。


 スラムにいる女たちは、綺麗な顔をしているリアムをどことなく贔屓してくれた。もっとも、そんな彼女たちもコロコロと顔ぶれが変わっていたけれど。


 スラム街では純粋な暴力こそが権力だ。女と子供は等しく搾取される側であった。


 リアムはやがて、腕っぷしだけが自慢の連中に、拠点の置物として連れて行かれた。


 仕事もなく、ゴミを漁るしかないような小さな子供が、歪んだ形ではあったがようやく庇護を得た。辛うじて食べる物はもらえたし、雨風が凌げる場所で眠ることもできた。


 求められたのは、綺麗な顔で笑って立っていることだけ。


 連中にとっては、ほんの気まぐれ、少し家に飾りが欲しいとか、周囲に力を見せびらかしたいとか、そういうことだったのだろう。


 その程度の考えでリアムを連れてきたのだから、連中がリアムに飽きるのもあっという間だった。


 少しずつ暴力を振るわれることが増え、けれど置物として常に笑っていることを強要された。顔だけは殴られなかったが、首から下はボロボロだった。


 そして、怪我で立っていられなくなると、道端に捨てられた。


 多分ここで死ぬのだろうと、考えたのを覚えている。


 助けなどある訳がない。世界はただ苦しいだけの場所で、女たちが語るような温かい幸せなどないのだ。


 死ぬために生きているのなら、生まれてきたことに意味なんてない。なのに何故、この体はまだ息をしているのだろう。


 ヴィクトリアと出会ったのは、そんな時だった。


 雨が降っていた。体の半分を泥に浸したリアムは寒さに震えていて、怪我の痛みはどこか遠かった。



「まあ、なんて美しいの」



 雨除けのボロ布を頭から被った小さな子供が、リアムを見下ろしていた。


 倒れ伏したリアムからは、ボロ布の下で紫の瞳がきらきらと輝いているのが見えた。綺麗な顔をしている。スラムの外の人間だと気づいた。



「あなた、わたくしの傍に侍ることを、許してあげるわ」



 伸びてきた傷一つない指先が、汚れることも厭わずにリアムの頭を撫でた。


 抵抗などできる状態でもなかったリアムは、彼女の隣にいた大人が命じるまま、スラムから連れ出された。


 びっくりするくらい大きな屋敷で、怪我の手当てを受けた。


 何もかもが初めての経験だった。ふかふかのベッド、温かい食事、清潔な服。屋敷に来て少ししてから熱を出したリアムに、ヴィクトリアは時折寄り添った。


 後にして思えば、公爵家の令嬢が、わざわざ拾って来たスラムの子供の看病をするなんて、前代未聞だろう。使用人に混ざってリアムの汗を軽く拭くくらいだったが、普通の令嬢はあんな薄汚い子供には寄り付かない。


 けれどあの頃は、そんなことを考える余裕はなかった。熱にうなされながら、何故優しくするのかと尋ねると、ヴィクトリアは嬉しそうに笑った。



「わたくしは、美しいものが大好きなの。あなたほど美しいものは初めて見たわ。だから、傍に置いて大切にしたいのよ」



 スラムにいた連中と同じだ。綺麗な顔を眺めていたいから。だったら笑った方がいいのかと、笑みを浮かべてみたけれど。


 ヴィクトリアは嫌そうな顔をした。



「やめて。わたくしはあなたの自然な姿が見たいのよ。無理やり作った笑顔なんて美しくとも何ともないわ」



 笑うなと言われたのも初めてだった。



「あなたが倒れているのを見て、すっごく感動したのよ。嘘の顔なんていらない。好きなように怒って、泣いて、喚いているところも見てみたいわね」


「それは……、ひどくないか」


「あら、そうかしら。だってあなたが絶望していたのは、本当は生きたいと願っていたからでしょう? 感情そのままの姿って、素敵だわ。それに、死を望む人間を助けてあげるほど、わたくしは優しくはないのよ」



 つんとすまし顔で言う言葉が、随分大人びてるなと思った。



「ねえ、それより。あなたのお名前は? 呼び名が無いんじゃ、生活に困ってしまうわ」


「無い。知らない」


「……そう。ならばわたくしが付けてあげる。そうね……。リアム、はどうかしら? わたくしの名前から音をあげるわ」



 命を救われた。名前を貰った。温かくて安全な場所で、明日は目が覚めないかもしれないなんて心配をしなくていい。


 ぐっすりと眠りにつく日々を差し出され、それが純粋な好意からなのだと分かったら。


 心を動かされても仕方がないと思うのだ。


 熱が下がる頃には、ヴィクトリアが言う「傍に置きたい」が、スラムでのこととは違う意味を持つと分かっていた。


 いつでも観賞できるように放置するのではなく、綺麗に磨かれ、飾り立てられ、大切にされる。そこには間違いなく愛情があって、向けられる視線はひたすら優しかった。


 ヴィクトリアに望まれ、交流するうちに、彼女に恩を返したいと願うようになった。アイラ公爵はそうなることが分かっていたとでも言うように、リアムに魔力の検査を受けさせ、すぐさま養子の話を整えてくれた。


