第36話

 わたしはクラスメイトと話すことが恥ずかしかった。彼女たちはきまって、アイドル戦士が登場するアニメについて語り合う。毎週日曜の朝八時からやっているやつだ。幼少期からライダーものばかり見せられてきたわたしにとって、華やいだ女の子の出るアニメは未知の世界だった。クラスの男の子に人気の、リーダー格の女子がそのアニメを見たというと、必ずその周りの子たちも見たと言う。次第にその数が増えていき、そのアニメはクラスのプチブームになった。


 わたしは必死になって覚えた。テレビのリモコンは兄が独占していたから、わたしは教科書を読むふりをして、クラスメイトの会話に聞き耳を立てる。最初は何を言っているのかチンプンカンプンで心が折れそうになるが、それでも何度も聞き耳を立て、想像力を働かせる。ノートの端に書いたりもした。そうしてようやく、わたしはクラスの一員になれたのだ。女の子たちの前でありったけの知見を披露する。そうすると、彼女たちは決まって「なぁんだ。三浦さんも知ってたのね」と言って、わたしを輪の中に入れてくれるのだ。わたしは内心苦虫を噛み潰したような気持ちで会話に参加する。話の輪に入れないものはのけ者にされるくらい、まだ小学生ながらもわかっていたからである。


男ばかりの家で生活をする苦労は他にもある。授業参観の日は特に大変だった。後ろにズラリと並ばれている婦人の中から、父を見つけるのは簡単だった。ワイシャツにグレーのスーツを着て、髪を七三に分けている中年の男は、隣のお母様方に軽く挨拶を交わして、笑顔でわたしに手を振った。


わたしは父親に、授業参観に来てほしくなかった。兄と同じ学校に通っていることもあって、わたしのクラスに顔を出すのは必然だったし、友達は悪気なく「お母さんは来ないの?」と聞いてくる。クラスが変わるごとにその説明をするのは面倒だった。こういう時、男の子ならハッキリと、母親がいないという旨を伝えることができるのだが、なぜだか当時のわたしにはそれができなかった。適当に言葉をつなぎ、「用事があって今日は来れないの」と嘘をついてその場を乗り切った。今思えば、周りが母親だらけの教室に、一人ぼっちで観覧している父親の、申し訳なさそうな悲しい顔を見たくなかったからだと思っている。


だからわたしは、せめて父親が来てくれている授業参観だけは、家にいるときと同じように元気な三浦ふみを演じた。兄や弟と話す時のように、口を大きく開けて発言し、つまらない教師の戯言にもお腹を抱えて笑った。父親に余計な心配を掛けたくなかったのである。


そんなこともあって、わたしは次第にクラスの男子達と遊ぶようになっていった。男の子たちは昼休みになると、校庭の真ん中でドッジボールを始める。わたしはその中に入って、汗だくになりながらボールを投げた。髪はベリーショートで、兄のおさがりの短パンにTシャツ。一番動きやすい格好だったし、なにより服がそれしかなかったのだ。それでもたまに、校庭の隅で縄跳びをしているクラスメイトのワンピースに心が揺らぎそうになるが、わたしにはこれが一番似合っているのだと自分に言い聞かせた。そうすると、自然と幼少期の記憶がよみがえってくる。チャイルドシートから眺める、汗だくになりながらわたしたちの送り迎えをしている父親の笑顔が頭にチらついて、わたしはまた男の子たちとドッジボールを始めるのだった。


父親はそんなわたしを気にかけて、たまに女物の服を買ってきてくれたことあったが、わたしはこんなものは自分には似合わないだろうと言ってタンスの奥にしまった。わたし達が小学校に上がるにつれ、服装やおもちゃにかかる費用も保育園に比べてはるかに高いものになっていく。もちろん当時のわたしは、そんなことを知っていたわけではないが、うちの家計が他よりも厳しいことを、父親の顔色から薄々感じていたのかもしれない。皆が夜寝静まった後、わたしはタンスからその服を取り出して試着してみる。当時流行っていた夏物の白いワンピースだ。わたしはそれを着終えると、丁寧に畳んで抱きしめた。


