第40話

牛田さんは暗闇を進んでいった。昼間は何とも思わなかった林道が、夜だとゾッとするほど印象が変わる。足元を照らす僅かな明かりは光度が低いのか、何度も点滅して使い物にならなかった。


緩い坂道を上がると道が広くなっていた。どうやらここが空地らしい。わたしは懐中電灯を揺らして辺りを見渡すが、そこは木の枝など一つも落ちていない芝生だった。わたしは大声で「ここじゃなーい」と叫んだ。


夜の山奥は虫のさえずりと、近くを流れる小川のせせらぎが聞こえて、それ以外の人の気配はなかった。班員の返事がないので牛田さんは両手を筒の形にして、先ほどより大きな声で叫んだ。と、その弾みで右手にあった懐中電灯が、ポトンと芝生に落ちた。


牛田さんは何度もスイッチを入れてみるが、懐中電灯はそれっきり点くことはなかった。


牛田さんはその場に立ち尽くした。懐中電灯がないと、到底一人で林道を戻ることはできない。このままだと足元どころか、前か後ろかさえもわからない。適当に走って、道のある所に進もうとも思ったが、視界の見えない山奥は何が潜んでいるのかわからない。そう考えるとむやみやたらと動かずに、その場でじっとしておくことが、一番の得策だと牛田さんは思ったのだった。


暗闇の中で、牛田さんは静かに下を向いていた。このまま先生たちが助けに来るのを待ち、何とか会場に戻れたとしても、もうキャンプファイヤーはすでに始まっているだろう。そうなると、わたしは班員やクラスメイト達にどう顔を向ければ良いのだろうか。わたしは体験学習中、ひとりだけ森の中で迷った女子生徒として、学年中から笑いものにされるのではないだろうか。そんな映像が脳裏によぎって、みぞおちの辺りがキリキリと痛んだ。


けれどいくら待っても、班員がこちらに向かってくる様子はなかった。本来なら牛田さんが帰ってこないことに気が付いて、メンバーが教員らと探しに来るはずなのだが、暗闇の世界に明かりが近づいてくることはなかった。


牛田さんは徐に空を見上げた。下ばかり眺めていたこともあって、夜空に広がる数多の星に気が付かなかったが、牛田さんはその美しさに見とれた。

都内では決して見ることのできない星々の輝き。それは静寂した森の中でひとり佇んでいる自分という存在をかき消してしまうほどに、壮大で神秘的だった。

夜空に広がる星々を見ていると、抗えない自然の力というものをつくづく感じた。今の鬱屈としたこの状況も、何十億年と輝き続けている星にとってはちっぽけで、平凡な悩みだろうと思った。


牛田さんは自力で会場へと戻ろうと思った。暗闇に長い時間いたこともあって、次第に目が慣れてきたのだ。牛田さんは後ろへ振り返ると、手探りで歩き始めた。


しばらく歩いていると、闇の中から人が近づいてくる気配がした。


「おーい」という男の声で、わたしは声の主が隣の席の石村光希だとわかった。

石村はわたしに気が付いたのか、「いた」と叫んでわたしの手を取った。


「やっと見つけた」


と言って、彼はわたしの手を掴んだまま元来た場所へと歩き始めた。


「懐中電灯、持ってきてなかったのかよ」


「ううん。持ってたけど壊れちゃった」


「なんだぁ。じゃあひとりで戻ろうとしたのかよ」


「うん」


石村はへへへと笑った。


石村光希は二年から同じクラスだった。背はわたしより少しだけ高く、目にかかるくらいの前髪に、陸上部で肌はこんがりと焼けていた。

特別ハンサムと言ったふうではなかったが、クラスの四番手か五番手くらいの、さっぱりとした優男だった。


石村はわたしの手を掴んだまま、ぐんぐんと前に進んでいき、まるでいつも通っている道かのように、暗闇に物怖じせず歩いて行った。


「明かり、なくても見えるの?」


わたしは石村の手に懐中電灯が握られていないことに気が付き、不思議そうに言った。


「うん。なくても見える」


そう言って石村は、実家が岩手の山奥にあって、幼少期から暗いところには慣れているのだと言った。


「ここよりももっと暗いんだぜ。道は舗装されていないし、鹿は出るし。でも近くに大きな滝があって、そこを登ったところに、大きな桜の木があるんだ」


石村は家族喧嘩をしたり、嫌なことがあると、必ずその桜の木の下に行って、夜遅くまで帰ってこないのだと言った。


「誰からも相手にされないって、たまに思うときがあるんだ。でもそういう時、実家の桜の木を思い出すんだ。俺だけしか知らない秘密の場所。そこがあるだけで、幾分かは心が救われた気になるんだ」


わたしは桜の木の下で、ひとり佇んでいる石村光希を想像した。


学校ではクラスの男子たちと馬鹿らしいことをしている彼に、そんな繊細な思い出があったとは。わたしは桃色の花びらを純粋な目つきで眺める彼の姿を、目の前で見たような気がした。

そう思うと、今クラスメイトと手をつないでいるこの状況が、たまらなく恥ずかしくなってきて、わたしは


「なんで助けに来てくれたの」


と早口で言った。


「だってお前、キャンプファイヤーの時いなかっただろ」


「そう。枝木を拾ってたから」


「違うだろ。綾瀬にヤられたんだろ?」


そう言って、石村は班員がわざと故障した懐中電灯を握らせたことをわたしに教えた。


「牛田はどこにいるんだって、綾瀬たちに聞いたんだ。そしたらあいつ、郁実ちゃんは今も枝を拾ってるよって、笑いながら言ってたんだ」


「じゃあこのこと、先生たちは知らないのね」


「ああ、キャンプファイヤーは俺が勝手に抜け出してきたからな。あの盛り上がった場で、先生たちも誰がいるかなんて気にしてないから、何も心配することないぜ」


わたしは、なぜ石村がキャンプファイヤー場にいないことに気が付いたのだろうかと思った。クラスでも、わたしは目立つようなタイプではなかったし、席が隣と言うだけで石村とあまり接点はなかったからである。


「ここをまっすぐ行けばもうすぐだ」


石村は相変わらずわたしの手を掴んで前へと進んでいた。

彼の言う通り前方に明かりが見えてきた。どうやら今はフォークダンスの時間らしく、離れた場所からでも音楽が聞こえた。


「そのまま戻ると何か言われないかなぁ」


わたしが石村にそう言うと


「もうすぐキャンプファイヤーが終わる。ここから様子を眺めて、片づけに入ったらそのまま戻ろうぜ」


と言って、木の陰から焚火を眺めた。

すると石村が、おもむろにわたしの手を持ち上げた。

どうしたのとわたしが聞くと


「フォークダンス。まだ終わってないだろ」


石村はぎこちない足取りで、曲に合わせながらわたしの腕をゆららゆらと揺らした。

初めは背中を向けていたため、彼の顔はわからなかったが、途中くるりと反転して、互いに顔を見合わせるターンになる。

わたしは石村の顔をまともに見ることができなかった。曲が終わり、また一から音楽が流れ始めるときの、体制を直す一瞬に、ちらりと目に入った彼の、燃え盛る炎に縁どられた赤黒い顔と、汗で濡れぼそった前髪が、何とも蠱惑にわたしの目には映っていた。

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