 魔力を持っていると知って、リアムは初めて自分の生まれに感謝した。いくら本人に望まれたからといえ、ただの平民ではできることが限られる。貴族家の養子になれば、もっと近くで仕えることができる。ヴィクトリアが望む通りに。



「ヴィクトリア、お嬢様」


「なあに、リアム。ふふ、従者姿が板についてきたわね?」



 覚えることはいくらでもある。護衛として、従者として、彼女の一番傍に仕える人間として。お茶の淹れ方も、戦い方も、教養も、作法も、言葉遣いも。


 できることはなんでもやりたいと申し出た。アイラ公爵は少し呆れたように笑っていた。


 拾われて一年ほど経った頃、勉強や稽古に明け暮れるリアムを、ヴィクトリアが連れ出してくれた。


 馬車で向かったのは、あのスラム街。見る間に緊張したリアムを見て、ヴィクトリアは笑った。



「わたくしは、美しいものが大好き。そして、醜いものは大っ嫌い! それでね、考えたのよ。リアムを苦しめたあの場所を、どうしたら美しくできるのかしら、って」


「お嬢様……」


「お父様に相談してみたら、難しい問題だって言われたわ。あの街に手を入れて、場所を整えることは簡単よ。けれど、あそこに住んでいる人々は、場所を変えてまた同じ暮らしを続けていくだけなんだって」



 公爵家で教育を受けている最中だったリアムにも、なんとなくそれは分かった。


 スラムで暮らす人々は、貧しく、まともな職にもつけず、一日を生きるだけで精一杯なのだ。あそこにいた子供たちは、口減らしのために捨てられた者ばかり。見た目だけを綺麗にしたところで、人が変わらなければ意味はない。



「わたくしはお花を見れば心が安らぐから、お花を植えてはどうかと言ってみたの。けれど、お金が無くて生活に余裕がない人は、お花を見たってどうとも思わない、ってお父様が。わたくしは生まれが恵まれているから、お花を愛でる余裕があるのだと」


「そう、ですね。おれ……じゃない、私も公爵家に来るまで、花の美しさなんて知りませんでした」



 そうなのね、と悲しげな顔をしたヴィクトリアは、けれどすぐにリアムと手を繋いで、ふわりと目を細めた。



「だから、わたくしはあそこに植物園を作ることにしたのよ。スラムにいる人たちに仕事をしてもらうの。その分お金を払えば生活ができるようになるし、そうしたら植物園のお花を美しいと思えるようになるでしょう?」



 馬車が止まって、ヴィクトリアは御者にドアを開けさせた。



「ほら、まだ途中だけど! なかなか順調に進んでいるのよ」



 ステップを踏んで降りた先は、舗装されずにデコボコしていた土の道ではなく、綺麗な石畳の敷き詰められた平らな地面だった。


 顔を上げると、建設途中の大きな建物があった。優美な外観はほとんど完成されており、見たことのある顔が窓ガラスを運び込んでいた。



「……本当は、わたくしは案を出しただけで、作っているのはお父様だけど」



 小さな声でこそっと告白したヴィクトリアは、握ったままだったリアムの手をゆらゆらと振った。



「でも、これじゃあ全部の問題は解決できないって言われたわ。助かる人もいるけど、助からない人もいるって。それと、リアムみたいに直接助けるのも、本当はあんまり良くないのですって」



 難しい顔で考え込んでいる。


 アイラ公爵家には、子供がヴィクトリアしかいない。だから、公爵はヴィクトリアに教えられることを全部教えているのだと聞いた。


 ヴィクトリアは領地のためにできることを考えている。それが貴族として当然のことなのだと、言っていた。


 彼女が領地と、そこに暮らす人々のために生きるのなら。リアムは、ヴィクトリアのためだけに生きよう。


 自然とそう思ってしまうくらいには、リアムは既に、ヴィクトリアに心を寄せていた。


 救われた命、この体。そして心も、すべて。



「私、は、ヴィクトリアお嬢様に助けていただいた身ですから。お嬢様がしたいこととか、考えていること、全部叶えられるように、手伝いたいです」


「……ふふふ。ありがとう、リアム。だけどリアムは、わたくしの傍でその美しい顔を見せてくれるのが、一番なのよ」


「それじゃあ」



 少し悩んで、リアムは言った。



「いつも暗い顔してます。お嬢様、その顔が好きだって言ってたし」



 ヴィクトリアはきょとんとしてから、おかしそうに笑った。



「リアムが望んでそうするなら、それでいいわ!」



 その後、アイラ公爵に「リアムのせいでヴィクトリアの趣味が歪んだ」と盛大に嘆かれたのは申し訳ないと思う。






 ヴィクトリアとの思い出は、どれも優しくて暖かい。


 貴族として、アイラ公爵家の一人娘として。美しく生きることを己に課したヴィクトリアを、リアムは支え続けると誓っている。


 すべてを捧げたのだ。ヴィクトリアのためだけに生きると決めた。


 ――たとえ、もう彼女の従者には戻れないとしても。

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