わたしが中学にあがる頃、父はわたし達にひとりの女性を紹介した。


牛田郁実というその女性は、なんでも、父の行きつけの喫茶店でパートをしていて、たまたま店にいた父と、クラシックバレエの話に花が咲いたのだと言っていた。


「ほら、ふみも知っているだろぉ?『白鳥の湖』。むかし母さんがやってたやつ」


母は幼少期からバレエを習っていて、大学卒業まで続けていた。都内にある有名なバレエスクールの一番上のクラスに在籍して、コンクールで入賞したこともあった。卒業後はその道に進もうと思っていた矢先、足首のねん挫で長期療養を強いられ、それっきりバレエの熱が冷めてしまったのだと、母親のDVDを見ながら父が語っていたことを思い出す。父は大学時代、母と何度かバレエコンサートに行ったことがあり、プロポーズをした時も、バレエコンサートの帰りだったと言っていた。


「今度の日曜日、みんなでバレエを見に行こう。今、国立劇場でウクライナのバレエ団が公演をしているだろ?そこのチケットが運よく人数分取れたんだ」


父はそう言って、チケットをわたしに渡した。


わたしは一目見て、この女性と父親は合わないだろうなと思った。

肌艶から察するに二十代後半だろうか。茶色の髪に、中東の血が感じられる堀の深い目鼻。首は細いのに肩幅がしっかりしていて、ふっくらとした胸の厚みが感じられた。

わたしの中にある母親像とまるで違う、どこかの嬢のようなその女性は、わたしと目が合うとにこりと笑った。


わたしは初め、この牛田郁実と言う女性が、中年の男をたぶらし、現金をもぎ取る詐欺師か何かだと勘繰った。しかし牛田さんは父からお金をもらうどころか、わたし達の好きなものを何でも買ってくれたのだった。


「どうして何でも買ってくれるの?」


中学一年生の夏。わたしと牛田郁実は兄や弟に内緒で流行りの映画を見に行った。その帰りにブティックに寄った牛田さんは、夏物のブラウスをわたしにプレゼントすると言ってきたのだ。


「だって、フミちゃんこんなのもってへんやろ?絶対似合うのに」


「だからって、牛田さんが買わなくてもいいじゃないですか。わたしのお小遣いで買いますよ」


「いいのいいの。今日はわたしとフミちゃんの初デート。おばさんおごっちゃる」


そう言って、勝手に店員と話を進めた牛田さんは、服の入った紙袋をわたしに握らせた。

「このこと、充くんや淳には内緒だよ。バレたら俺にも買ってっていってくるから」


牛田さんは笑いながらそう言って、人差し指を唇に当てた。

充はまだ小学生だから、おもちゃを買ってとねだってくるのは想像がついたのだが、高校一年生の兄が牛田さんに物をねだるとは到底思えなかった。


「お兄ちゃん、牛田さんにねだってくるの?」


「うん、たまにね」


「どんなふうに?」


牛田さんは黙って視線を下に移した。


「あれ買ってこれ買ってって言ってくるわけじゃないけど、何ていうか……テストで何点取ったらとか、今度の試合で勝ったらとか、条件を付けてくるの」


兄は高校からバレーボールを始めた。身長は百八十くらいで、運動神経もよかったから、一年生ながらすぐにスタメンに起用されたらしいと、わたしも知らなかった兄の話を牛田さんはいくつも語った。


「お兄ちゃんと仲がいいんですね」


「うん。あの子勉強熱心だから、いつもわたしに聞きに来るの。大学に通いたいみたいだけど、うちは子供三人だし、フミは中学生、充がはまだ小学生だから、これからどんどんお金が必要になってくる。そうなると、長男の俺が暢気に大学なんて行っていいのかなって、いつも難しい顔をして部屋に入ってくるの」


牛田さんは横浜にある国立大学を卒業し、商社の事務として一年働いたが、昔からの夢である喫茶店をはじめたくて、父の会社付近にあるカフェで武者修行をしていたのだった。


「わたしもね、奨学金で大学に入ったの。親は二人とも高卒で、女に学なんていらんて言うタイプだったから。卒業して大手に就職して、それでも結局一年で辞めちゃったんだけど、わたしは大学に入って良かったなって思ってる。いろんな人に出会えたし、神戸ではできないような経験を幾つもできた。今のわたしがいるのは、あの時両親の反対を押しきってでも大学に行こうと思い切った、思春期の闘争のおかげかな」

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